Interlude

支配者のいない世界


 絶対に覗かないと決めていたSNSやインターネット上のフォーラムでは来る日も来る日も同じ話題が繰り返されている。バスの車内、掌の上に乗っている小さな世界はあまりに退屈で俺はスマートホンをポケットの中へとしまった。


 アキの母親が亡くなってから一週間が経った。

 葬式は町内会とおばさんの同僚たちの手によって行われた。直葬とまではいかないが、小さな告別式と火葬だけで、遺骨は遠縁の親戚によって田舎にある先祖代々の墓に納められるという。俺も告別式には出席したが、諸々の事情を聞いたのはすべてが終わってからだった。母さんによるとアキから〈命令〉が下っていたそうだ。費用は貯金で賄うからどうか代わりに葬ってくれ、と。喪主不在の儀式は恐ろしく淡々と実施され、その間、俺はアキともナコとも顔を合わせなかった。

 別に気が引けたから、というわけではない。どれだけ連絡を取っても二人とも応じなかったのだ。俺の発信履歴には留守番電話に残したごくごく短い通話記録だけが残されていて、世界から切り離されてしまったかのような疎外感を覚えた。


 ――インターネットどころか、街の至るところで繰り返されている話題は「失踪」だ。

 アキの失踪。

 あの日、病院を最後に、アキとナコの所在は掴めなくなった。電話をしてもメッセージを送っても反応はなく、アキの家はいつ訪れても不在だった。居留守をしている気配すらなかった。


 支配者がいなくなった日本は別段、何かが変わるでもなく、動いている。犯罪件数の激増もなければ人々が何かの意識に目覚めてなんらかの行動を始めることもない。つい先日あったゲリラ豪雨を思い出す。ああ、あのときは大変だったね。支配者に対する感想などそんなもので、アキの悪戯は自然現象のようなものとして処理されているみたいだった。


 バスを降りる。夏休みの八王子駅は賑わっている。俺は脇目も振らず、駅前交番に向かった。交番の入り口には若い警官が立っていた。既に顔を覚えられているらしい、苦笑含みに会釈をされ、俺も小さく頭を下げた。それから、中に足を踏み入れる。


「日嶋さん」

「ああ、遠藤くん」


 アキの捜索願を出したのは三日前のことだった。法改正があったものの友人が捜索願を出しても受理されないのが通例だそうだが、アキに身寄りがなく、支配者だったということも含めて特例として受け入れられた。

 だが、あくまで受理が特例だっただけだ。法律上、アキはただの高校生でしかなく、捜索態勢に特別な待遇などはなかった。


「ごめんね」と日嶋はなんらかの記録を探りながら謝る。「今日もこれといった情報はないんだ」

「そうですか」

「……きっと大丈夫だよ。鈴木くんは見かけによらず結構図太そうじゃないか」


 それが安い慰めだと知りながら俺は笑みを作る。短い付き合いなのによく知ってるよなあ、僕はなかなかに見る目があるんだ、職業柄ってやつすか。俺と日嶋の会話はどこか上滑りしており、交番の中には居心地の悪い空寒さが漂った。すぐさま退出しようかとも思ったが、なんとなくそれもできず、俺は一度俯き、ゆっくりと訊ねた。


「日嶋さん、あのさ」

「なんだい?」

「あのさ、〈命令〉されてどう思った?」

「……なんだい、急に」回転椅子をゆっくりと回し、日嶋は俺に正対する。「そんな質問するなんて」

「気になっただけだよ」

「そうだね……なんというか、電気が走った感覚がしたし、正直に言えば怖かったよ。あ、いや、〈命令〉されることが、じゃなくてね、あの鈴木くんが僕に対してああやって指示してきたことが。これは僕の個人的な意見なんだけど、あの力というか権限はそれほど好ましくはない、と、思うかな。鈴木くんが嫌いというわけじゃなくてね」


 支配者に選ばれた者は不幸になる。それはことあるごとに叫ばれている言説だ。経緯はどうあれ、ヴィカス・クマールもワン・シウヂエもアメリア・スミスも最終的には支配者として選出されてそう間を置かず、死に至っている。


 なら、アキは?

