3-2


 生麦生米生卵、バスガス爆発、東京特許許可局。


 出演終了とともに肩を掴んで思いつく限りの早口言葉を並べると、アキは「馬鹿なの?」と眉を上げた。「明日の十二時以降、って言ったじゃん」

 きっとその行動まで予測していたのだろう、俺は途端に恥ずかしくなり、アキの肩を強かに叩いてごまかした。


「馬鹿はお前だろ。何だよ、あの〈命令〉」

「あ、さっきケイスケとナコにした〈命令〉は解除します」


 背骨を優しく抜き取られるような奇妙な感覚が通り過ぎる。解除条件すらも無効化された実感を覚え、俺は大きく舌打ちをした。

 それだけで不満が解消されるわけがないが、しかし、アキの態度に毒気が抜かれたことも確かだった。俺は嘆息する。少しだけ冷静さを取り戻す。すると、周囲の反応の鈍さに気がついた。

「アキに詰め寄りたい」という気持ちを押し殺す、スタッフたちの挙動。ほとんどすべての人がアキをちらちらと覗き見ながら、なんとか仕事に従事している。〈命令〉が生きているのだ。彼らはアキの〈命令〉どおり、放送が終了するまで自分の業務をこなすに違いない。もはやこの場に留まる意味も感じられず、俺は控え室へと戻ることに決めた。


 テレビ局の楽屋は意外と広々とした作りをしている。中央に菓子やペットボトルの載せられた長机があり、壁には大きな鏡がいくつも並んでいた。俺は現実を直視しないよう、鏡から目を逸らし、テーブルの上から菓子を一つ摘まんだ。アキはお偉いさんと話をするために別れていて、ナコも電話の応対で席を外していた。

 俺の携帯電話にも着信が入っている。特に母親からの連絡が激しく、画面に並ぶ同じ番号にやや暗鬱たる気持ちになった。折り返したところでなんらかの叱責を受けるだけで、説明義務とともにポケットの中へと押し込んだ。せっかくテレビ局に来たのだから、と記念に写真を残しておこうかとも思ったが、なんだかそれも億劫だった。

 お茶を飲み、息を吐く。ドアのほうに視線を寄せるが、誰かが戻ってくる気配はなく、俺は呻きながら足を投げ出した。


 見知らぬ部屋で一人になるとさまざまな考えが浮かんでくる。

 世間は先ほどの放送をどう思っているのか、だとか、アキはどうして一言伝えてくれなかったのか、だとか、今までとこれから、だとか。だが、種々の議題はとりとめもなく押し寄せてきて、熟考する間もなく、波に浚われていく。結局、俺の思考は何一つまとまらないまま溶け、情けない呻き声だけがまとまりを持つに至った。

 そうやって無為な時間をどれだけ過ごしただろうか。

 五分か十分か、俺が漫然と天井を眺めていたところでノックの音が響いた。一拍間を置いて「どうぞ」と応じると浮かない顔のナコが入ってきた。

 俺は椅子からずり落ちそうになっていた姿勢を、常識的な範囲にまで戻す。


「着信は落ち着いたか?」

「あ、うん」ナコは携帯電話を肩掛けの鞄にしまいながら、頷いた。「みんな、意外と見てるもんだね」

「感染するみたいになってんだろ」

「だろうね、あの〈命令〉だと」

「降りるなら早いほうがいいぞ。俺だってもう降りたい」

「今さら?」とナコは苦笑する。「もうバスは走り出しちゃったし」


 降りたって大怪我するだけだよ、と言外に続き、俺は表情を緩めた。しかも困ったことに明英号は俺たちが諫言をぶつけたところで止まらないのだ。乗客である俺やナコに可能なのはもはや減速のシュプレヒコールと覚悟のシートベルトを締めることくらいしかない。これ以上の提言は無駄と判断し、俺は話題を変えた。


「そういや、顔、暗いけど、どうしたんだよ?」

「ああ、先輩に怒られちゃって」ナコは肩を竦め、俺の正面に座る。「どうせ普段から家に帰らない人なのにね」

「院生って大変なんだな」

 ナコは他人事のように茶化す。「噂によるとそうらしいね」

「ん? それだけ?」

「それだけ、って?」


 目をぱちくりとさせるナコに、俺は肩を竦める。


「なんか、そういうので落ち込むタイプに見えなかったからさ」


 どうやら思い当たる節があったらしい、ナコは一度視線を下げ、顔を顰めた。


「……いやさ、なんかいろいろ考えちゃって」

「何をだよ?」俺はそう言ってから予想を口にする。「あ、〈命令〉についてだろ。そう言えば、俺たち、初めてアキの〈命令〉を受けたもんな」

「ああ……そうだねえ」ナコは何度も首を縦に振る。「それもそうなんだけどさ、それよりもアキくんがなんであんな演説をぶったのか、がさ」

「なぜ支配者って呼ばれてるか、ってくだりか? あんなの、また適当なんじゃねえの」

「中身っていうよりも、その理由ね。なんかさ、アキくん、隠し事……隠し事って言っていいのかな、あたしにもよくわからないんだけど、大事なことを教えてくれてないような気がして」


