2 流体の日常
2-1
支配者制度のいちばんの被害者は、もしかしたらうちの校長なのかもしれない。
冗談半分にそう思った。
丸顔の校長は始業式で俺やアキについて何一つ言及しなかった。とはいえ、その顔には二人目の支配者を輩出したことへの疲労が満ち溢れていた。支配者の交代は〈命令〉の解除条件と設定されていないらしく、メディア関係者の姿は学校近辺にはなかったが、個人的な接触はあったのだろう。校長の丸まった背中には早く切り上げたいと願う淀みが溢れていた。
体育館から引き上げると大掃除と避難訓練のあと、
なるほど、弊害を感じる。確かに校内の至るところに看板であるとか未完成の装飾であるとかが転がっていたが、俺の記憶にはそれらに携わった記憶はなかった。
昼休みも話題は文化祭の話で持ちきりだ。アキが支配者になるまで俺は誰と弁当を食っていたんだっけ? 俺はスマートホンのカメラロールを確認し、教室に元友人がいないか、確認した。最初に目についたのは俺が肩を組んでいた女子だ。視線がぶつかったが、なんとなく気が引けて、別のクラスメイトを探した。画面をスライドする。去年の文化祭に行き当たる。俺はその中で顔が一致する人物を見つけ、立ち上がった。
幸い、名前は記憶に残っている。「なあ、飯塚」
「あ、え」窓際の席、一番前、声をかけると飯塚は咀嚼していたものを慌てて飲み込み、咳き込んだ。「な、なん……だよ」
「びびるなよ」
俺が支配者だからなのか、それとも、アキに従属していた期間に何かあったのか、飯塚の全身には緊張が纏わりついていた。一緒に昼食を摂っていた面々もぎょっとして動きを止めている。それを言うならクラス中も同様だ。先ほどまで絶え間なくさざめいていた談笑はぴたりと消えていた。
「別に何も〈命令〉しねえよ。訊きたいことがあるんだ」
飯塚は声を発しない。身構えたまま、渋い顔をしている。その態度を受諾と看做し、俺は続けた。
「俺、お前と仲、良かったか?」
「……は?」
「別に何かを要求してるわけじゃねえから。ただの確認だよ」
じっと目を凝視する。飯塚はばつが悪そうに視線を逸らし、小さく頷いた。
「まあ、一緒にメシ食ったりとかはしてたけど……」
「それ、いつまでだった?」
「いつまでって……そんなの覚えてないって」
「正確な日付を訊いてるわけじゃねえよ。五月だってのはわかってる。どっちにしたってアキが支配者になってからだろ? だいたいでいいんだ。何日目、とか」
「なんだよ、うぜえな」
近くから飛んできた罵声に目が動く。菓子パンの空袋を握りしめていた級友は明らかに敵意を向けていた。
「遠藤、お前、俺たちともう関係ねえだろうが」
「もう関係ねえってことは前は関係あったんだな?」
「だから関係ねえっつってるだろうが!」
嘆息する。
飯塚の反応を見るに、俺が手ひどい決別を告げたわけではなさそうだったが、これ以上続けても押し問答になるだけの予感がした。また、周囲が批難するような目つきで見つめられていたため、俺は両手を挙げて引き下がった。
大崎になんと報告しよう。俺自身は別段重要な情報とは考えていなかったが、彼はそれなりに執着していた。〈命令〉してでも聞き出したほうがいいのだろうか。
俺は逡巡し、ちらりと彼らを振り返る。その瞳に宿る色は戸惑いの灰色だったり、苛立ちの赤であったり、罪悪感の黒であったり、千差万別だ。ただ、全員がいちように壁を作っており、まあ、そんなもんだよな、と思った。同時に〈命令〉を使う気が急速に失せていった。こんな些事を改変するたびに、きっと、俺を俺たらしめている細い糸が千切れていく。傲慢の先に求める結果があるとは到底思えなかった。
俺は鞄から弁当の包みを引き抜き、教室を後にした。幸い、今日は晴れている。外に出て食べれば面倒はない。
そう考えていただけに後ろから声をかけられたことにひどく驚いた。
「ねえ、遠藤!」
教室から勢いよく出てきた女子は重圧に押し潰されそうな、張り詰めた表情をしている。ああ、俺と肩を組んでいたあの女子だ。名前は、そうだ、木下だったはずだ。木下は胸のあたりでぎゅっと拳を握り、俺を見つめていた。
「ねえ、遠藤……大丈夫?」
「大丈夫、って何が?」
「えっと、その、支配者、になったこと……とか」
とか、ではぐらかせるような話題ではない。俺はなんだかおかしくなり、小さく笑った。それを見た木下の表情には安堵と不安が入り交じっており、笑っているのか困っているのか、一目には判別できなかった。
