4-2


 きっと大丈夫だって。

 そんな無責任な言葉を吐けるほど脳天気ではなかった。運転席の後ろに押し込めたアキは力なく項垂れたまま、一言も発しない。助手席に座っているナコも時折視線を送るだけで黙り込んでいた。

 頭の中には母さんの声が響いている。


 私も近所の人から聞いただけなんだけど、大学生グループの車だったんだって。ほら、その、どこかに遊びに行った帰りらしくて。


 徐々に状況を認識していく。

 考えたくはない。考えたくはないが、俺の脳裏では一つの疑問が存在感を増し始めていた。どれだけ振り払おうともその疑問は粘着質に絡みついてくる。


 ――もし、帰宅禁止令がなかったら、こうはならなかったのではないか?


 この期間中、どこに行っても交通量は格段に増えていた。中には運転に不慣れな者もいただろう。友人と非日常を共有することで余計に高揚していた者もいたはずだ。もしかしたらその大学生たちもどこかを旅し、疲労が蓄積していたのかもしれない。

 もちろん、そんな憶測は邪念に過ぎないし、たとえアキが遠因だったとしても責めるつもりは毛頭なかった。俺が心配していたのはアキが持つに至る自責の念であり、連絡を一切取らなかった過去への重苦しい後悔だ。

 加害者の情報がなくても、おそらくアキはいずれ俺と同じ結論に逢着する。その予感がほとんど確信としてあった。走行音だけが低く唸る車内では自分の持っている情報の整理を余儀なくされる。すると思考は否応なく螺旋を描き、その半径を狭めていく。母親の心配や加害者への憤慨、この一週間への郷愁がやがて深い悔恨へと行き着いたとしてもなんら不思議はなかった。


 俺はアキを覗き見る。

 じっとしていられないのか、アキの膝は間断なく揺れ動いていた。握った拳を睨み、唇を噛むさまはあまりに痛々しく、俺は義務感に駆られた。

 何か声をかけなければならない。

 だが、何を言えばいい? どんな言葉も逆効果になる気がして躊躇しているとアキはぼそりと呟いた。爆発しそうな腹の内を押さえ込むような、か細い声だった。


「運転手さん、もっとスピード上げてよ」

「え」

「スピード」

 催促を聞き取った運転手は困り顔で返す。「そう言われても、今、パトカーも多いですし、これ以上は」

「なら、都合がいいよ。スピード上げて」


〈命令〉だった。

 運転手の背中が揺れる。彼は前のめりにハンドルを掴んだまま、ルームミラーへと視線を上げた。


「お客さん、もしかして」

「支配者だよ」アキにしては低い声に俺は口を結ぶ。「もしパトカーに捕まったら路肩に寄せていいよ。僕がなんとかする」


 運転手の返事はない。だが、〈命令〉は確実に作用しているらしく、車は唸りを上げて直進を始めた。二車線道路の右側を猛烈な速度で進み、前の車に追いつくと、左車線か対向車線にはみ出して追い抜いていく。縫うような走り方は危機感をもたらすには十分すぎるものだった。

 しかし、助手席のナコから制止が届く前に、アキは笑った。


「来たね、警察」


 はっとする。背後からサイレンの音がうっすらと響いてきていた。リアガラスの向こうでは車がおののく動物かのように歩道側へ身を寄せており、ほどなくして赤色灯が姿を現した。


「そこのタクシー、停まりなさい」


 スピーカーによって拡張された声はおぼろげな輪郭ながらも刺々しい。タクシーの運転手はアキを窺うように顔を動かすと、車を路肩に寄せた。それと同時にアキが車から降りており、俺は慌てて後を追った。


「アキ、何するつもりだよ」

「先導してもらうんだよ」と平坦な声で返すと、アキは制服の男二人組と向き合い、それから「ああ」と懐かしそうに唸った。「日嶋さん」

「鈴木くん、遠藤くんも」


 制帽を上げた顔には見覚えがあった。八王子駅前交番に勤務している日嶋だ。彼は心底驚いた顔をしており、アキと俺へと順に視線を送ってきた。


「きみたちは何をしてるんだ?」


 声色には怒りは含まれていない。純粋な疑問にも聞こえた。

 だが、アキは一切の疑問に答えない。


「日嶋さん、パトロール? こんなとこにまで来るんだね」

「え、ああ、今は少し特別でね」

「……そっか、特別か」


 アキの声に恐怖が翻る。俺は慌てて前へと出て、お願いをした。


「日嶋さん、病院まで先導してくれないですか。おばさんが、アキの母親が病院に運ばれて」

「病院?」

「ケイスケ、面倒だよ」

「アキ!」

「日嶋さん、病院まで先導してよ」


 事情の説明すら省いたアキの〈命令〉は一足飛びに日嶋ともう一人の警官の脳に働きかける。顔色に一瞬の怯えが浮かび、二人はわずかに顔を見合わせ、そろそろとパトカーへと後ずさった。


