1-2


 手に当たる温かい感触が睡眠と覚醒の隙間を埋めている。

 開け放たれた窓から鳥の鳴き声が聞こえた。雀と鳩だ。ほとんど無意識的にまぶたが上がっていき、レースカーテン越しに青い空が見えた。地球を眼下にする風景などまるで夢だったかのような気分になった。

 それから手を包み込む感触に目を向けるとベッドの脇に母さんがいた。驚き、手を握られていると自覚し、俺はたじろぐ。この歳になって母親と手を握り合って眠るなど気色悪く、振り払おうとしたが、身体がうまく動かなかった。

 母さんのまなじりに涙の痕跡があったからだ。


 ベッドに突っ伏した母さんの姿に俺は息を吐く。ああ、そうか、息子が支配者なんてものになったらそりゃあ心配だよな。高校生の自分ですら理解可能な親心に俺はなんとなく起き上がるのを躊躇った。同時にあの風景が夢ではなかったと悟る。確かに俺は宇宙人と会い、支配者に任命されたのだ。

 どうしたものか、と悩んでいるとわずかに手を引かれた。母さんが目を覚ましたらしく、徐々に頭が上がっていく。瞳には眠気が散っていたが、俺と顔を合わせるとすぐに母さんは泣きそうになった。きっと夜の間、かける言葉を考えていたに違いない。だが、結局母さんは「ケイスケ」と俺の名前を呟いただけで、他に何も言わなかった。


「大丈夫だって」俺は笑いかけてやる。「何も変わらねえって」


 それからゆっくりと手をほどき、ベッドから降りる。母さんは動けないでいる。

 ふと、アキの母親もそうだったのかな、と思った。また、俺はどうだったのだろう、とも考える。俺にはアキが支配者として選出されたときの記憶がない。こうして心配し、苦慮し、何かできないかと懊悩したのか、それとも、わずらわしいものとして一蹴して距離を取ろうとしたのか。

 だが、いくら振り返っても当時の記憶は死角に存在し、質問できる相手もいない。


 俺はいつものように顔を洗い、歯を磨いた。支配者なのだから口内の細菌に〈命令〉し、繁殖を禁止できないか、といたずらに思いつき、実践してみたが、気味悪い感触が頭蓋骨の内側に響いただけで、歯磨き粉の泡を飛ばす結果に終わった。不思議なものだ。まるで頭の中に説明書とアプリをダウンロードしたみたいに〈命令〉に関する知識と感覚が備わっている。

 リビングに入ると既に戻った母さんが朝食の用意をしていた。時刻は八時を回ったところだ。もうすぐ学校が始まるため、少しずつ起きる時間を早くしなければ、と日常を振る舞うように決意する。それから畳んであったハーフパンツとTシャツに着替え、「仕事は?」と訊ねた。母さんはフライパンで野菜を炒めながら「今日は休み」と答える。たぶん嘘だ。休みだったのではなく、休みにしたのだ。だが、それを指摘したところで何を得られるわけでもなく、俺は流した。


 窓の外に目を向ける。いつもの朝の風景に少し笑いが漏れる。

 前例がないため予想の範疇を超えていたもののアキの〈命令〉が生きているのだろう、家の周りに人が集っていることはなかった。アキは報道陣や野次馬に囲まれないように自宅周辺や学校への接近を禁じていた。そして、帰宅禁止令を機に――もしかしたらその以前からかもしれないが――その対象を俺や横谷ナコにも拡大させた。そのおかげで、母さんの望む日常に急な崩落は押しつけられていない。

 それでも、訪れるべき人は訪れる。

 玄関のチャイムが鳴ったのは朝食を摂り終え、母さんが「ねえ」と言った瞬間だった。おそらくは今後の対応や自身の意志を口にしようとしていたのだろう。決意を遮られた母さんは苛立たしそうに時計を確認し、立ち上がった。