 俺は最悪の想像を振り払いきれず、奥歯を噛みしめた。小学生の頃を思い出す。俺がお年玉をいくらもらったかという報告に、アキは心底羨ましそうな顔をしていた。父方も母方もアキの祖父母は既に亡くなっている。親戚付き合いもなかった。母親が亡くなり、アキは一人だ。すべてを悲観して――

 俺はそれ以上想像を明確にしたくはなく、無理に日嶋に笑いかけた。


「こっちは心配だったよ。警察官だからって意固地になって第二段階になるんじゃないのかってさ」

「第二段階?」

「あれ、知らない? 従属衝動のなんだけど……勉強が足りないなあ」

 俺は必死に茶化し、「また来るよ」と言い残して交番を離れた。街を歩くにも思い出が多すぎる。足は自然とバス停へと向かっていた。


        ◇


 最寄りのバス停に到着すると俺はそばのコンビニに停めておいた自転車に乗り、帰路を辿った。いつもの河川敷を通り、そこにアキかナコが佇んではいないものかと視線を巡らせる。結果などとうに知れている。その程度で見つかるならば誰もがここまで騒ぐはずがなかった。

 行きがかり、いつも座っていたベンチの前で自転車から降り、川を臨んだ。八月の陽は高く、水面が光をぎらぎらと反射していた。鳥が安穏とした表情で泳いでいる。俺は無性に寂しくなり、無為に終わると知りながら、「なあ」と呼びかけてみた。


「なあ、大崎さん、近くにいねえのかよ、何か知らねえのかよ」


 川が音を立てて流れている。風が吹く。焼けたアスファルトの上を蟻たちが行進している。遠くでは蜃気楼が地表の近くをめらめらと燃やしている。その聞こえるはずのない音さえ耳に届いているというのに大崎の返事はない。心細さがまたたく間に増殖し、俺は叫びたくなった。


 俺はどうすればいいんだよ。

 アキがいなくなっただけで慣れ親しんだ非日常がすべて俺から断絶したようにも思えた。

 そしていずれ、その非日常は別の誰かの元に落ちていくのだろう。きっと俺はその様子をテレビかインターネットで眺めながらのうのうと生きていく。

 それをいやだと考えたところで何ができる?


 俺は小石を蹴り、自転車に跨がった。このまま自宅に帰るのも気に入らず、熱された空気を吸い込み、アキの家を目指すことにした。特に理由はなかったし、もしかしたら帰っているかもなんて楽観的な夢想もしていない。何か行動をしなければ身体が内側からばらばらになりそうな感触がしただけだった。


 アキのアパートに到着すると俺はいつものようにインターフォンを鳴らした。古めかしい呼び鈴の音色は間延びし、やがて虚空へと消え去る。同じだ。扉に耳を当ててみるが、何の音も聞こえなかった。あまり気乗りはしないが、近くにある電気のメーターに目をやった。並んだ数字の末尾が亀の歩む速度で回転していて、胸の奥に開いた穴が大きくなったような気がした。

 もし、このままアキが戻らなかったらどうなるのだろう。

 住人がいなくなった住宅がどう処理されるなど知らず、やりきれなさに扉を足蹴にした。ガンと音が響いたが、文句を言う住人もいない。

 溜息を吐く。

 俺は踵を返し、アキの家を後にし、小さな駐輪所へと向かった。


 その途中で立ち止まったのはそばにある集合ポストが目に入ったからだった。管理する者がいないため、アキの家のものだけに郵便物が溜まったままになっていた。重さに耐えきれなかったのか、地面にダイレクトメールがいくつも落ちていた。雨に濡れて皺だらけになった紙には砂粒が付着している。


