3 西に逃げればまだ明るい
3-1
ナコの携帯にワンセグついてるからそれで見るよ。
そう言ったのに、俺はテレビ局の撮影スタジオにいた。ナコも一緒だ。アキに合わせて早起きしたため、俺たちは欠伸を連発していたが、スタッフたちの表情に眠気は残滓ほどもなかった。きびきびと動く人たちの中で、俺はナコと隣り合い、パイプ椅子に座ったまま、進行していく番組を見つめる。
どこかの国の外務大臣が罷免されたとか、芸能人の熱愛が発覚しただとか、海外リーグに挑戦したスポーツ選手が怪我をしただとか、普段、画面の向こうにあるニュースはこの期に及んで未だ俺の世界の外側に位置しているような気がした。人気のある男性アナウンサーが目の前で喋る姿にもなんだか現実感がない。立て板に水を流したかのような調子には感心したが、俺にとってはそれだけだった。
「本日は番組の予定を変更してお送りしています」
ほとんどすべてのコマーシャルが終わるたびに、アナウンサーはそう繰り返した。申し訳ないな、と何度も思った。突然の出演を装うように提案したのは俺たちだったからだ。
「あたし」周囲に目配せをしながら、ナコがぽつりと溢す。「裏方気質だからさ、なんか落ち着かないな」
「ここは裏方の位置だろ」
「それはそうなんだけど」
「俺たちが出るわけじゃねえんだし、だいたい、新聞同好会にとってはこういうところは憧れの場所だったりするんじゃねえの?」
「たぶんね」
その歯切れの悪さに、今さら後悔しているのか、と俺は意地悪くからかう。
「俺たち、もう結構、顔知られてんだぞ。支配者の側近、とかって」
「側近ねえ」
「右大臣左大臣とか」
「三人官女とか五人囃子とか言われてなくてよかったよ」
ナコの軽口と同時にスタジオの動きが慌ただしくなる。目を向ければアキが入ってきたところで、その周囲には人の塊があった。女性ADが三人、マイクをつけたり、水のペットボトルを持って控えていたり、所在なくそばに立っていたり、あるいは番組プロデューサーやそれ以上のお偉いさんと思しき白髪混じりの男性たちが機嫌を伺うような笑顔を繕っている。見ようによってはまさに三人官女に五人囃子という印象があり、俺とナコは目を合わせて小さく噴き出した。
「では、CM明け、鈴木さん入りまーす」
ディレクターの声が届き、顔を引き締める。なぜか俺ですら腹の底から緊張感が昇ってきたというのにアキは平然とした表情でこちらに手を振っていた。物怖じしないのは予想していたが、それにしたって日常のような雰囲気だ。呆れたものか感心したものか、判断に困窮する。
カメラの前からADたちがそそくさと退散すると、秒読みが始まった。三から声が消え、指が折られていき、そして、男性アナウンサーが口を開いた。神妙な表情にすべきか、穏やかな笑顔にすべきか、俺たちの間でも相当の議論があったが、結局後者に決まったらしく、険のない、柔らかな顔をしていた。
「本日は番組の予定を」と何度も聞いた文句を述べ、アナウンサーは期待を煽るかのように続けた。「では、本日のスペシャルゲスト、支配者の鈴木明英さんです!」
その瞬間、いっせいに拍手が弾け、俺の身体は思わず縮こまった。照れくさそうな笑顔とともにアキがカメラの前へと歩いて行く。支配者としての威厳を示す演出なのか、ぺこぺこと頭を下げることはなく、また、握手をする際も殊更に手を伸ばすことはなかった。髪型や服装もどこか垢抜けたものになっていて、俺はまた、別世界の光景を見ているような気分に陥る。
「本日は出演ありがとうございます」
男性アナウンサーは海外のアーティストへと向けるような口調で言う。アキもそれに合わせているのか、やや居丈高な態度を作り、頷いた。
「いえいえ、こちらこそこんな機会をいただけて」
「とんでもない! 本日はどのような用件でいらしたのでしょうか」
「いやあ、夏休みに入ったので見学にでも」
まるで面白くない一言だったにも関わらず、そこでスタッフから小さな笑いが起こり、アキが「CDを出す予定も映画に出演する予定もなくてごめんなさい」と続けると出演者たちもくすくすと笑いを漏らした。テレビだから、だろうか、少し過剰な反応に、アキは迎合するでもなく反発するでもなく、頭を掻いた。
「こう見えても支配者ですし、憧れのテレビ出演くらいしてもいいですよね」