「まだ朝なのに」

「急ぎなんだろ」と言い、俺はインターホンに手を伸ばしていた母さんを制した。「俺が出るよ」

「え、でも」

「いいから。たぶん知り合いだ。もしかしたらちょっと外に出るかもしれないし、俺の部屋に連れて行くかもしれない」


 当惑する母さんを残して居間から出て、玄関のドアを開ける。予想どおりの人物に俺は辟易するでもなく、感謝するでもなく、頬を緩めた。


「いらっしゃい、大崎さん」


 以前会ったときと同じ、黒いスーツに身を包んだ大崎はやはり堅苦しい表情をしている。俺より頭一つ分高い背丈にがっしりとした身体はどうにもスーツとは不釣り合いだった。


「お久しぶりです、遠藤さん」


 そう言って大崎は頭を下げた。打って変わって恭しい対応に俺は鼻で笑う。


「それ、何かのマニュアル?」

「いえ、これは失礼がないようにと考え、自発的に行っております」

「なるほど、それもマニュアルだ。いいっすよ、別に。今さら態度変えることないじゃないすか」

「……予想していなかったが、俺は迂闊だったらしいな」


 笑っているのだろうか。陽の光があっても大崎の鉄面皮には変化の兆しさえも感じ取れない。あの宇宙人たちとよい勝負で、そう考えるとなんだか肩の力が抜けた。


「仕方がないと思うけどね。アキも知らなかったみたいだし」

「ああ、なら、そうか」

「で、どこで話す? たぶんウチなら邪魔は入らないけど、上がる?」

「ではそうさせてもらう」


 招き入れると大崎は靴を脱ぐ前に再び、一礼した。道場に入る格闘家を彷彿とさせたが、なんてことはない、俺の後ろ、居間の扉から母さんが覗き込んでいたのだ。大崎が簡単な自己紹介をすると母さんは恐る恐る近づいてきて名刺を受け取った。肩書きのせいか、表情に困惑が浮かんだが、事態が事態だ。追い返しはしなかった。


「じゃあ、俺の部屋に行こうか」

「お母さまにもいてもらったほうがよくないか?」

「その前に個人的な話をしたいんだ。その後で頼むよ」


 大崎はやや悩んだようだったが、やがて頷き、三和土から上がった。俺は母さんに飲み物を頼む。すると大崎は「お構いなく」と定型文めいた言葉を定型文めいた口調で口にした。失礼さは感じないが、堅苦しさが溢れている。

 部屋に案内し、押入から座布団を引っ張り出しているうちに母さんが氷の入った麦茶を運んできた。来客用の盆とグラス、コースターに濡れ布巾までついている。すべての仕草に不安が滲んでおり、俺は苦笑し、「大丈夫だって」と言い聞かせた。「俺は支配者なんだし」とジョークを飛ばそうかとも思ったが、冗談にならないような雰囲気があったため、やめた。


 二人になった室内はいやに静かだった。大崎の気質のせいかもしれない。その静寂に居たたまれなくなり、俺は一口麦茶を舐めた。グラスの内壁に当たった氷が澄んだ高い音を立てた。

 結局、口火を切ったのは俺だ。


「……やっぱり大崎さんが俺の担当になったんだな」

「ああ、夜半から緊急で会議を開かれたが、経緯に鑑みて私が適任だとされた」

「正直に言うと期待してたけど」

「何を、だ?」

「ナコが来るんじゃないか、って」


 俺の一言に大崎はわずかに眉を顰めた。


「……気付いてたのか」

「そりゃ気付くよ、もっと慎重にやったほうがよかったんじゃないの?」


        ◇


 三日前、俺は横谷ナコが通っているという大学に足を運んでいた。原付を走らせれば五分もいらない距離だ。どこから構内に入るのか判然とせず、外周を回ることになったが、夏休みでも大学に訪れる学生は多い。結果としてさほど苦心はしなかった。

 俺は案内板だけを頼りに心理学の研究室を探した。キャンパスは細長く、犬の足のようにくねった形をしている。そのせいで原付を停めた体育施設から文系の学部棟まではかなりの時間を要した。とはいえ、案内表示さえ確認していけばそれほど迷いはしない。坂を上り、雨除けのアーケードの下を通ると、コの字型の建物に行き着いた。


