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三代目支配者であるアメリア・スミスはアメリカ、フィラデルフィアに住む三十歳の女性だった。よく笑う明るい性格で、週末には教会や美術館に赴き、海沿いの道を歩いて帰ることを好んだ。
彼女は支配者に選出されて大いに悩んだという。一般常識程度のレベルではあるもののヴィカス・クマールやワン・シウジエの知識はあり、先代二人のようにはなれないという思いがあったのだ。独立宣言の地で生まれ育ったことから政治には関心があったが当事者として活動しようとは露ほども頭にはなく、また、平穏は好きだが自身の持つ注目を浴びたい欲求は自覚していた。
アメリア・スミスが初めて下した〈命令〉はなんてことはない、ファッション雑誌の取り置きだった。雑誌の取り置きをお願いしたいのですがよろしいでしょうか。そんなに強く言わなくても大丈夫ですよ。彼女が日常の〈命令〉を記したSNSへの投稿は新しいジャンルの、つまり、支配者ジョークとして拡散され、以来、親しみやすい支配者として人気を博すことになる。
そのせいもあったのかもしれない。ほどなくして彼女は四六時中パパラッチや運動家に追い回されるようになり、結局、長年勤めていた雑貨店の退職を余儀なくされた。
しかし、急変した生活へのストレスはその後も際限なく膨らみ続ける。
そして、事故が起こった。教会からの帰り道、生活用品を買うために歩いていたアメリアはある男に声をかけられた。アメリアをしつこく追い回していたパパラッチの一人で、その顔を見た途端、彼女の怒りは爆発した。そこで彼女が発した〈命令〉は非常にシンプルなものだ。「離れて」。ただそれだけ。
問題であったのはその声の大きさと対象だった。彼女の叫びは無差別の〈命令〉としてその場にいる人に、交差点で停車中の車の運転手にすら届いてしまった。歩行者の一部が道路へと飛び出し、ハンドルを思い切り切った車が急発進する。結果、十人以上の死者を出す事故が起こり、彼女は間接的な殺人者という烙印を押された。
そして、アメリア・スミスはほどなくして自殺する。支配者となった五ヶ月後のことだった。最近になってようやく同情の声も聞こえるようになってきたが、流言飛語の混ざった事実は未だ根強い批判の種になっている。
◇
「学生なんかにはウケがいいらしいよ、今回の〈命令〉」
朝のキャンプ場は空気に冷たさが残っていて、爽やかな風が吹いていた。
スマートホンでニュースをチェックしていたナコは微笑んでいる。世間の人々の反応を目にしたところでいい気分になるはずがない、と俺は自発的に情報をシャットアウトしていたが、ナコはあまり気にしないようだ。興味深そうにインターネットの表面に浮かび上がる言葉を拾っていた。
ちなみに、俺たちの居場所や特徴、個人情報などは出回っていない。出回らないように、アキが〈命令〉している。テレビ出演の際、俺たちの情報を遠隔地へと発信することを禁じたのだ。メールや電話、SNSなど、張り紙や車上宣伝も同様である。数の優位性を削がなければ即座にこの悪戯がすぐに終わってしまうからだった。
「あ、ねえねえ、中学校とか高校では学校を宿泊所として開放するんだって。ケイちゃんたちのとこもそうなのかな」
「その前に謝罪会見とか校長がしてそうだな」
俺は鼻で笑いながらスマートホンの電源を入れる。ホーム画面が映し出された途端、手の中でバイブが暴れた。電話やメッセージの着信数は夥しいほどで、辟易する。俺は母親に「後で怒ってもいいから心配するな」とだけ送り、再び電源を落とした。友人たちには説明するのも面倒だった。
溜息を吐く。と同時にアキが水場から帰ってきた。どうせヘルメットで潰れるくせに髪の毛が整えられていた。
「準備はできたかよ」
「うん」アキは歯ブラシをプラスチックの箱に投げ入れ、頷く。「じゃあ、今日はどこへ行こうか。富士山方面とかはどう?」
「人、多そうだねえ」
「つうか、北に行ったほうがいいんじゃねえの? 東海道を進むよりマシだろ」
