2 再会みたいに近くて早い
2-1
もし俺から一時期の記憶が抜け落ちていたとして、その女の振る舞いを目にしたら旧知の仲だと確信していたに違いない。
「あ、支配者だ、元気?」
アルバイトのある土日を挟み、月曜の放課後、いつもの河川敷で女から声をかけられた。俺たちがときどき使っているベンチに先客がいて、通り過ぎようとした矢先の出来事だった。座っている女には思い出の隙間に滑り込むような馴れ馴れしさがあり、警戒心を差し挟むことすらままならず、俺は立ち止まってしまっていた。アキに至っては振られた手につられてひらひらと右手を動かしている。支配者になってから初対面の人間に対する反応がやたら気安くなったものだが、それにしても、度を過ぎている。
「今日は交番行かなかったんだね」
茶色いウェーブヘアの女はジーンズのパンツルックに白いブラウスというシンプルな出で立ちをしていた。遠慮がないわりには物言いは落ち着いていて、年上の恋人がいたと記憶を捏造したくなるくらいには美人だった。
「今日は作戦会議で」とアキが返すと女は笑顔を溢す。「作戦会議ってのは仰々しいねえ」
「闇雲にやっても成果なかったし、ケイスケの言うことも聞かなきゃって思ったりして」
「そうなんだ。あ、あたし、
滑らかな会話に自己紹介が唐突に挟まれ、ようやく俺は正気を取り戻した。それから、女の笑顔に見覚えがあると気がつく。金曜、交番前での一幕、崩れた人の壁の中で佇んでいた女だ。
俺は思わず呟いていた。
「あのときの」
「あのとき?」アキが警戒心を露わにする。「あのときって」
「金曜だよ。アキが〈命令〉したときにいたろ」こいつ、と言いかけて、やめる。「この人、あの輪の中にいたんだ」
「よく見てるねえ」
横谷ナコの鷹揚な物言いにかすかな敵愾心が湧いた。実を言えば、八王子の駅前をぶらついていたときも、家路を辿る最中でさえも、アキの〈命令〉を当てにするやつらが頻繁に訪れていたため、俺はその手の連中にあまりいい感情を持っていなかったからだ。彼らの大抵は身勝手な要求を投げつけてきた。病気を治してくれだとか、誰かと両思いになりたいだとか、成功を収めたいだとか、頭の隅にあるはずの原則を無視する彼らは俺の目にはどうしようもなく浅ましい輩に映った。
しかし、横谷ナコはそんな不信感を見透かしたかのように、首を横に振る。
「あ、違うからね、あたしは何かお願いしたくて待ち伏せしてたんじゃないから」
「なら、なんだよ」
刺々しくなった反応さえも心地よさそうに、横谷ナコは肩を竦めた。
「協力しようと思って」
「協力?」
「そ。ほら、えーと、アキくんたち、世直ししようとしてるんでしょ。おまわりさんから聞いたよ。あの交番の」
「日嶋さん?」とアキが補足すると、横谷ナコは大きく頷いた。
「知らないけど、たぶんそう、日嶋さん。でさ、どう? 世直し、あたしに手伝わせてよ」
信頼できるはずがない。突然現れて「助けになりたい」と胸を張る人間はおおよそ別のの狙いを持っていて、最終的には大きな欲求をぶつけて来ると相場が決まっているものだ。当然、俺はあしらおうとしたが、結果としてできなかった。
アキが驚くほどあっさりとその申し出を承諾したからだ。
理由はわからない。賛同者を待ち構えていたのか、突拍子のない行動が波長に合ったのか、それとも他に厳然たる説明があるのか、とにかく、アキは異論一つ溢すことなく、彼女を世直しのメンバーの一人として軽々と受け入れた。口を挟む隙すらなかった。
◇
ナコって呼んでよ、呼び捨てでいいから、そっちのほうが仲間っぽいでしょ。
呼び名は重要だ。下の名前で呼ぶだけで心の距離が近くなった気がする。俺とアキの間に座った女はそれを狙っているのか、名字に「さん」をつけた呼称を嫌がった。礼儀を気にしたわけではないが、俺はそこまで積極的には歩み寄れず、やんわりと拒否する。ただ、場の雰囲気だとか流れだとか、そういった圧力が思いのほか強く、結局、俺は彼女のことをナコと呼ぶようになった。呼ばざるを得なかった、というほうが正しいかもしれない。
