2-2


 アキのアパートは2Kで、玄関を開けるとすぐにキッチンがある。そこに珍しくアキの母親がいて、俺は少し驚いた。六年前にアキの父が亡くなってからおばさんはほとんど休みなく働きに出ていて、顔を合わせるのは中学以来だった。


「あら、ケイスケくん、久しぶり」

「ども」と頭を下げる。「元気そうでよかったです」


 社交辞令や挨拶の一環としてではなく、本心でそう思った。おばさんはあまり身体が強いほうではなく、覚えているだけでも二回、入院していた時期があったからだ。


「それで、えっと、そちらの方は……?」


 おばさんの瞳には弱々しいながらもしっかりとした意志を感じる。先月から支配者の母親となったため、さまざまな出来事があったのだろう。見慣れぬ大人に対する警戒の色が浮かんでいた。

 しかし、ナコが怯む気配はない。


「はじめまして、横谷ナコと言います。今、大学院生で」と流れるように言い、それから学生証を手慣れた動きで取り出した。白いプラスチック板に大学の名前とナコの顔が大きく載せられている。「さっき意気投合しちゃって、ついてきちゃいました」

「……そうですか」


 やはり俺ほどは甘くないらしく、おばさんは確かめるような視線をアキへと向け、ごくごく小さな溜息を漏らした。納得はあるのだろうが、しかし、母親としての心配が完全に解消されたわけではないようで声色はかすかに硬さを帯びていた。


「すみません、なんのお構いもできませんが……」

「いえいえ、用意は万全ですから」


 ナコはコンビニのビニール袋を掲げる。大きな袋の口からはスナック菓子や炭酸飲料のペットボトルが覗いており、長居しそうだと悟ったのか、おばさんはぎこちなく微笑んだ。


「じゃあ、ケイスケ、コップ持ってくから適当に座ってて」

「ナコ、こっち」


 靴を脱ぎ、向かって右側の部屋に入る。畳敷きの部屋のすぐ左手には襖を隠すように大きな棚が置かれており、ナコはその正面で足を止めた。棚には映画のDVDが、監督名の五十音順アルファベット順で几帳面に並べられている。興味深そうに眺めるナコを放っておいたまま、俺は折りたたみ式のちゃぶ台を部屋の真ん中に置いた。


「これ、すごいね。DVD」

「アキの親父さんが集めてたんだ」


「おまたせ」とアキが輪の中に戻ってくる。手にはマグカップとグラスと湯飲みという統一性のない容器が一つずつあった。アキはナコへ視線を向けると、ちゃぶ台にコップを置きながら少し自慢げになる。


「ああ、それ、すごいでしょ。父さんはアウトドアと映画が趣味でさ、売るのももったいないし、置いたままなんだ。っていうか、大した値がつかなかったんだけど。ナコは映画、よく見る人?」

「人並みの人、かなあ」ナコはアキの父についてなにも言及しない。「あ、でも、トム・ハンクスがお腹を空かせる類の映画は好きだよ」

「そんなに種類ねえだろ」

「偏りすぎだよ」アキは大きく笑い、コップにジュースを注いでいく。炭酸の弾ける音が、かすかに響きを変えながら連なった。「映画じゃないなら本は? ケイスケんち、めちゃくちゃいっぱいあるよ」


 めちゃくちゃいっぱい、というほどではない。俺はすぐにそう否定したが、アキの基準でならその感想も間違いではなかった。アキの家にある本や雑誌は数えるほどで、数に入れていいのなら教科書がそのほとんどを占めていた。学習机の一角に目をやる。教科書やノートがブックエンドに挟まれて傾げている。


「ん?」


 そこで思わず声を上げたのは見慣れぬ物を見つけたからだ。どこかの会社からくすねてきたような幅広の青いファイルが机の端で直立している。高校生が持つにはあまりに事務的な装いをしており、異彩を放っていた。


「アキ、なに、あれ」

「ああ、あれは」アキは一瞬言い淀み、言葉を選ぶような間を挟んでから、答えた。「支配者関係のやつだよ。ほら、言ったじゃん、政府と話したりする機会があるって。学校休んでたときにもらってさ」