「……あ」


 別に重要な何かが目に入ったわけではない。それでも俺は声を上げていた。

 そうだ、集合ポスト。

 急かされるように駆け寄り、ダイヤル式の錠に手を伸ばす。必死で幼少期の記憶を探り、二桁の十六進数を順に回した。がちゃりと音が鳴り、鍵が外れた感触が指に響いた。勢いよくポストを開き、郵便物を乱雑に引き抜く。それから内部に手を伸ばした。指先にキーフックの感触が当たる。それを辿るとぬるい金属の手触りがあった。

 アキの家の鍵だ。

 締め出されたときのために隠されたスペアのキー。


 俺はそれを引っつかみ、もう一度アキの部屋へと向かった。磁気式の平べったい鍵を差し込み、回す。錠が外れた感触に思いきり扉を引いた。

 むせかえるほどに熱された空気が肌を包んだ。

 それだけでしばらく誰も足を踏み入れていないとわかる。だが、俺は自分を止められなかった。三和土で靴を脱ぎ、あたりを見回す。台所は片付けられていて、洗い物の一つもない。左手にある襖は開いたままで、その向こうでは整然とものが散らばっていた。空き巣や家捜しといった風情ではない。何かを探すためにものを引っ張り出したかのような秩序があった。


 きっとアキは一度帰ったのだ。

 俺はその確信をもとにアキの部屋に入った。左手にはDVDが並んだ棚、正面には少しだけ乱れたベッド、右手には学習机がある。

 机の上には二枚の白い紙が重ねられていた。

 近づき、目を落とすと思わず笑いが漏れた。


『勝手に入んないでよ、ケイスケ』


 まるで俺がここに来ることを予期していたみたいなメッセージだ。無理して残したに違いない。油性ペンで書かれた文字は何度も目にしてきた筆跡で、悲しみは残滓すらなかったが、笑顔を繕うアキの姿がなんとなく脳裏に浮かんだ。

 俺は紙を捲り、下にあるメッセージを確認する。

 その瞬間、俺は笑ったものか泣いたものか、わからなくなった。

 涙は流れている。しかし、笑顔を消すこともできない。


 ――『探してみなよ』


 以前、河川敷でした会話を思い出す。家出をするときは『探してみなよ』と置き手紙に書くべきだ。その挑発的な文言は最悪の想像が決して現実にはならないことを雄弁に物語っていた。こんなメッセージを残すくらいだ、アキは絶対に自分で死を選ばない。それだけで俺は安心し、今まで堰き止めていた涙を自由に流した。


「馬鹿じゃねえの」


 この夏、俺はアキとナコとともに悪戯を企て、たくさんの人から逃げた。その役割が少し変わるだけだ。今度は俺が探す番になる。誰も助けてくれる人はいないだろうが、きっと見つかるはずだ。俺はそのときに言う早口言葉を考えながら高らかに笑った。


        ◇


 人心地つくと俺はすべての窓を開け放ち、部屋に風を通した。しばらく掃除していないせいか、床に落ちた埃が風に流され、部屋の隅に溜まっていった。わざわざ気を利かすのも癪で放っておくことにする。

 知り合いの部屋を家捜しするのは気が進まなかったが、何か手がかりを残している可能性もある。明確なヒントがなくてもアキのことだ、もしかしたら『勝手に見ないでよ』くらいの罠を残しているかとも想像していたが、残念ながらそんな悪戯は仕掛けられていなかった。


 とはいえ、それもそうか、と納得する。アキがいつこの部屋に戻ってきたのか定かではないが、そこまで精神状態が回復していたのならば姿を消す必要はなかっただろう。

 額に流れる汗を拭い、俺は学習机の椅子に座る。硬い木でできており、潰れた座布団が敷いてあったが、尻が痛い。勉強に適しているとは思えない材質だった。


「アキ、お前、他になんも残してねえのかよ」


 不平を溢し、舌打ちをしたところで俺はふと動きを止めた。ブックエンドに立てかけられた青いファイルが目に入ったのだ。高校生が持つにはあまりに事務的な装いのファイル。以前、世直し、もとい、悪戯の計画を練っていたとき、アキが支配者関係の書類と言っていた、あれだ。