よく言ったものだ。アキは映画ばかりを好み、バラエティやワイドショーなんて興味を持っていない。
それでも、会話の応酬は続いた。カメラの向こう側にいる誰かを楽しませるための、中身のない会話が繰り返される。時間にしたら一分もないだろう。世間話にも満たないやりとりはアナウンサーの、あるいはディレクターの指示によって一端の収束を見せた。
「さて、本日は番組の予定を変更し、支配者である鈴木明英さんの独占インタビューをお送りいたします。では、鈴木さん、こちらにおかけになってください」
アナウンサーはすぐそばに置かれている椅子を手で示し、先導を始めた。カメラや照明が後を追うように動く。
しかし、アキはその場に突っ立ったままだ。一向に動かない支配者に、アナウンサーを大きくまばたきをした。
「あの?」
「やっぱり、先のほうがいいですよね」
「はい?」
「少し待っててもらえますか? これから〈命令〉するので」
アナウンサーの表情が硬直する。他の出演者たちも顔を強張らせる。アキは感情のない笑みを浮かべており、俺はその演技にも舌を巻いた。
すべては俺たちが描いた筋書きに沿って動いていた。出演者たちの反応も、スタジオの空気そのものも、すべては事前の打ち合わせどおりだ。それでも俺の中では高揚よりも不安感のほうが強かった。
アキの声が響く。
「〈命令〉です。撮影と放送を続行してください。この番組を見ている人は、チャンネルをそのままで」
人の存在には概念的な質量がある。それが支配者ともなればなおさらだ。アキという大きな質量が動けば、あらゆる人が引きずられてしまう。つまり、アキがテレビに出演したというだけでテレビ局に対して的外れな批判と猜疑心が集まってしまう可能性があった。たとえば全国放送で〈命令〉させた見返りに何か恩恵を受けているのではないか、だとか、もっと短絡的に、国民を売った、だとか。
決して杞憂ではないその影響を危惧し、避けるための言葉を、アキは発した。
「支配者だとテレビ出演も楽ですよね。経緯は割愛しますけど、考えればわかると思います。あ、僕のジョークがめちゃくちゃ面白かった可能性も考慮してくださいね」
アキは答えを授けない。わざと曖昧に濁し、誘導する。それがもっとも強い結論に繋がると考えているからだ。人は与えられた解答より、自分で辿りついた真実、あるいは真実らしきものを何よりも尊重すると知っているからだ。
「では、この場にいる皆さん、そして、番組をご覧の皆さんにいくつか〈命令〉をします」
わざわざ言う必要のない導入部を置き、アキは不敵な笑みを作った。スタジオの隅にあるディスプレイにはアキが一人、大写しにされていた。
「まず、今後、僕の声を意識的に聞かないように行動することを禁じます。もちろん、普段とおりに過ごす中で機会を逸していた、という分には構いません。そして、身近に僕の〈命令〉を耳にしていない人がいたらできる範囲で聞かせてください。また、警告を発することも禁止です」
来る――。そうわかっていても、後で解除されると知っていても、身体は反応する。右手が左手の人差し指を固く握りしめている。だが、痛みを、別の痛みで紛らわせようとするような小賢しい試みは失敗に終わった。
宇宙から信号が飛来する。
その瞬間、皮膚感覚すらも遠のき、なにもかもが俺から剥離したかのような感触を味わった。尻に当たるパイプ椅子の硬さもアキを照らす目映い照明もスタッフたちの息づかいも、透明なビニールで覆われている。事前に覚悟ができていたからだろうか、〈命令〉に付随するはずの、背中を貫く冷たい痺れはほとんどなかった。
俺はアキをじっと見つめている。
胸の内側に渦巻く違和感は徐々に消えていく。
「さて、突然ですが、支配者とは何でしょう。意味だけなら辞書を引くなり、ネットで検索すれば簡単に知ることができますね。でも、僕が問題としているのはそういうことではありません。なぜ僕たちは『支配者』と呼ばれているのか、です。もっとマイルドに指導者だったり、直接的に命令者だったり、あるいはもっと苛烈に独裁者でも、呼び方の候補はきっとたくさんありました。でも、僕たちはネガティブイメージがうっすらと纏わり付いただけの『支配』という単語で形容されている。英語圏でもそうです。不思議なものですよね。僕たちはDictatorではなく、Rulerと呼ばれている」
アキは何を言っている?