「ああ、あのときにか。見てもいいか?」


 俺は何気なくそう言って、腰を浮かせかける。すぐに反応したのはナコだった。


「やめたほうがいいんじゃない? そういうのってだいたい極秘とか部外秘じゃん」

「まあ、そだね」とアキが頷く。「知られたらいっぱい怒られる」

「いや、ばれないだろ」

「いや、ばれるでしょ」ナコは呆れた様子を隠しもしなかった。「今だって見られてるし」

「は?」

「え、気付いてなかったの?」

「気付くって、何にだよ」

「きみたち、監視ついてるじゃん」

「監視?」


 非現実な単語に、視線が行く当てもなく彷徨う。ナコからアキへ、それから、代わり映えしない窓の外の風景、最終的にDVDの棚で止まる。古今東西、退屈なものからハリウッド製のエンターテインメイトまで揃っている映画の中には007だとかのスパイ映画もあった。

 監視? それって現実にあるの?

 にわかには信じがたく、俺はアキの反応を窺った。アキはサイダーを飲み、炭酸の強さに顔を顰めている。何も言わずに見つめ続けると、アキは音を立てずにコップを置き、たっぷりと間を空けてから、謝罪を口にした。


「ごめん」

「ごめん、て」

「なんていうか、言わないほうがいいと思ったんだ。監視されてるって聞いて気分がよくなる人なんていないし」

「ってことは、ちょっと待てよ、マジなのかよ。つうか、ナコはなんでわかったんだ?」

「傍目八目ってやつじゃない? それにあたし、新聞同好会だし」

「新聞同好会はスパイ組織とかじゃねえだろ」

「いやあ取材してるとね」


 ナコの言葉は冗談として聞き流し、俺はなんとか腰を落ち着けた。サイダーを口に含む。そのままで耐えていると痛いほどに泡が舌を刺激し、我慢が効かなくなったところで喉を鳴らして飲み込んだ。それからようやく疑問をぶつける。


「あれか? 政府か?」

「そりゃもう、めちゃくちゃ政府」


 形容詞の程度はなんとなく伝わり、俺は空気を飲む。緊張が表情に出ていたのか、アキは慌てて付け足した。


「でも、害はないんだ。むしろ変な人から守ってもらってることもあるし」

「つっても落ち着かねえよ」

「気にしないのがいちばんだよ」とナコはわざとらしく伸びをする。「変なことしてるわけじゃないし」

「でも、そういうことしてるならこの部屋にも監視カメラとか盗聴器とかあるんじゃねえの? 最悪、俺の部屋とかにも」

「ああ、それはないよ」

「なんで言い切れるんだよ。調べる機械とかねえんだろ」

「いや、そこは支配者だし」


 そう言われてしまうと追及する意志が鈍る。俺は二の句を継げず、口の中で単語にもならないわめき声を噛み砕いた。その様子を曲解したのか、ナコがにやにやと顔を歪める。


「なに、見られたら困ることでもあるの?」

「そうじゃねえけど、誰だって自分の部屋を撮られてたら嬉しくねえだろ」

「あ、でも、ごめん、通信記録は見られてる」

「それはやばくない? ケイちゃん、毎晩エロサイト覗いてるでしょ」

「覗いてねえよ、ふざけんなよ」

「大丈夫だよ、僕とのしか傍受されてないし」

「だから見てねえって、ぶっとばすぞ」

「あ、もしかしたらナコもそうなるかも。ごめんね」

「いいよ、別に。あたし、寛大だし、エロサイトは見てないから」


 この二人といると自分の感覚が常識の外にある気がしてくる。実際には俺こそが常識の中にいて、二人が好き勝手に振る舞っているだけなのだろうが、どうにも今の状況ではそう信じることが難しく、俺は盛大な溜息を吐いた。それを目にしたナコが再び囃し立て、アキがくだらない情報を吹聴する。紆余曲折というにもあまりある雑談を繰り広げ、俺たちが世直しについて言及を始めたのは太陽が赤みを帯びてからになった。