 唾を飲み込む。

 窓の外に目をやる。

 試しに呼びかけても返事はなかったが、現在も俺に監視がついている可能性は十分にあった。もしこのファイルに目を通したことで政府の関係者が接触してきたとしても今の状況からすると好都合ではあるため、気にする必要もなかった。


 俺はブックエンドからファイルを引き抜く。支えをなくした教科書がさらに角度をつけて傾げた。硬い表紙を捲る。そこにはフォーマットだろうか、書き方を指南する紙が最初に挟み込まれていた。支配者という異質な存在に注文するにしてはどうにも行政的な形式でおかしくなる。右上に日付を記す項目があり、上段には〈命令〉の場所や対象、次に内容など〈命令〉の詳細、下段にはそれに対するレポートを書くようだった。


「おっ、と」


 最初から軽く目を通そうと思ったが、汗のせいでずいぶんとページが飛んだ。最後のほうに挿まれていた厚紙で指が止まり、俺は何の気もなしに次のページを開く。そこにあった〈命令〉に懐かしさを覚えた。

 日にちは初夏だ。場所は八王子駅前交番前、厳つい男がアキへと進み出てくる。さんざん挑発され、アキは男に「宇宙飛行士を目指せ」と言った。しかし、実際にはその言葉はブラフで、実際の〈命令〉は「舌打ちをしてその場を離れ、〈命令〉について口外しない」というものだった。


「なんでこんなことになったんだろうな……」


 小さな呟きはいつまで経っても部屋の中を漂い続ける。

 風が入り込んでくる。その肌触りは河川敷や旅の途中で感じたものとはほど遠かったが、なんとなく思い出が刺激された。

 俺は溜息を吐き、ファイルへと目を通す。続きにはテレビ局関係者にした〈命令〉だとかがあるだけで、旅行中のものはなかった。当然だ。旅行中もアキはスマートホンにメモを残していたが、それを清書する気力はなかっただろう。

 俺は微笑み、ファイルをブックエンドへと戻す。


 ――戻そうとしたところで、腕が硬直した。


 雷に身体を貫かれたかのような衝撃に、俺は目を見開く。


 ――待て。待て、待て、待て。


 なぜ、八王子の駅前でした〈命令〉がこれほど後ろの項目にあるのだ? あの〈命令〉は俺の記憶にある最初の〈命令〉だ。にもかかわらず、厚紙と最初のページには指一本分以上の厚みがある。政府関係者に対して〈命令〉を下していたとしてもこれほど数が膨らむだろうか?

 俺の知らない支配者の十七日間が手の中にある。


 そこで、アキはどんな〈命令〉をした?


 心臓が早鐘を打つ。耳元で血流の脈動がうるさくなる。唾を飲み込もうとするが、口の中が乾ききっていてうまくいかない。俺は戻しかけたファイルを再び開き、一ページ目をゆっくりと開いた。知らなくてもいい事実が記されているのではないか、と疑いつつも、手は止まらない。

 そして、声にならない声が宙に浮いた。

 日付はアキが支配者に選出された五月初旬だ。場所は俺たちの通う学校、そして――


「……ちょっと待てよ、なんだよこれ」


 俺は息を呑む。思考が追いつかない。

 対象には遠藤ケイスケと――つまり、俺と記されていた。


「俺、知らねえぞ」


 変な笑いが溢れる。当然のことながら俺の記憶にはない。俺が初めて受けた〈命令〉はテレビ局での帰宅禁止令のはずだ。

 だが、確かにアキの筆跡で俺の名前が書かれている。

 背中を冷たい汗が伝う。〈命令〉の内容へと目を落とす。字面だけはさほど変わったものではなかった。「話を聞いてよ」。ただ、それだけだ。

 ぞくり、と背筋が震えた。


 紙を捲る。対象者は、また、俺だ。次も、その次も、俺の名前が並んでいる。時折、おばさんや政府関係者やクラスメイトや先生らしき名前があったが、記されているほとんどは俺に向けられた言葉ばかりだった。