ナコは近隣にある大学の院生であるらしかった。心理学を学んでいるという。生え抜き、と言っていいものか、学生時代もこの街で過ごしていたそうだ。学部二年生のときは新聞同好会を作り、精力的に活動していたと自慢されたが、俺の家もアキの家も新聞を取っていなかったため、出てきた「すごいなあ」という感想は社交辞令の域にとどまるものでしかなかった。
流れに沿って俺たちも自己紹介をする。どちらもフルネームを出したが、ナコは「
「でさ、やっぱ、世直しって八王子じゃ無理だと思うのよ」
一人増えた作戦会議はナコのその言葉が皮切りとなって始まった。あまりにも現実的な意見に「いや、でも」と俺は反論する。「八王子にだってヒーローはいるし」
「そういうご当地ヒーローには治安と笑顔を守ってもらうとして、世直しってそういうことじゃなくない? 世直しってもっと攻撃的だと思うの」
「ナコは痛いところを突くね」
自覚があったのだろう、アキはあまり痛くなさそうに言った。それから、悩ましそうに続ける。
「ただ僕たちは高校生だしさ、政治とかそういうのは関わってもいいことないと思うんだよね。そういうとこにいる大人って僕たちより、なんていうか、狡猾だし」
「狡猾って」言い慣れていないことが丸わかりで、ナコは笑う。「確かにそうかもしれないとは思うよ。なら、ちゃんと正攻法で攻めたらいいんじゃない?」
「正攻法?」
「政治家になれってことかよ」
「きみら、被選挙権ないでしょ」
声の調子は真面目な訂正そのものだったが、ナコの表情には皮肉だと気付いているような色があり、やりづらさを感じた。大学院生と会話した経験はなく、高校生よりどれほど大人なのか、その実態をうまく掴めない。無意識に「舐められたらいけない」と考えていたのか、俺の語気は思ったよりも強くなった。
「なんか案があるんだよな? だから来たんだろ?」
「案というか方向性というか」
「方向性?」
アキがまた、ナコの言葉を繰り返す。詐欺師につけ込まれる無知な人間を装っているのか、ナコを試しているのか、長い仲の俺でも真意は測りかねた。アキはそういった演技に長けているのだ。おれはただ後者であることを願い、ナコへと視線を戻した。
それを待っていたかのように、彼女は頷く。
「アキくんはもっと〈命令〉を使うべきだよ」
その瞬間、かっと頭に血が昇った。なんだよ、それ。俺は気付けば立ち上がっており、ナコを、とぼけた表情のナコを、見下ろしている。「ケイスケ」とアキが窘めるような発音で言ったが、俺はなぜアキが動揺していないのか、不思議でならなかった。
「どうしたの、ケイちゃん」
「どうしたの、じゃねえよ。よくそんなことを軽々しく言えるな、〈命令〉だぞ」
何よりもナコの言葉の感触が鼻持ちならなかった。彼女の口にした〈命令〉という言葉には、八王子駅前で集まってきた群衆たちにはなかった確固たる理解が滲んでいたのだ。そこまでわかっているなら、と不快になる。そこまでわかっているならアキの気持ちまで考えろよ、と。
だが、それ以上の怒りは口から出ていかなかった。唇がうまく動かず、もどかしくなる。拳を握り、ただただ睨む。そのうち、彼女はふっと表情を緩めた。
「落ち着きなって、別にヴィカス・クマールの真似をしろって言ってるんじゃないんだし。むしろワン・シウヂエに近いかもね。手の届く範囲内で、いざというときに、っていう感じ?」
確かに二代目の支配者である中国人女性はあまり大それた〈命令〉を使わなかった。しかし、例としては今の状況にはそぐわない。彼女は支配者となったとき既に八十近い老女だったのに対して俺たちはまだ十代だ。