 ペットボトルを掴もうとしていた手が止まった。ナコは目を伏せていたが、瞳には確信めいた光が宿っていた。愚にもつかない予想を垂れ流しているわけではなさそうだった。


「どういう意味だ?」

「あたしだってわからないよ」とナコは無理に笑いを繕う。「でも、たぶん、うっかりとかあたしたちを驚かせようとしてるとか、そういうのじゃない。と、思う」

「それ、つまり、訊いても無駄ってことじゃねえか」

「そうなんだよねえ」


 ナコは「お手上げだよ」と嘆き、実際に両手を掲げた。

 俺も鼻で笑いはしたものの、果たしてそれで済ませていいものなのだろうか。もちろん、ナコの疑念が正しいという保障はない。だが、アキが隠し事をしているのなら大事なものに繋がっているような気がしてならなかったのだ。

 宇宙人、全国を巻き込んだ悪戯、突然付け加えられた解除条件。とはいえ、アキの悪癖を加味すると推測などほとんど意味を失ってしまう。

 結局、俺も「お手上げだ」と思ったところで、スマートホンが音を立てた。着信音で俺たちのグループチャットへのメッセージだとわかる。ポケットから取り出すと画面には「追加のインタビューを撮ることになりました、ごめん」という文字が表示されていた。


「なんて?」鞄から取り出すのが億劫だったのか、ナコは俺の手元を覗き込んでくる。

「これからまたインタビュー撮るんだってよ」

「まあ、そうだろうね。どのくらい時間かかるんだろ」

「訊いてみるけど……一時間で済むものでもねえだろ」

「先帰るのもなんだしなあ」

「もう寝て待ちてえよ。でも、ここじゃ寝にくいんだよな」


 いつになく早起きしたため、睡魔がにじり寄ってきている感覚がある。だが、まさか床や机に寝そべるわけにもいかず、俺は小さく唸った。


「あ、じゃあ、アキくんに言って部屋変えてもらおうよ。和室っていうか、畳の部屋もあるだろうし」

「〈命令〉させるのか?」

「お願いしてもらうんだよ。あっちも急に予定増やしたんだから聞いてくれるでしょ」


 支配者のお願いはどれだけ〈命令〉との差異を持っているのか、あまりにも不確かだったが、眠気には勝てそうになかった。ほどなくして俺たちは別の部屋に移動し、すぐさま眠りへと落ちた。濁っていく意識の中で、美人が隣にいても睡眠はできるのだな、と人間の根源的な欲求や感情の強さにおかしくなった。


        ◇


 夕暮れの中を原付で走っている。ナコのバイクが先頭で、次にアキ、最後尾が俺だ。荷台に大荷物を載せているせいでスピードはさほど出ていない。フルフェイスのヘルメットから見てくれだけの疾走感が醸し出されているのではないかと怯え、実際の速度との乖離に、何度羞恥心を拭い去っても嘲笑の予感は晴れなかった。

 これがテレビ局の楽屋で見ている夢であるなら楽しかったのに。

 朝早くから東京を東西に一往復した俺たちは準備の時間を経て、十七時前には八王子から抜け出していた。電車の分が大半ではあるが、移動距離は百キロメートルを越えている。らしい。スマートホンで雑に検索した結果だから正確ではないだろうが、自分の覚悟がまだまだ甘かったと認識するには十分な数字だった。


 奥多摩に向かっていた。

 理由は単純だ。人がいなそうだから、である。盆休み前とはいえ、夏休みシーズンだからその限りではないようにも思えたが、アキの「帰宅禁止令」のせいで翌日の東京脱出を余儀なくされている以上、俺たちに選り好みできるような選択肢はなかった。一人でやれ、だなんて段階はとうに過ぎている。

 それにしたって、午前は華やかな都心にいたというのに、夜は秘境だ。背中には積載の限界まで積み上げられた箱の硬さが当たっており、その感触は否応なく俺に現実感を与えた。箱の中身はアキの父親の遺品であるキャンプ用品や着替えなどの生活用品だ。詰め込まれた荷物は重く、気を抜けば前輪が浮くような感覚に襲われた。


 前方でナコのバイクのブレーキランプが光る。赤信号だ。交差する道路は幅が広く、信号待ちも長くなりそうだったため、俺は暑さに耐えかねてヘルメットを外した。フルフェイスでは熱気がこもって仕方がない。その様を目の端で捉えたらしく、アキがシールドを上げて批難してきた。


「ケイスケ、ちゃんと被ってなよ」

「だって暑いじゃねえか。半ヘルじゃねえから辛いんだよ」

「半ヘルは顔が丸見えじゃん」

「逆に注目を浴びるような気もするけどな」

「今は半袖フルフェイスより半ヘル支配者のほうが目立つんだよ」


 そうだろうけどよ。俺は口の中だけでそう言い、顔中に流れる汗を拭った。アスファルトの輻射熱が強く残っており、吸った空気で肺が硬く凝固するような感触を味わった。信号はまだ赤のままだ。が、顔を晒し続けるリスクもあり、俺は汗で湿ったヘルメットを被りなおした。

