2-3
言葉が破裂する感触を味わった。
世直しから悪戯とは方向転換にもほどがある。同じ地平にあるかすら危うい。しかし、アキにとってはまったく同義のものであるらしく、場の雰囲気は既に決定の様相を呈していた。弾けた空気を埋めるように肯定の風が吹き込んできている。
だが、漫然と流されるわけにもいかず、俺は、ナコでさえも、疑問や意見を投げ込んだ。
「悪戯って、アキ、宇宙人を救うって話はどうなった?」
「悪戯って、危ないことだったら賛成しにくいんだけど」
アキは「大丈夫、大丈夫」と軽やかに笑い、順に答えていく。
「宇宙人の話は忘れてないよ。というか、世直しなんてよく考えれば説教臭いし、僕の場合、こうしたほうが結果に繋がると思う」
「……鏡、持ってきてもらっていいか? 今、自分がどんな顔してるのか、見たい」
「鳩に豆鉄砲を乱射された、みたいな顔してるよ」
ナコのくだらない冗談に俺は肩を竦める。「ありがとう、助かった」
「で、危ないことも悪いこともしないよ、たぶん。不安ならテレビとか動画サイトで声明を出そう。どう伝えるべきかは難しいけど、それはこれから考えればいいや」
悪いことをしていないヴィカス・クマールは殺されただろ。
その反論が喉元まで出かかったが、響きの恐ろしさで俺は口を噤む。しかし、ナコは、俺が踏みとどまった線をあっさりと飛び越えた。
「でも、ヴィカスさんは撃たれちゃったじゃない? 日本だからそういう危険はないと思うけど、別に銃じゃなくても話は変わらないし」
「ああ、あれは抜け道を使われたからね」
「抜け道?」
「条件付加命令の穴、っていうか……あ、これ、言っちゃいけないんだっけ」
「おい」
「大丈夫大丈夫、会話は外に漏れてないから。それに、ヴィカス・クマールが空けた穴はその気になれば塞げるものだし、そもそも現状だと僕に危害を加えようとする人はいないと思う」
すべてを説明するつもりがないのは口調からも明らかで、やきもきする。仕方なく俺は最後の自信過剰な一言にだけ疑問を呈した。
「思うってなんだよ。希望的観測か?」
「どっちかというと信頼かな。今、僕を殺すメリットってそんなにないんだ」
そこでナコが「そっか」とすぐに頷いた。どこに合点がいくポイントがあったのか、俺にはちっとも理解できず、視線を投げかける。アキもその予想を聞きたかったのか、あるいは説明を任せたかったのか、同じようにナコを見つめた。
ごほん、とナコは咳払いをし、語り始める。
「ほら、今までの支配者って全部別の国でしょ? インド、中国、アメリカ、日本。これって比較的に人口の多い国が選ばれてるってことだよね。完全なランダムか、恣意的な要素があるかは別にして、そうなると動きづらいんだよ」
「なんでだよ。なら、支配者が出てない国は何かやらかそうとするんじゃねえか?」
「それが国ってのは複雑なのよ」ナコは自分の言葉にうんうんと頷く。「支配者を自分の国で囲おうとしたら、当然、他の国から反感を買うよね。そうなったら全世界を敵に回すじゃない?」
「でも、〈命令〉でなんとかできるだろ」
「それが無理なんだ」
アキは支配者らしい補足を加える。
「〈命令〉って言うほど万能じゃないからね。一対一ならまだしも複数の人間相手だと簡単にイレギュラーが起きる」
「イレギュラー?」
「そうだね……たとえば『僕に危害を加えるな』って〈命令〉したとするでしょ。それだけなら伝言ゲームで簡単に回避できるんだ。指示も禁止、ってしたところで、かいくぐれる方法はあるし、あと、危害を加えなければ僕を助けられない状況があったときも面倒だ。〈命令〉は言葉の壁を通り越えるし、抽象的なものもある程度具体化しちゃうけど、基本的に僕が想定外の事態には対応できない」
「まあ、とにかく、大国は動けないし、小国は支配者を獲得できる可能性が低いから動いてもメリットが少ない。つまり、膠着状態ってわけ。だよね?」
アキは頷いたが、俺はどうにも腑に落ちず、思案する。だが、当事者であるアキや俺よりも頭のいいナコがこれだけ自信を持っているのならむきになって否定するべきではないと考え至り、ひとまずは納得することにした。アメリカとロシアの冷戦のように、敵意を持っていても実際の行動が起きない場合もある。それに似たことなのだろう。
「そもそも危ないなら何してたって危ないしね、悩んでも仕方ないよ」