 案内に従って辿りついた部屋には「心理院生室」と乱雑に書かれたコピー用紙が貼りつけられていた。半透明の磨りガラスからは光が漏れており、人の気配がした。

 俺は意を決しノックをする。ほどなくして返事が届き、扉が開いた。眼鏡をかけた男が出てくる。男は俺の顔を見て、学生と誤解したのか、高校生と看破したのか、どちらにせよ不審げに眉間に皺を寄せた。


「えーと、どうしました?」

「すみません、急に。その、ナコ……横谷さんはいますか?」

「ヨコヤ? ヨコヤって」

「ここの院生だって聞いたんですけど」


 男は顎に手を当て、考え込む。それから、後ろにいる同輩たちに向けて声をかけた。


「なあ、ヨコヤって知ってる?」そこで俺を一瞥する。「えーと、ヨコヤナコ?」

「誰だ、それ」「いないよな、ヨコヤって名字」


 そのそっけない返答に俺は困惑し、唇を噛んだ。喚いたり、詰め寄ったりしなかったのはきっとどこかで会えないと覚悟していたからだろう。

 目の前にいる男は「だよな」と頭を掻く。


「やっぱり知らないって。もしかしたら学部生と勘違いしてるんじゃない?」

「そう、ですか。ありがとうございます」


 心にもない礼を言い、俺は踵を返した。近くにあるかもしれない学部生の部屋を訪れようとも思わなかった。

 学部生と誤解するはずがない。横谷ナコはしっかり「院生」と発音していたし、学生証は俺だって目にしている。となれば、答えは一つだ。

 彼女は嘘を吐いていた。

 どこまでどこからかなど知らない。もしかしたら名前さえも偽りだったのかもと考えるとあの旅の記憶が白昼夢めいた朧に包まれていく。

 何もかもが妄想の産物だったのではないかと疑い、俺は絶望した。

 少なくともそのときは、だ。


         ◇


「だけど、よくよく考えればおかしな話だったんだよな」

「ほう」

「だって、そうだろ? 俺に記憶がなかったとしてもアキは支配者になって苦しんでたんだ。なのに、素性も知らないやつといきなり意気投合して、一緒に行動するはずがない。ならその前から面識があったって考えるのが自然だ」

「お前は思ったより論理的だな」

「見た目に反して、だろ」と茶化すと大崎はグラスを口に運んだ。ロボットのような無感情さでも喉が渇くのか、と場違いな感想が浮かんだ。「それで改めて聞くけど、大崎さんたちは何者なんだ?」

「私たちは政府に支配者及びその周辺のケアなどを委託された団体だ」


 大崎はそこで長ったらしい団体名を一息に言った。青少年の健全な育成何某なにがし、と正式名称とは到底思えないもので、どうにも覚えづらく、俺はすぐさま反復を諦めた。


「〈新聞同好会〉」

「……なに?」

「俺はあんたらのことを〈新聞同好会〉って呼ぶよ。ナコがそこに所属してるって言ってたし」

「勝手にしろ」

「それで」と俺は口火を切る。「訊きたいことがいくつもあるんだ」

「こちらもそれは同じだ」

「まあ、こっちから頼むよ。でさ、横谷ナコは実在する人物?」


 かすかに、本当にかすかに大崎の顔が歪んだ。記憶の障害を心配しているのかもしれない。もちろんこの二ヶ月を本気で夢だと思っているわけではなく、俺が訊ねていたのはナコに関する真実だった。名前は偽名ではないか、だとか、あの性格はすべて演技だったのではないか、だとか、発したすべての言葉がナコの気持ちではなく事前に作成された設定から引き出されたものではないのか、だとか。

 俺がそう伝えると大崎は静かに息を吐いた。


「安心しろ、横谷ナコは本名で、性格もあのとおりだ。そして何より、彼女はルールを変えてまで志願してお前らと行動をともにした。彼女が偽っていたのは自らの所属だけだ」

「そっか、じゃあ、もう一つ聞くけど」

「連続か」

「互いに順番になんて面倒だろ。〈命令〉してもいいけど」

「〈命令〉してまで何を訊きたい」

「アキの居場所」


 俺は大崎を見つめる。瞳の光には揺らぎがなく、感情を読めなかった。


「あんたらが保護してんだろ?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る