「早くしてって!」


 その声に日嶋たちは泡を食って車へと飛び乗る。アキは俺と車内にいるナコに一瞥をくれ、頭を掻いた。


「ああ、僕がパトカーに乗れば済んだ話だったね。〈命令〉には慣れたと思ったのに」

「……アキ、俺たちも行くよ」

「何しに?」

「何しに、って」


 俺は答えられない。どう答えても、どう言葉を選んでも、根底に悪い結果を予期させる響きが含まれる気がしてならなかった。

 パトカーはゆっくりと動き出しており、アキは溜息を吐くとタクシーへと戻った。俺もすぐに続く。


 違うんだ。

 違うんだよ、アキ。


〈命令〉に慣れるってのはそういう意味じゃない。自分の都合がよくなるように、強引にすべてを動かすのではなく、自省と分別を持つ、という意味だ。非常事態であることに間違いはない。でも、日嶋さんだってお願いすれば動いてくれたかもしれないだろ?

 タクシーが発車する。

 車窓の景色が見る間に動く。

 何もかもが変わっていく。


        ◇


 赤色灯の回転が止まった。

 車が停止するとアキは一度、意を決するように深呼吸をして、ドアを開けた。「ごめん、ナコ、お金、立て替えといて」と背中を向けたまま、病院の正面玄関へと走って行く。

 俺とナコの視線が一瞬ぶつかる。早く、と言われているような気がして、頷き、続いた。閉じかけた自動ドアの間に身を滑らせ、周囲に視線を送る。アキは受付で焦れったそうに踵で床を叩いていた。


「アキ、おばさんは?」


 答えはない。

 受付の女性はどこかへ電話している。悠長な話し方ではなかったが、終わるまでのたった十数秒がいやに長く感じた。


「お待たせしました」と受付の女性は事務的に言った。「緊急外来のほうに相談室がありますのでそちらにお願いします。一度、外に出ていただいて」


 その先を聞かずに、アキは駆け出している。俺は小さく頭を下げ、続いた。自動ドアを出たところでアキは左に曲がる。追いついてきたナコと合流し、俺たちは緊急外来の入り口へと向かった。

 病院の空気には白い靄のような静けさがあった。


「相談室ってどっちですか、ここに母さんが運ばれたって」


 アキは息を切らせながら受付に詰め寄っている。その焦りを見かねたナコが前に出てアキの母親のフルネームを口にした。対応の決定がされているらしく、受付の中年女性は手で俺たちの後ろを示した。数歩歩いただけで相談室の表示が見える。俺たちは小さく息を吐き、相談室へと入った。


 白い机に椅子が四脚だけのこぢんまりとした部屋だ。中に誰もいないため、余計に不安を掻き立てられた。手術室に入ることなどできない、その常識はあったもののいやな予感が増幅する。

 ここはきっと何かを伝えるための部屋だ。

 それに気がついた瞬間、喉元に黒い鉄球がせり上がるような感覚に襲われた。手術が成功したならばICUなどに案内されるのではないか? 交通事故の手術がどれほどの時間かかるのか、俺はそんな知識を持っていない。だが、母さんを経由して連絡が来たということはそれなりの時間が経っていると考えたほうがよいだろう。


 肋骨を握りしめられているような感触に、俺は腰を落ち着けることすらできなかった。アキもしばらく部屋の中を歩き回っていたが、やがて一人、椅子に座った。座った、というより立っていられなかったかのようにも見えた。


「ナコ」とアキは俯いたまま、訊ねる。「母さんが運ばれたのはいつ?」

「……十四時頃だって」


 丸い壁掛け時計は十七時を回ったあたりを指している。三時間だ。


「手術ってどのくらいかかるものなのかな、血……血が足りないとかあるのかな、母さん身体弱いから」


 俺は何も言えず、視線だけでナコに助けを求める。ナコはじっとアキの背中を見つめ、力ない呟きの中から一つだけ選んで、答えた。


「容態にもよるけど、二、三時間で終わらない場合もあるよ。きっと誰か説明にきてくれるだろうから……今は祈ろう」

「うん」とアキは頷き、それから、「ケイスケ」と俺を呼んだ。「ケイスケ、ごめん。こんな思いさせちゃって」

「な」困惑が膨らむ。アキが謝罪する理由など俺には何一つ思い浮かばなかった。「何、謝ってんだよ。謝ることなんてねえだろ」

「あるんだ」


 消え入りそうな声色が床を不安定なものに変える。何かが壊れそうな予感がする。アキは冷静ではない。冷静でいられるわけがない。もし、ずっと隠していた何かを吐き出したのならアキを支えている線が切れるような気がして、俺は慌てて遮った。