「まあ、とりあえずはわかった」と俺は一連の流れを脇に置き、核心に迫る。「で、悪戯って何するつもりなんだよ」
「そうだなあ、一つにするつもりはないけど……」
アキはいつだって唐突だ。考え込む素振りなどほとんどふりで、思いついたことを簡単に口にする。次の言葉も熟慮の末に出てきたものとは到底思えなかった。
「家をなくしてみるってのは、どう?」
どう、って。
不思議なもので、俺の脳裏には幼かったときの思い出が過ぎっていた。どんぐりを食べたときの話だ。興味本位でどんぐりを咀嚼し、予想だにしない強烈な苦みとえぐみに、幼い俺は口を開けたまま顔を顰めて固まった。そして今、ちょうどそのときと同じような感覚に襲われていた。味わったことのない理解不能な刺激は心身を硬直させる。ちょっとやそっとの突飛さでは動じないよう覚悟を決めていたつもりだったが、まったく足りなかったようだ。
すっかり凝固した思考の隅でぼんやりと反省していると、アキも説明が足りなかったと自覚したのだろう、補足が始まる。できれば耳を塞ぎたかったが、それも難しい。
「みんな、家に帰らないようにって〈命令〉するんだ。まあ、病気の人とか子どもがいる家庭は別にするから、最初ならこれくらいで無難でしょ」
「本当に無難か?」
なんとか言葉を返したものの、アキはそれを批難だとは気付いていない。
「無難、無難。小手調べだよ、こんなの」
「小手調べのつもりだったのか」
「あの、アキくん」アキに翻弄されることに慣れていないナコは俺が何度も用いた常套句を口にする。「悪戯だから、聞いちゃいけないかもしれないんだけど、それって何か意味があったりするの?」
「意味?」
「いや、ちょっと待って、先にもう一つ訊くね? その『みんな』っていうのは――」
「全国民だけど」
平気な顔でアキは即答し、それから何かに気付いたらしく、眉間に皺を寄せた。とはいえ発言の撤回を考慮しているわけではないのは次の質問からも明白だった。
「ケイスケ、GNPとGDPってどっちが国内総生産だっけ?」
「あ? GDPだろ。ドメスティック。それがなんだよ」
「あ、そうか。じゃあ、国民とはちょっと違うかも。ドメスティック民?」
「どっちにしても日嶋さんはぶち切れるだろうな」
「で」と一音でナコが流れを手繰り寄せようとする。「その〈命令〉って何が意味があったりするの? 宇宙人の件とか、普通の人が変わるべきとか、さっきまで言ってたことを全部外側に投げた、ただの悪ふざけに見えちゃうんだけど」
再度投げかけられた疑問に、アキは笑みを溢した。
「恥ずかしいから意味なんて訊かないでよ。まあ、この〈命令〉でどこかの誰かに自立心が芽生えたり、家の大事さを再認識したり、そんなことはあるかもしれないけどさ」
「ならもっとマイルドなやつにしない?」
「でも、理由はあるんだ」
俺はそこでわずかに姿勢を正した。
アキの提案はいつもそうだったからだ。大して意味は感じられない。だが、確かな理由がある。表出がおかしなものになるだけで、その発端には意外とまともな理由が備わっていることが常だった。
「ナコも八王子駅前で見たでしょ? みんな、まだ支配者を現実として捉えてないんだ。支配者は理不尽であるべき、とは思わないけどさ、それでも意識してもらわないと何も始まらない。僕が〈命令〉に慣れるべきって言うなら他の人もそうなんだ」
俺は八王子駅前での人々の行動を思い出す。俺自身、「日本って平和だ」と感じただけに否定できない。ナコも同様だったのか、反論は辿々しいものになった。藪を突いて蛇を出してしまったかのような表情をしていた。
「それはそうかも、だけど……じゃあ、その内容の理由は?」
「そっちは薄いんだよね。ただ、宇宙人のためかなあ。あの人たちも今、帰る家がないし」
俺は思わず反応する。「帰る家がない?」
「うん、だから、少しくらい和ませてやろうかなって」
「ちょっと待て、そうじゃない。宇宙人の目的ってのは『住むところを探してくれ』ってやつじゃねえんだよな」
「まさか、でしょ。そうじゃないって言ったじゃん」
「つうか、救われたがってるのは今来てるやつらだけのことだったりするのか?」
「それも違うかな。あー……星か国かはわかんないけど、まあ、それくらいのたくさんの人のことだと思うよ」
アキのあっけらかんとした表情に、怒り未満の苛立ちが募る。俺はこれ見よがしに嘆息し、人差し指を突きつけた。