もちろん、そんな危惧をアキの目の前で口にするのは憚られ、俺の勢いは徐々に弱まっていった。ばつが悪く、視線をそらす。川の流れが目に入り、その穏やかさに身悶えしそうになる。煩悶を一気に連れ去るような激しいものであったならまだましだったのに、と俺は舌打ちをした。
「ケイスケ、一旦座ろう」
ぽっかりと間の空いた会話を埋めるように、アキが言った。感情の絡まりは解けそうにもなく、立ちくらみしたみたいに周囲がぼやけたため、言われるがままに腰を下ろす。
それから、俺が一息吐くのを待って、アキは続けた。
「心配してくれてるのはわかってるよ。それに、ナコだって別に唆してるわけじゃないと思うんだよね」
「ああ、うん、まあね。慣れ、って必要だと思って」
「〈命令〉にか」
まともにナコを見ると怒りがぶり返す予感があり、俺の声は地面に直線的に当たる。それをまったく気にせず、ナコは質問に肯定した。
「そうそう。武器が武器たり得るのは武器を持とうとするからでさ、そう思ったとき、ペンでだって車でだって人を傷つけられるんだよ。だから、その前にみんな練習するなり警告を受けるなりするでしょ。〈命令〉だって同じじゃない?」
「つまり」とアキが要約する。「危険を認識して注意できるように、ってこと?」
「平たく言うとそうだね……ねえ、アキくん。アキくんさ、〈命令〉するの、怖いと思ってたり、しない?」
「まあ、うん。あんなこともあったし」
あんなこと、という表現がなにを指し示しているのか、なんとなく予想がついた。三代目の支配者が起こした事故だ。インターネットを探せば映像が残っている。削除と再投稿のいたちごっこにはなっているが調べようとすれば簡単に発見できた。
「別にアキくんを信頼してないわけじゃないけど、これからストレスだって溜まるだろうし、爆発しないように少しずつガス抜きすることも大切だと思うよ。どんなふうに〈命令〉したら反感を買わないかってのもわかると思うし」
それは、〈命令〉へのハードルを下げることに繋がるのではないか。アキに何か要求をするために策を弄しているのではないか。ふつふつと湧いた複数の疑問が溶け、混じり合い、ナコへの不信感は化学反応したみたいに体積を急速に増していった。
腹の底に溜まる怒りを視線に込め、ナコを睨みつける。
睨みつけようとしたところで、笑顔とぶつかった。
「で、ケイちゃんにお願いなんだけど」
「な」と言葉に詰まる。「なんだよ」
「ケイちゃんはストッパーね」
「……ストッパー?」
「結果的にあたしがアキくんを唆してるみたいになりそうだし、止める人がいなくちゃ、でしょ? たぶん信用されてないのはわかるし。まあ信用はして欲しいけど」
なんて単純な人間なんだ、と呆れそうになった。
俺は、なんて単純な人間なんだ、と。
自分の役目を言語化されただけで、警戒心が幾分か和らいでしまったからだ。信じる信じないを簡単に決めることはできないが、それでも、自身へと向けられた悪い印象に無頓着でないのならば印象は変わる。心理学を学んでいるからには何か考えがあるに違いない、と胸の隅に期待が過ったのは確かだった。その時点で、彼女を無碍に扱うには大きく意志が揺らいでいる。
だが、そこでアキが声を上げた。
俺でさえしまい込んだ否定意見だった。
「やだよ、そういうの」
「え?」
「アキ?」と俺すら耳を疑う。「どうした、急に」
今の今までアキはナコの意見を好意的に捉えていたはずで、言い分が理解できない。ナコもひどく驚いた表情をしている。次の言葉を伺うように見つめると、アキは唇を尖らせたまま、溜息を溢した。
「僕がそんなこと、誰かに頼んだ?」
「頼むって、そりゃそうだろうよ。ただ、俺もナコに賛成ってわけじゃねえけどさ――」
「あ、ごめん、そういうことじゃなくて」
アキは慌てて顔の前で手を振り、訂正する。
「別に、勝手に自分の役目を決めるのはいいんだ。そういうのってフツーにあるじゃん。自分はツッコミ、だとか、いじられ役、だとかさ。でも、僕が支配者だからどうこう、ってのを僕の前で話すのはやめてよ」