「今言うなよ、聞きたくねえよ」

「頭の中がぐちゃぐちゃなんだ」


 アキは手で顔を覆い、叫ぶようにそう言った。堪えようのない感情に翻弄されているのだろう、背中が震えていた。俺は唾を飲み込む。何が正解か、わからない。荒い呼吸が聞こえる。アキはよりいっそう身体を丸くして、震える声を出した。


「ケイスケ、ごめん、巻き込んで」

「巻き込むもなにも……それが当たり前だっただろ」

「当たり前じゃないよ。当たり前じゃなかったんだ」


 その瞬間、突如として強烈な息苦しさに襲われた。

 心臓が胸を叩いている。何がきっかけとなったのか、推し量ることもままならない。ただ、自分が動揺している事実だけを辛うじて認識できた。いやな予感などという浅いものではない。アキの言葉によって何かが崩壊する確信に、俺は恐ろしくなる。

 足下に穴が空いたような気分がした。ぽっかりと口を開けた黒い穴に吸い込まれる感覚が肌をなぞり、夏だというのに寒気を感じた。

 周囲に視線をやる。

 白い壁、壁に飾られたカレンダー、音もなく回転する秒針、ブラインドの下ろされた窓、ぽつんと置かれた観葉植物、椅子に座るアキ、後ろで立ち尽くすナコ。

 頭痛がする。自分が何に激しく狼狽しているのか、理解できない。俺はまとまらない思考を無理にまとめて、アキの言葉の意味を何とか解釈して、声を絞り出した。


「だから、やめろって! 別に、今、感謝とかそういうのはいらねえよ」

「ケイスケ、違うんだ」

「お前は勘違いしてんだよ、アキ。お前が何か提案したとき、拒否してたとか思ってんだろうけどよ、いやじゃなかったんだ。じゃなきゃこんなに長々一緒にいねえだろ」

「ケイちゃん」


 ナコが俺の肩に触れる。その表情に違和感が爆発する。アキの告白に助力するような態度だ。「隠し事をしてたんだ」とアキが言う。ナコの表情は変わらない。まるで「ちゃんと聞け」と促しているみたいな目の色をしていた。


 なんだよ、これ。

 ナコ、お前だってアキの隠し事が何かわからなかったんじゃねえのかよ?

 それとも――今、アキがしようとしている話はそれとは違うのか? アキとナコは知っていて、俺だけ知らなかった何かがあるのか?


 アキはもう一度、言う。


「ケイスケに隠してたことがあるんだ……僕――」


 そのとき、空気を擦るような控えめなノックの音が響いた。アキが顔を上げ、振り向く。しばらく俺たちは黙っていたが、何を優先するべきかは明白だ。俺の頭痛は波を引くように消えていき、アキが小さく「どうぞ」と応えた。


「失礼します」


 真っ先に入室してきたのは男だった。四十代くらいだろうか、白衣を着ていたため、医者であるとわかる。後ろから一人、女性の看護士が続いてきて扉が閉められた。

 胸騒ぎが、再び、強くなる。

 そして、男の自己紹介の、ごくごく短い一言でアキの顔は青ざめた。


「執刀医の――と言います」

「執刀医」とアキは絶望を漏らした。「……ねえ、なんで、執刀医の先生がこんなとこにいるの? 手術、終わってるの? ねえ、母さんは?」


 アキはふらりと立ち上がり、小さく一歩前に出た。足取りは覚束ない。進むごとによろけそうになっている。

 俺は支えることすらできない。


「ねえ、先生」

「……手は尽くしましたが」


 その逆説にアキは力なく喘いだ。俺はアキの名を呼ぶ。ナコは唇を噛みしめながらアキへと駆け寄る。アキの目は濁り、空白を見つめている。「なんで」と聞こえた。震えた声に、俺の全身は硬直する。


「なんで、先生、ちゃんと治してよ、治せって!」


 悲痛な言葉は小さな部屋の中で反響し、わずかな余韻だけを残して、やがて消え去った。その事実にアキは笑う。奇妙な笑い方だった。


「ああ、不可能〈命令〉だ……どうして、こんな」


〈命令〉を受けたはずの医師は従属衝動に駆られることなく、沈痛な面持ちで立っている。看護士も同じだ。〈命令〉の大原則である「実行不可能な命令は無効」という事実は何よりも残酷に現状を伝えていた。

 俺は拳を握る。無力感と、すべてを連れ去る波に、そうすることしかできなかった。


 ――アキの母親は亡くなった。

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