「アキ、頼むから、情報を小出しにするな」
「小出しになんてしてないって」
「してるじゃねえか」
何かをしよう、という決定の前はいい。だが、八王子駅周辺をぶらついていたときも宇宙人の話題にはなっていたのだ。情報の内容はともかく、量さえあればもっと心の準備をできていたかもしれない。
「もっと何かあったりしないよな?」
「ないって。だいたい、情報を小出しにしてるのは僕じゃなくて宇宙人たちのほうだよ。あの人たち、なかなか身の上話をしてくれないんだ」
「そりゃ、身の上話はそういうもんだろ。つうか、それならなんでまた新しい情報が入ってるんだよ。宇宙人は二回しか会ってくれないんじゃねえのかよ」
「僕もそう思ってたけど、こっちから頼めば別だったみたいなんだ。あ、これは昨日の夜の話だから怒らないでよ」
「それでも今日、話すチャンスはいくらでもあったろ」
その指摘がよほど痛烈だったのか、アキは途端に勢いをなくし、もごもごと口を動かしながら視線を逸らした。すべてを伝える必要はないが、それでも有益な情報くらいは教えて欲しい。俺がそう念を押すとアキはそっぽを向いたまま、居心地が悪そうに頷いた。拗ねている、というより、自分の不注意や気配りのなさを悔いているような雰囲気だった。
俺はもう一度、溜息を吐く。それが口論終了の合図と読み取ったのか、ナコが素早く割り込んできた。
「でさ、アキくん。他にどんな話をしたの?」
「そうだなあ、大した話題はなかったけど……」と言った後、アキは慌てて顔の前で手を振った。「あ、そういうのもちゃんと後でまとめて教えるから怒んないでよ」
「怒んねえよ」
「で、これは教えてもらったって言うより、僕の予想なんだけどさ……あの人たちがどんな人か、わかった気がするんだ」
「どんな人か? 性格が、ってこと?」
「違う違う、肩書きだよ。どうも、あの人たち、言わないんじゃなくて言えないことがいっぱいあるみたいでさ、印象からするとどっちかだと思うんだ」
「どっちか?」と俺とナコは声を揃えて訊き返す。
「うん、一つは大きな組織に属する人。会社とかそういうのかもしれないし、そこあたりは文化が違うだろうから、想像するのは難しいけどね。で、もう一つは――」
アキの声が淀む。一瞬の沈黙が横切る。期待を煽ろうとする溜めではなく、純粋に言いづらそうに、アキは二つ目の予想を口にした。
「――囚人」
◇
結局、俺たちの会議はそこで打ち切りとなった。アキが俺たちに〈命令〉を下すとは思えなかったが、押し切られる予感だけは強く胸の内側で脈動している。たぶんこの土日にもアキは行動を開始するだろう。かすかな好奇心はあったが、心配のほうがよほど大きかった。最後に出た宇宙人の話が不安を掻き立てる類のものであったことも、強い。
俺とナコはおばさんに挨拶をして、アキの家を出た。人懐こい笑顔で「また来てね」と言われたため、ナコは「あれ、あたしにもだよね」と嬉しそうにしていたが、たぶん、違うだろう。ただ、水を差すのも悪く、幹線道路沿いの歩道に出たところで俺はすぐに話題を変えた。
「なあ、ナコ、どう思う」
「アキくんのこと? 宇宙人のこと?」
「……とりあえず、アキのこと」
「うーん」
ナコは大学院生と言っていたから俺とは六歳以上、離れている。そのせいか、考え込む姿は大人そのもので、今の今まで見せていたはしゃぐ姿も俺たちに合わせた演技だったかのようにすら感じられた。
「あたしはね」歩を進めながら、ナコは顔を顰める。「個人的には、なんだけど、ワン・シウヂエくらいでいいと思ってたんだよね。高校生だし、ちょっと羽目を外すことはあっても、何かを揺るがすような〈命令〉はしないでさ。あたしもそれくらいなら気軽に楽しめるし」
「ナコが?」
「あたしが」
「なんつうか、享楽的だな」
「難しい形容詞だねえ」
からからと笑い、ナコは続ける。
「でも、そんなもんだよ。今日、きみらのとこに来たのもそれが結構な理由だからね。遠巻きに見つめてるよりもそばで一緒にいたほうがよっぽどいいでしょ?」
「……今さら言うのもなんだけど、それ、本当だよな?」
「どういう意味?」
「胡散臭いやつらがたくさんいるんだよ」
俺が歩くのをやめると、ナコも立ち止まった。速度超過の自動車が俺たちを悠々と追い抜いていく。
環境なんてものも同じだ。