「じゃあ長野方向は? 避暑地とかあるし」
「だから、んなとこ人多いだろうが」
「長野はそばとかおやきがあるかな」朝食がまだだからか、ナコは食事のことばかりを例に挙げた。「西だと焼きそばとか餃子とかだね。名古屋まで行けば味噌カツもいいかも」
「さすが趣味がツーリングってだけあるね」
アキはそう感嘆したのち、少しだけ考えて、言った。
「その選択肢だと僕は西かなあ」
「その言い草だと長野県民が押し寄せてくるぞ」
「そしたらそばとおやきを持ってきてもらおうか。静岡県民の手にかかれば焼きそばと餃子にさせられそうだけど」
俺は呆れ、周囲を見渡す。幸い、県産品に誇りを持つ長野県民は周囲におらず、俺たちは進路を西へと決めた。
◇
肩触っていいですか、だめです。バスガスばくはふ、失敗したからもう挑戦権はありません。
小休止が挿まれるごとにアキは声をかけられるようになった。まだ昼にもなっていないというのに気の早い人たちが帰宅禁止令の解除を目論んだのだ。アキはそのたびにいちいち説明を繰り返し、ルール違反として挑戦権の凍結を行った。事前の演説にはない追加のルールで、ほぼすべての挑戦者たちは青ざめたが、そうでもしないと俺たちの行軍が大名行列になってしまう。それに、アキは支配者だ、これくらいの傍若無人さは許されるだろう。
俺たちは国道百三十九号線を走り、山梨県側から富士山の東から静岡へと向かった。峠道の多いルートで、勾配の急さとカーブの多さにひやひやとしたが、その分、開けた場所から覗く景色は朝の空気に覆われて清々しいものだった。
寄り道である河口湖に辿りついたのは昼頃だ。天気がよかったため、さすがに観光客で賑わっている。食事を摂る際に正体が露見しないかと懸念したものの屋台がちらほらと散見され、俺は胸を撫で下ろした。俺たちは帽子と眼鏡で変装してプラスチックカップのほうとうやアイスクリームなどを食べたり、人目のつかないところで思いきり寝転んだりした。尻や腰にある疲労感は完全には取れなかったものの、微炭酸の弾けるような速度でじんわりと緊張がほぐれていった。
目的地はどうする?
当てのない逃避行、と言えば聞こえはいいが、実際のところ、観光気分がいささか以上に蔓延している。決まっているのは帰宅禁止令の最終日に自宅へと到着していることと旅の上限金額くらいだった。貯めに貯めてきたお年玉やアルバイトの給料を使い果たすことに俺もアキも抵抗はなかった。
「ナコは大丈夫だよね、大人だし」
「いや、バイクのローンとかあるんじゃねえの」
「あるけど、心配しないでいいよ。働いてるし」
「へえ」と俺は芝生の上で欠伸を堪える。「何してんの? 大学生といえば居酒屋、みたいなイメージあるけど、院生はまた違ったりすんの?」
「そんな変わらないと思うけど、あたしはそういうのじゃないなあ。NPOって言うの? そういうところで雑用ばっかやってる」
「よくこんな暇あるよな」
テレビ局の楽屋で大学院生ともなれば研究で忙しい、という会話をした記憶があっただけに関心の具合は強い。学業と労働の両立は大人の証明のようにも思え、俺は素直に「すげえよ」と手を叩いた。するとナコはやや照れくさそうに、言った。
「そんなに褒めないでよ」
「なんでだよ」
「別にあたし、そこまですごくないし。それより」とナコはすぐに話題を戻した。「今日はどこまで行く? 富士宮とかで打ち止めにしとく?」
「そうだなあ……」アキはうつ伏せのまま地図を広げ、鼻先を突きつける。「ここから一時間くらい?」
「四十キロちょいだし、原付だともっとかかるかもね」
「どこに泊まるかにもよるんじゃねえの? キャンプ場なら市街地の手前にあるだろ? それとも今回はビジネスホテルとかにするのか?」
金銭面の懸念はあったが、ナコは昨日が初めてのキャンプだったという。疲れも残っているだろうと思っての提案だった。しかし、ナコは難色を示した。
「高校生二人を連れてビジホかあ」
「いや、別に一緒の部屋に泊まるわけじゃないんだし」
「アキくんも大概いかがわしいなあ」ナコは笑い、首を振る。「じゃなくて、お金はできる限り残したほうがいいよ、ってこと。今回みたいな大移動はないだろうけどさ、いつ入り用になるかわからないし」