その口調になぜかぼうっと熱が頭を包む感覚を覚えた。
そばにある公園から子どもの声が響く。鬼ごっこでもしているらしく、歓声が断続的に届いてくる。今触ったよ、服はセーフだろ、アウトでしょ、じゃあ次からな。間を置いて悔しそうなわめき声が割り込む。子どもたちの様子には日々の行動から構築されたわずかな力関係を感じたが、それでも楽しげに聞こえた。
ふと、曲解と錯覚が重なる。
鬼ごっこの娯楽性を担保しているのは役割の交代という要素なのではないだろうか。いくつものバリエーションはあるが、鬼ごっこの中では基本的にその要素が貫かれている。かくれんぼだって缶蹴りだっておままごとだってそうだ。きっと遊びを通して子どもたちはその意識を学んでいく。つまり、日常生活において俺たちの持つ社会的な役割は頻繁に交代されることを、だ。俺たちは一日の中で生徒になり、友人となり、息子となる。店員であった一時間後に客になることもあるだろう。
だが、支配者という役割はアキの背中に貼りついたままだ。
楽天家のアキが塞ぎ込んでいる様子など想像できないが、心の縁に暗雲が引っかかっている可能性もあった。そこで俺が殊更にストッパーであろうと振る舞えば、言い換えるなら支配者の従者たろうとしてしまえば、黒い雲が胸の中央へと移動してくるかもしれない。
俺は両手を挙げ、「わかったわかった」とできる限り軽々しく頷く。アキの言動に矛盾があると気付いている。ただ、往々にして人は矛盾を抱えているものであり、それに付き合うくらいの分別はあった。
「別にそういうのは考えねえよ。いつもどおりだ、だろ?」
「そうそう、ケイスケは僕に振り回されるのが似合ってる」
「全然望んでねえけどな」
「きみたち、そういうの逆だよねえ。どっちかと言えばアキくんのほうが振り回されそうな顔してるのに」
「よく言われたよ」とアキは柔らかくはにかむ。「顔だけで言えばケイスケは振り回す側なんだ」
「だから、全然望んでねえし、それに役割とかそういう話、しないんじゃねえのかよ」
「こういうのはいいよ」
朗らかな笑みを浮かべるアキにつられ、俺は苦笑する。そもそも役割などというものは担うものであって引きずられるべきものではない。もちろん、役割を意識しない、というのも逆説的には役割意識に内包されているのかもしれないが、今は忘れることにした。
代わりに一つ、思い出す。
俺たちの作戦会議はなにも進展していない。
「なあ、それでどうするよ」
「どうするって、あ、世直し? どうしよっか」
「ねえ、ここで話すのもなんだし、場所変えない? ついでにコンビニでなんか奢ってあげるよ」
「あ、なら、あれ買ってくれよ。課金するやつ」
「ケイちゃんは馬鹿だねー」
知り合ったばかりの大人との冗談や軽口の応酬は未だ慣れない。しかし、どちらにせよアキはナコを受け入れるだろう。そういう人間だ。なら、俺が近くにいなければならないと思った。たった二、三十分の会話でもアキとナコが同類であるのは明白で、まるで以前からの知り合いみたいに話す二人は、盛り上がればとんでもない騒ぎを引き起こすのではないか、と不安だったからだ。監視役やストッパーのつもりはないが、馴染む努力をしたほうが、たぶん、いいだろう。
もちろん、もっとくだらない考えも持っている。
もしかしたら、ここでアキやナコの口車に乗っておいたほうが毎日が楽しくなるのではないか、という打算だ。積極的に認めたくないが、俺はきっとアキにすっかり毒されている。だから、面白いことを追い求めなかったとしても、目の前に落ちているならば拾うくらいの好奇心は養われていた。
悪いことではない、と思う。
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