予定にない長すぎる前置きに睨むと、アキは咳払いをし、笑みを深めた。
「今、僕が言いたかったのは、次の〈命令〉を耳にした皆さんが僕のことをどう思うのか、ということでした。気分屋の独裁者と捉えるのか、冗談を好む支配者と見るのか。できれば支配者という認識のままがありがたいですが、その自信はありません。どちらにしても、支配者という存在をもっと強く意識してもらいたいんです。では、皆さんに〈命令〉を下します」
そして、アキは、朗々たる面持ちで、計画を始める一言を告げた。
「現在、日本に在住している皆さん、今から一週間後の八月七日から三日間、自宅に帰ってはいけません。なお、十二歳以下の子ども及びその家庭に属する人、介護が必要な人及びその家庭に属する人、医療従事者、生命の危機に繋がる場合は例外とします。また、当然ですが、激しい混乱が予想されるため、期間中、殺人や窃盗、強姦をはじめとする他者の財産、身体、尊厳を害する犯罪は禁止とします」
スタジオはしんと静まりかえっている。だが、アキの〈命令〉は放送網に乗って日本中に浸透を始めた、その実感があった。スマートホンが震えている。この放送を見たクラスの誰かがグループチャットにメッセージを送ったのだろう。俺だけではない。共鳴するように、スタジオ中の携帯電話が鳴動を始めた。
事の重大さを再認識し、俺は喉元にせり上がる恐怖感を、何とか飲み込む。
今、日本中がアキに振り回され始めたのだ。
それから、思い出す。
いつだって、アキは唐突な提案により俺を困らせるということを。
「あ、そうだ、それだけだと本当に独裁者みたいなんで、解除条件を加えときましょう」
「……アキ?」
突然のアドリブに俺は立ち上がり、アキを見つめる。隣のナコも動転しているらしく、「アキくん?」とか細い疑問の声を虚空に放り投げていた。
〈命令〉は続く。
「明日の昼十二時以降、僕の肩に触れて、そうだなあ、早口言葉を一度言ったら〈命令〉は無効とします。全員はちょっとボーナスすぎるし、地方の人は可哀想なんで、ええと、マイナンバーで決めますか。少し前に送られてきたやつ。条件を満たした人とマイナンバーの末尾が一緒の人も解除、ということで」
アキはとびっきりの笑顔をカメラへと向けて、拳を頭上へと突き出す。
「鬼ごっこです!」
それから、途端に勢いをなくし、「いや、かくれんぼ、かなあ」と小首を傾げた。まったく重要ではない問題に思い悩むその姿は傍若無人な独裁者や傲岸不遜な支配者といった趣はなかった。大きな力を持った子ども、と表現もしっくりと来ない。なにせアキは自分の〈命令〉によってどんなことが起きるか、承知した上で行動しているのだ。
「まあ、探してみなよ」
俺は心のどこかで、天衣無縫な救世主としての振る舞いであることを願う。
願いながら、そんなわけねえな、と呆れる。
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