 そこで先頭にいるナコが手を動かしていることに気がついた。続いてインカムに「休憩する?」と声が入った。アキが「もう少し行こうよ」の「もう少し」と言ったあたりで俺は即座に遮る。


「休憩しなきゃ死んじまうよ」

 くすり、とナコが笑う。「じゃあ、次、コンビニ見つけたら入ろうか。あ、オゴリはないからね」

「いいよ、インカムだって貸してくれたし、十分、お世話になってるしさ」


 日頃からバイクに乗っているだけあってナコの趣味はツーリングであるらしい。そのおかげで俺たちはバイクに乗りながらでも会話ができている。

 だから、俺たちはいろんな話をした。


 ――たとえば、こんなことをしでかして家族はどう思うか、という話題だ。これに関して俺たち三人はほとんど同じように投げ遣りになっていた。説教を食らうのは確定事項として、それがどれだけ厳しいものになるか、という予想で笑ったほどだった。


「ケイスケのお母さん、厳しそうだもんね」

「普段は緩いんだけどな。線を超えるとすげえ怒鳴るんだよ」

「線?」とナコが訊ねてくる。「やっちゃいけないことの、線?」

「そうそう。昔、水切りの練習してたことがあったんだよ。それで他人の家の窓ガラス割っちまってめちゃくちゃ怒られたり、とかな」

「いや、なんで水切りで窓ガラス割るの? あれって川とか海でやる遊びだよね」

「水たまりでやってたんだよ」

「そりゃ怒られるよ」

「つうか、ナコはどうなんだよ」

「ナコの親は緩そうだよね」とアキが笑う。すると、ナコも「まあねえ」と肯定した。

「厳しくはないし、この歳だしね。呆れはされても怒鳴られたりはしないかも」

「ずるいなあ、それ」

「ずるかないよ……あ、でもアキくんとは相性良さそうだなあ」


 俺は唇を舐め、質問を挿む。


「アキは大丈夫じゃないだろ。おばさん、泣くんじゃねえのか?」

「どうだろうね」アキは遠くの山に言うような調子で唸った。「あんまり言いたくないけど、母さんは僕が支配者になったとき、結構、覚悟決めてたみたいなんだ」

「覚悟?」

「僕はこんなんだし」

「自覚はあるのか」

「僕のことを忘れてもらおうかと思ったけど、仕事場でも話題になるだろうし、あとは心労で病気が悪化しないのを祈るだけだね」


「無責任だなあ」とナコが囃し立てたところで、俺は口を挟んだ。流してはならない言葉があったからだ。


「おい、アキ、〈命令〉じゃそんなのできねえだろ。それとも何か隠してんのか?」


 ミラー越しにナコの視線を感じた。あまりに直接的すぎる、と批難されているようにも思えたが、迂遠な言い方ではアキには通じないのだ。

 だが、俺の予想とは裏腹に、アキに動揺はなかった。


「そりゃ僕の〈命令〉だけじゃ無理だよ。宇宙人にお願いするとか、自発的に忘れてもらうとか、方法はあるでしょ」

「なんだよ、それ」


 口調は真面目だったが、それだけに突飛な冗談としか思えず、俺は鼻で笑った。


 ――あるいは、普段の暮らしについても語り合った。学校の生活が主な話題となり、行事や授業の話をしていくうちに、やがて受験の話に変わった。俺たちも来年は受験生で、こんな馬鹿騒ぎなんてできなくなっているだろう。深く考えると憂鬱な気分になりそうだった。


「そうだよねえ、あたしも受験は辛かったよ。でも、過ぎればいい思い出になったりもするし、がんばりなよ」

「ナコは喉元を過ぎ去ってるから平気なんだろうけどさ」

「こっちは目の前でもうもうと湯気立ててるんだっつの」

「あたしがその気だったら勉強くらい教えるのになあ」

「悔しそうに言うくらいだったらその気になってよ」

「つうか、ナコって院生って言ってたけど、なんの勉強してんだっけ?」

「心理」ナコは即座に、短く答えた。「どっちかって言うと、臨床のほうかな」

「じゃあ、将来はカウンセラー?」

「とも、違うかな。説明するの面倒なんだよね、心理学って幅広いし。統計取って数字眺めてる人もいればフィールドワークする人もいて、本当に人それぞれ」


 もしかしたら、研究の一環でこうしているのだろうか、と俺は疑う。とはいえ、幻滅や軽蔑に類する感情はなかった。むしろ専門家であるならば心強い面もある。

 その後も、俺たちの会話は続いた。暑さから逃避するように、時折、進路の伝達を含めながらも、ほとんど切れ間はなかった。途中で恋愛の話などにもなったが、俺たちには特筆すべき事情はなく、ナコも気を引くような逸話を持っていないようだった。

 太陽は既に橙に染まっている。山々が夕陽を稜線の上へと押し返すようにしばらく粘っていたものの、空は藍色を強めていった。もはや人工物は道路と街灯くらいになっており、疲れが尻から背中を登って肩や首に絡みついている。

 キャンプ場に辿りついたのは泣き言を溢す直前になったときだった。

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