アキが支配者になって以降、周囲の環境は恐ろしいスピードで俺たちを置き去りにし、不明瞭な中身だけを残していくようになった。そして、俺はアキのようにすんなりと異物を受け入れる度量を持ち合わせてはいない。
「お前は胡散臭いやつらとは違うんだよな?」
ナコは完全に振り向かず、横顔だけを見せている。返答に迷っているような雰囲気はない。慈しむように微笑み、「何言ってんの、もう」と軽快に言った。
「何言ってんの、もう。あたしは胡散臭いって」
「え?」
「だってそうでしょ? 高校生から見たらあたしなんて怪しいに決まってるよ。たぶん、アキくんは麻痺しちゃってるんだろうけど、突然現れた人と大した話もしないうちに何かをしようだなんて普通じゃないよ」
「それは、そうだけどよ」
頷きながら、自分の立ち位置があやふやになる。ナコを受け入れようとしているのか、それとも排除すべきだと考えているのか。酩酊しそうなほどに思考が絡まり、俯きかけたとき、「ケイちゃん」とナコの声が身体を叩いた。びくりと腕が震える。顔を上げると幹線道路を横切る横断歩道の信号が青色に灯っていた。
「意外とあたしも不安なんだ。支配者のいる世の中って初めてでさ、アキくんはいい子だけど、どうなるか予想もできないじゃん。だったら、近くにいればいいのかなって」
「……打算かよ」
「かもね。でも、今までの話はほとんど本心だよ」
これからよろしくね。そう言って、ナコは横断歩道へと一歩踏み出した。点滅を始めていた信号は彼女が渡りきると同時に赤に変わる。向かい側にはアキの家を訪れる前に寄ったコンビニがあり、駐車場の脇に青いバイクが停められていた。ナコはそれに跨がると颯爽と走り去ってしまった。俺は後ろ姿を見送りながら、なんとなく、この出会いは無視できないだろうな、と感じた。打算はあってもナコの表情には嘘があるようには思えなかったからだ。
交差点の信号が変わる。代わり映えのしない家路には等間隔に街路樹が植えられており、夕日に照らされてもなおどこか緑鮮やかに光っているように見えた。自然と頬が緩む感触を覚え、俺は気恥ずかしさから顔を引き締める。
◇
思考というものは不思議なもので樹木のように放射状に発散することもあれば、螺旋を描くこともある。もちろん、唐突に直線的になることも。
俺がワン・シウヂエについて考え始めたきっかけはすぐには思い当たらなかった。ナコが何度も口にしていたせいかもしれないし、歯車のずれた日常がそうさせたからなのかもしれない。可能性としては家に帰ろうとしていたから、というのもあり得る。とにかく、気付けば俺は二代目支配者のエピソードを反芻し始めていた。
二代目の支配者であるワン・シウヂエは中国・湖南省の端にある農村に生まれた。結婚と家の建て替えを契機とした二度しか引越をしたことがなく、作物の販売を除けば彼女の生活は一つの村の中で完結していた。支配者として選出されたとき、彼女は既に七十八歳という高齢だった。
我欲、という点ではヴィカス・クマールとは正反対の性質を持っていたと言えるかもしれない。湖南省は指導者と呼ばれる人物を多く輩出している地域で、その歴史的な経緯もあり、中国共産党は秘密裏に熱烈なリクルートを行ったそうだ。しかし、彼女は〈命令〉を極めて個人的な望みのためにだけ使った。
とはいえ、その内容は強欲とはかけ離れている。ワン・シウヂエが欲したものはたった一つ、平穏だった。老女であることも関係していたのだろう。彼女は〈命令〉を自分には過ぎた力だと考え、決して上昇志向を持たなかった。
ワン・シウヂエはその後も慎ましい暮らしを続け、真面目に農業に従事し、そして、病に倒れ、子どもたちに見守られて亡くなった。七十九歳、支配者となって二ヶ月後のことだった。そのため、彼女は「もっとも幸福な支配者」と呼ばれている。権力欲や支配欲に囚われず、穏やかな日々を過ごした彼女はヴィカス・クマールのように信奉者を産みはしなかったが、それでも生き方のモデルとして一つの手本とされるようになった。もちろん、そこには少々のプロパガンダを含む誇張もあるのだろうが、真っ向から否定する者は誰もいない。
アキが支配者になって以来、俺は学校の勉強へ向けるそれとはずいぶん違う熱心さで支配者に関する情報を調べた。友達として知っておかなければならないと思ったのだ。ただ、ワン・シウヂエの話を紐解くときだけはいくぶん個人的な感情が含まれていた気がしてならない。