「で、どうすんだよ、世直し」


 だが、俺の先導に、アキとナコはなかなか着いてこない。雑談には積極的な姿勢をしていたくせに本題に入ると二人の勢いは途端に衰えてしまっていた。


「ナコ、あんた、大学院生だろ。なんかいい案出せねえのかよ」

「世直しは専攻してないしなあ」ナコはそう嘯き、顎に手を当てる。「アキくんはどう世直ししたい、ってのはあるの?」

「うーん、それが大してないんだよね。そもそもなにが悪いのか、ってのもわからないし」

「そりゃ、政治家とか官僚なんじゃねえの。でも、詳しくねえし、アキが言ったみたいに自分からは関わりたくねえよ。つうか、ナコに世直しする理由は教えといたほうがいいんじゃねえか?」

「あ、そうか、そうだね」


 アキはそこで簡単に経緯を説明した。例の、宇宙人を救う、という話だ。ナコは「へえ」とか「そうなんだ」とか、一定の驚きは示していたもののそれほど興味を持っていないようだった。不満はあったが、今さら論う気にもなれない。腹を減らしたトム・ハンクスを救え、みたいな内容だったらまた別の、新鮮なリアクションを取っていたのだろう。

 話が戻る。


「でもさ、僕には疑問なんだよね」

「なにがだよ」

「ケイスケは政治家とか官僚とか言ってたけど、そうなのかな。本当に変えるべきなのはもっと、なんというか普通の人なんじゃないかなってのは思うよ。だから、八王子の駅前を歩き回ってたわけだし」


 何か考えがあってやってたのか、面食らうと同時に、俺の脳裏には駅前交番前の風景が去来した。

 スマートホンを掲げる野次馬たち。身勝手な要求を突きつける人。確かにそういった行動を漠然と「よくないこと」と捉えていたが、かといって俺には積極的に「悪いこと」とは断言できなかった。もしアキが、というより、見知らぬ人が支配者となって駅前にいたら俺だって同じ行動をしていたかもしれないからだ。ストリートミュージシャンに対する反応とたぶん変わりないだろう。

 ナコも同様の発想に至ったらしく、出てきた質問は自然と似通う。


「それは無関心とか頭が平和すぎるとか、そういう意味?」

「いやあ、そうとも言えないんだよね。だってさ、みんながみんな、自分とは直接関わりのないものだったり、大して現実的ではないことに興味を向けてたら気持ち悪いよ」


 わかる気がする、という感想は口から出ない。それがアキが求める言葉ではないことは明白だった。アキは自分の内部にある感情を言語化すべく、しばらく唸り、コップに入ったサイダーを一気に飲み干した。

 そこで唐突に「あ、そっか」と歓声が上がった。声に遅れて、アキの顔に喜びがじわじわと広がっていく。苦悶からの解放にも似た息が漏れる。そして、アキはちゃぶ台の一点を見つめたまま、小さく呟いた。


「つまんないんだ」

「え?」とナコが首を傾げ、「は?」と俺は言葉を失う。

「ああ、そうだ。僕、あいつらのこと、つまんないって思ってたんだ」


 あいつら、というのが誰を指すのか、すぐには思い当たらなかったが、俺からもさほど遠い距離にない人々を指していると予想がついた。

 とはいえ、アキが何を喋っているのかは理解できない。アキはピースの多いジグソーパズルを完成させたときのように感慨深そうにし、何度も頷いていたが、その意味を図ることすらままならなかった。


「うわあ、すごいな、めちゃくちゃすっきりしたよ。ああ、でも、そしたら、世直しは中止にしたほうがいいか」

「おい、アキ」慣れきっているはずの俺でさえ、アキの思考速度に翻弄される。「いきなりなんだよ? 話が見えねえし、世直しやめるってどうしたんだ?」

「ごめんごめん、自分の中でいろいろ繋がってさ」

「いろいろって?」ナコが身を乗り出す。

「いろいろは、いろいろだよ。今までの支配者とか、これからの支配者とか、宇宙人とか、僕が本当はどうしたかったのか、だとか」

「どうしたかったのか?」


 俺とナコの声が重なる。俺はナコと顔を見合わせる。困惑はあったが、前進の予兆もあり、それ以上の質問は憚られた。というよりも、質問を挟む余地すら許さず、アキが早口で続けた。


「恰好つけすぎてたんだよ、僕は。支配者って肩書きに振り回されすぎてたんだ。僕は僕らしく、もっと自由にしてよかったんだ」


 そして、アキは今まで見た中でもとびっきりの、鮮烈な笑顔で宣言した。


「ということで、まずはこの国の人たちに悪戯を仕掛けよう」

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