「話を聞いてよ」「友達だよね」「どうすればいいのか、教えてよ」「友達だって言ったじゃないか」「僕の言うことを聞いてよ」「ケイスケ、僕を助けてくれ」……


 それは紛れもない、アキの苦悶と怨嗟の声だった。

 支配者なんてものに選ばれた高校生が持つであろう、当たり前の嘆き。それを俺の知らない俺が聞いている。

 なんだ、これ?

 混乱が脳内を占拠していた。だが、筆跡には俺を脅かすための創作とは思えないリアリティがある。ところどころ震え、掠れ、書き殴ったかのような文字は不条理な現実に直面したアキの叫びのようにも見て取れた。


「……アキ、お前、なんだよこれ」


 呟きはほとんど空気を揺らさない。

 次第に、俺の脳裏に病院での一幕が去来してくる。あのとき、アキは冷静さを失い、身悶えしながら何かを明かそうとした。

 それが、これか?

 記憶は徐々に誘爆を始める。なんてことのない一言が耳元で聞こえ始める。


 ――ケイスケ、ごめん、巻き込んで。

 ――当たり前じゃないよ。当たり前じゃなかったんだ。

 ――いつ以来だと思う?


 俺は、はっとし、スマートホンの画像ファイルを確かめる。ことあるごとにカメラを構えていたわけではないが、イベントなどでは写真を撮影していたはずだ。

 中学生の頃の写真が最初のほうに残っている。画面をスライドしていく。互いの母親と行ったキャンプなどもあったが、アキとの写真は原付の練習を最後にぱたりとなくなった。代わりに笑っているクラスメイトたちと一緒に笑う俺がいる。別段仲良くもないはずの女子と肩を組んでいる。一年が過ぎる。そして、最後に出てきたのは俺とナコとアキが焚き火を囲んでいる写真だった。


 ――僕のことを忘れてもらおうかと思ったけど。

 ――僕の〈命令〉だけじゃ無理だよ。宇宙人にお願いするとか、自発的に忘れてもらうとか。


「……アキ、お前、誰だよ」


 俺は立ち上がり、ふらふらと歩いてDVDの棚、その下段にある卒業アルバムに手を伸ばした。小学校のときも中学校のときも、俺がアキといる写真が残っている。もちろん、記憶にだってある。


 ――お前は『強い〈命令〉』と『弱い〈命令〉』に関することを鈴木明英から聞いたか?

 ――『強い〈命令〉』は人の記憶や感情にまで踏み込むということだ。鈴木明英はそこに興味を示していてな。


 状況を把握できない。

 だが、確実に言えることはあった。

 俺は、俺の記憶は、ねじ曲がっている。

 恐怖を感じた。必死に思い返す。高校に入ってからのアキと過ごした記憶だ。原付の免許だって一緒に取った。アルバイト帰りに待ち合わせて夜の中をだらだらと走った。なんてことのない日々を過ごしたはずだ。

 しかし、あらゆる記憶は断片的で、まるで捏造されたかのような不快さだけがこびりついていた。写真が語るとおり、真実はあるだろう。だが、一年の夏からアキが支配者になるまでの真実はすっぽり抜け落ちている。