〈命令〉を積極的に駆使しなかった彼女のエピソードはとても生活的で、親子だとか家族だとかに関する訓話が大半を占めていたからだ。
◇
「ただいま」と母さんの声が聞こえてきたのは俺が自室で読みかけの本に手を出そうとしたときのことだった。「ケイスケ、ちょっと手伝って」と続く。母さんはこまめな買い物を億劫だと思う人間で、買い出しのたびに両手では抱えきれない量の荷物を車に載せてくるのだ。ちくちくと小言を刺されるのも好ましくなく、俺は栞をそのままに階下へと向かった。
つっかけを履き、開け放たれた玄関を出る。辛うじて二台並べられるほどの駐車スペースの真ん中に、白い軽自動車が堂々と停まっていた。運転席の外に立っていた母さんは「来た来た」と言うと、俺と入れ替わりに玄関へと向かう。
「小さい袋の一つくらい持ってけよ」
「母さん、重い荷物持てないの」
「じゃあどうやって車に積んだんだよ」
「あ、離婚決まったから」
脈絡のない報告に俺は一瞬固まり、それから「ああ、そう」と流した。父との別居はもう二年以上続いていたから来たるべきときが来たんだな、というくらいの感慨で、むしろ遅いと感じるくらいだった。
だが、母さんは不満そうに唇を尖らせた。
「ちょっと、こっちだってどう伝えるかすごい迷ったんだから、もう少しいい反応してよね。驚くとか悲しむとかさ」
「いつから覚悟してると思ってるんだよ。無茶言うなって」
当然のことながら、気になる問題はいくつもあった。家はどうなるのか、養育費はもらえるのか、父親はこれからどうするのか。ただ、それらは今すぐに聞くべきものとは思えず、また、聞きづらい話であるのは間違いがなかった。
「俺は」と続ける。「言うまでもないけどよ、母さんに着いてくからな」
「着いてくる必要なんてないよ」
「は?」
鼓動が跳ねる。頭がじわじわと言葉の意味を類推していくが、誤解が生じる前に母さんはにこやかに言った。
「だって、家は取ったし」
「……紛らわしいこと言うなよ」
「あ、不安になっちゃった? 大丈夫大丈夫、なーんにも心配いらないよ。あんたが気に病むことなんて一つもないんだから」
母さんは「これからもよろしく、荷物もよろしく」と手を振り、家の中へと入っていった。その態度に抗議の弁は掻き消えてしまい、俺は言われたとおりに荷物を、三往復して運び込んだ。最後のビニール袋を持ってキッチンに入ったときには母さんは既に夕食の準備を始めていた。部屋には刻まれた野菜の緑っぽい匂いが漂っていた。
「そういえば、今日もアキくんと一緒にいたの?」
「……心配だったり、するよな」
「まさか。親子のコミュニケーション取ってるだけだから特別な意味なんてないよ。ただ、最近、ずっと一緒だなあって思っただけ」
最近始まった話でもないだろう、とは思ったが、誰と遊んだとか、どこへ行ったとか他愛のない一日の報告など中学入学以降、めっきり減っていたため、母さんが俺とアキの行動を把握していなくても不思議ではなかった。とはいえ、改めて何があったかをつぶさに報告するほど子どもでも大人でもなく、また、そう知っているにも関わらず、俺は「いろいろしてるんだ」と濁した。母さんは「いろいろ、ねえ」と包丁を動かしながら呟く。「ニュースになるような悪いことはしないでよね」
「その可能性は否定できねえよ」
「それもそうか。アキくん、支配者だもんねえ」
まるで井戸端会議に臨んでいるような口調に苦笑が漏れる。どこそこの息子さんが塾に行き始めた、なんて会話とはレベルが違うはずで、どうにも拍子抜けしてしまい、それきり会話が止まった。もしかしたら今も政府の人間に監視されているかもしれないんだぞ、と危ぶみ、俺はレースカーテンの掛かった窓の外を一瞥する。だが、それらしき人間がすぐに発見できるわけもない。アキとかなり近い位置にいる母さんでこうなのだから、日本の人々はもっと他人事として扱っているのだろうな、と思った。
そして、その平穏が崩れたのは本格的に暑さが増し、夏休みに入ってからだった。
朝のニュース番組に出演したアキが嬉々として計画の実行を宣言したのだ。予想よりもずっと遅く、それでも世間にとっては突然に、俺たちの悪戯が始まった。
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