「そりゃそうだ」
「じゃあ、とりあえず今日はその辺で」
「最終目的地はどうする?」
ナコの質問にアキは即座に答える。
「ひとまず名古屋城は? 天下人の気分になりたいし」
「まだ足りねえのかよ」
「信長か光秀くらいの気分だよねえ」
「お前、もう家康みたいなもんだろうが」
「何言ってんの、僕は家康になんてなれないって」
◇
会話するたびに時間が経つ。会話するたびに走行距離が伸びる。会話するたびに――。
マイナンバーの末尾が三と八の人々は幸運だ。彼らのうち、運と滑舌のよい一人ずつのおかげで多くの人が家に帰る権利を得た。単純計算でおおよそ二千四百万人だろうか。もしかしたら何かしらの偏りで数字は増減するのかもしれないが、その程度の人々は歓喜に震えたはずだ。
帰宅禁止令四日目の朝、俺たちは岐阜県にいた。いた、と言ってももう出立するところだ。既にキャンプ道具はまとめており、アキも意味のない髪のセットを終えている。だというのに、ナコは興味深そうに携帯電話のワンセグを眺めていた。
「おい、そろそろ行こうぜ」
「うん」と生返事が浮き上がる。「ちょっと待って、今、特集だから」
画面を覗き込む。左上には「あなたはどう? 帰宅禁止令」という文字が躍っており、街頭インタビューの様子が映し出されていた。
女子大生のグループが答える。『友達が免除されたのでそこに泊まってまーす』
サラリーマンが苦い顔をする。『会社で寝泊まりです、いい迷惑ですよね』
主婦は微笑みを湛えて、言う。『今夜から家族と旅行へ行くんです』
男子高校生たちは騒いでいる。『学校で勉強合宿ですよ、最悪』
「みんないろいろだよねえ」
「うちの親は小さい子どもがいる家にお邪魔するとか言ってたな。アキんとこは?」
「連絡したら怒られるからしてないよ」
「マジかよ」
俺は一日一回電話をしていただけにアキの態度に驚きを隠せなかった。同時に羨みもする。一般的な価値観より親のありがたさは自覚していたものの煩わしさはあり、自由に行動できるだけで心持ちはだいぶ違っていただろう。
ナコの持つスマートホンの画面ではインタビューが続いている。
あなたが支配者だったらどんな命令をしますか?
小学生に将来の夢を訊くような、他愛のない質問ではあったが、編集されているだけあって現実離れした回答は出てこない。とはいえ、どれもこれもが他人事という意識から離れられていないような、上擦った意見ばかりだった。
『全国民から一円ずつ多く徴収するのとかよくないですか?』
『えー、週休三日制を全企業に導入しますね、労働環境の改善は必要ですよ』
『夫のギャンブル癖をやめさせますよね、やっぱり』
『犯罪のない社会にしたいなあ』
唯一の専門家であるアキは何を考えているのか、街の声に耳を傾け、うっすらと笑みを湛えていた。俺は何かを訊く気にもなれず、また、ナコも同様のようだった。身近に支配者がいるだけに話に花は咲かない。
やがて映像は別のニュースへと移り変わり、ナコは画面を消した。
「行こっか」
これから三日かけて八王子へと戻る予定だ。この数日間、特別なことばかりがあったはずなのに、惜しむ気持ちになれないのは帰ってからも特別が続くからだろうか。それとも、この起伏すら平坦に感じてしまうほど麻痺してしまっているからだろうか。
結局、アキの隠し事は判明しなかった。
一方で、俺があの後大崎と二度面会したことも知られていない。そのせいか、アキが何か隠しているのならそれでもいいと思い始めていた。気後れから、ではなく、そんなものだ、という気持ちが強かった。
俺たちの旅が終わる。なんだかあっけなさ過ぎる幕切れで、アキが小手調べだと言った理由もなんとなく理解できたような気がした。八王子駅前のときと同じだ。小さなものならともかく、生活の根本を揺るがすような事件などそうそう起きやしないのだ。
そんなものは――。
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