 ああ、そうだ。

 少なくとも、高校に入学した後、俺はアキと一緒にキャンプへ行った覚えなどなかった。

 俺は震える手で中学校の卒業アルバムを机の上に置く。汗が止まらない。思考がばらばらに拡散したないまま、時間だけが過ぎていった。

 そして、ゆっくりと、何が入っているかわからない箱の蓋を開けるように、俺は携帯電話へと指を動かした。検索をするためだ。気になってどうしようもないことが一つだけあった。

 検索ワードは「従属衝動 第二段階」だ。


 従属衝動については世の中で広く知られている。予想、検索結果には支配者に関するウェブサイトがいくつも並んだ。しかし、どのページを開いても第二段階の従属衝動について記されているものはなかった。

 なのに、どうして俺は知っている?

 そうだ、そもそも〈命令〉を受けた瞬間に感じる冷たい痺れなど知るはずがないじゃないか。テレビ局でアキの〈命令〉を受けたときが初めてだったんだ。


 初めて――。


 よろめき、机に手を突いた瞬間、するりと卒業アルバムが落ちた。畳に落ちた記憶の証拠は一度跳ね、俺の足にぶつかった。

 愕然とする。

 俺は、あのとき、痺れを感じなかった。俺が感じたのは世界が膜に包まれていく感触だ。アキが口にした言葉をきっかけ世界が乖離していくような感覚。そして、その感覚には何度も覚えがあった。世直しを伝えられたときも、ナコと出会ったときにした役割の下りもそうだ、いや、よくよく思い返せば俺が支配者について言及したあの河川敷のときにもあったかも知れない。


 喉が詰まり、息苦しさに俺は何度も咳き込んだ。自分が抱き始めた想像に吐き気がこみ上げてくる。


 俺が従属衝動の第二段階に足を踏み入れていたとしたら――。


 だから、アキとずっと一緒にいたのか? それをあたりまえだと思い込んで?

 肉体は簡単に精神を捏造する。ホルモンバランスが崩れ、恐怖心やこだわり、喜びを操られたとき、人はどうなるのだろう。いやな記憶に蓋をする、なんて話はよく耳目に触れる。それが極限まで高まったとき、人はどのように変化する?

 しかし、だとすれば、アキが〈命令〉に対して忌避感を覚えていた理由に説明はついた。アキが意図せず俺を従属衝動の第二段階まで追いやってしまったのだとしたら、自分の役割と権限の間で懊悩していたとしてもなんら不思議はない。


 そこまで考えて新たな疑問が湧いた。

 おそらくこの事実をナコも知っていたはずだ。病院での浮かべたあの表情に鑑みたらすべてを知って俺たちと一緒にいたということは一目瞭然だ。だというのに、ナコはアキに〈命令〉を使わせようとしていた。

 なら、横谷ナコとはいったい何者だ?

 すべてがわからなくなっていく。

 世界が崩れていくような気分に視界が歪んだ。


 この二ヶ月、俺を取り巻いていた何もかもがいつの間にか俺の知らないところへと移動している。寄辺のない気分に俺はなんとかアキの部屋から這い出た。自宅へと向かう。だが、帰ったところで誰かに相談できるはずもない。そういえば、母さんは俺がアキといたことに新鮮な反応をしていた。

 俺は笑っている。

 陽光が降り注ぐ道をなんとか辿る。頭がおかしくなりそうだ。いや、既におかしくなっているのだ。周囲の視線を感じる。でも、聞いてくれ、俺はおかしくなっているのだ。

 そうでなければ、おかしいのはこの世界だ。

 当たり前に続いているはずの日常に、俺は頭を抱えることしかできない。


 そして、家に辿りつき、帰ってきた母さんに離婚が正式に成立したと報告された。なんとかいつもの表情を取り繕い、ぼうっとした頭で考える。

 ああ、変な偶然もあるものだ。

 ずっと知っていたはずの事実であるにも関わらず、自分の身に降りかかると途端に別の意味合いを持つような気がしてくるから笑えてくる。


 母さんの旧姓は――鈴木だ。

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