彼女は俺の異変がいつ表出したのか、知っているだろうか。過度な期待を抱いてはいけないが、減るものでもない。試しに訊ねてみることにした。
「なあ、木下は知ってるか?」
「え」と彼女は悲しそうな顔になる。「木下、って」
「ほら、俺が飯塚たちと一緒にいなくなった時期だよ。ちょっと確かめておきたくてさ」
「……あいつが支配者になって一週間も経ってなかったよ。五日、とかそのくらい」
妥当なところだ。対応を決めあぐねていた〈新聞同好会〉がアキに接触したのが支配者決定の五日後だったそうだから、アキが彼らを拒絶しなかった理由はそのあたりの煩悶にあったのだろう。
「ありがとう、助かった」
「ねえ、遠藤」木下は泣き笑いのような顔で俺の旧姓を呼ぶ。「ごはん、一緒に食べない?」
「やめとけって、悪い噂が立つぞ。支配者にごまを摺ってるとか」
「そんなんじゃないよ!」
廊下に響いた声に、そこらにあった会話が硬直した。視線を感じる。アキのときもそうだったが、どうにも支配者は人目を引く存在になりやすいらしい。大声を出させたことが申し訳なくなり、俺は頭を掻いた。
木下は一度俯き、やや慌てて言葉を継いだ。
「あの、ほら、文化祭近いじゃん。いろいろ話だってしないと。同じ担当でしょ?」
「あ、そうだったっけ」
「え?」
「ごめん、俺もこんな感じだしさ、手伝うのムズそうかもだわ」
できるかぎり深刻にならないよう、俺は手を合わせ、謝意を示す。記憶がないと悟られてはならない、とは警戒しているわけではなかったし、大崎にも注意を促されていない。それでも、関係性の齟齬に気分が良くなる道理はないだろう。
会話を打ち切り、そそくさとその場を去る。
俺だって馬鹿じゃない、と誰にともなく言い訳をする。
◇
「ああ、五日くらいって言ってた」
「なら、十回、というところか。誤差はあるだろうが」
「大崎さん、アキの〈命令〉が影響してるとか、確証あるのかよ」
「お前にだけ当てはまる条件はそれほどない」
「ふーん」
俺はアキの家で支配者ファイルを眺めていた。電話先の大崎が知りたかったのは弱い〈命令〉が強い〈命令〉と化す要因であるそうだ。それにどれほどの重要性があるか、俺には見当もつかなかったが、どのような情報でも今は有益に働くのだという。数学でやったベクトルの授業が思い浮かんだ。ゴールがありそうな方向へ矢印を伸ばす。別の要素が加わる。すると、どれだけ遠回りになろうとも目的へと近づくことができる。あまりにも迂遠な方法ではあったが、俺たちが縋るべき手段はほとんどそれしかなかった。ただでさえどうすれば宇宙人を救えるのか、手がかりがないのだ。だから、宇宙人たちの行動を極めて合理的なものと決めつけて、それを指針とする大崎の意向は理解することができた。錐で岩壁を崩すような気分にはなるが、弱音を吐いても状況は好転しないため、心の底に押し込めておく。
「でもさ、大崎さん、それって〈命令〉の内容にもよるんじゃねえの?」
「人体実験でもするつもりか?」
「そうは言ってねえだろ。ただ大事なことだろ」
「冗談だ」
「……大崎さん、俺の言うことを聞いてくれ」
やや間を置いて、大崎は返事をした。「何だ?」
「あんた、冗談が下手くそだからやめたほうがいいよ」
適当に言った言葉だったせいか、返ってきたのは無感情な反応だった。俺はファイルを鞄にしまい込みながら溜息を吐く。
アキの〈命令〉によって俺は従属衝動の第二段階にあり、加えて、記憶の改変に鑑みれば強い〈命令〉を受けていることになる。その何が影響してクラスメイトたちとの間に壁を作る原因となったのだろうか。〈命令〉と一口に言ってもアキが俺に下した〈命令〉は多岐に渡る。具体性を帯びたものもあれば抽象的なものだってあるのだ。ぼんやりと抽象的な〈命令〉が変な方向に働いたのではないか、と思ったものの、推測にすら満たない当てずっぽうの結論ではあった。
「とにかく」と大崎は言う。「お前が次に宇宙人に会う機会を待つしかない。私たちはそれまでにお前がするべき質問を考えるだけだ」
「なら、俺はテストのことだけ考えてればいいのか? 明日からなんだけど」
「ああ、それで構わない。すまん、これから会議だ」
その一言を最後に通話が切れる。
だからと言って、だ。だからと言って大崎にすべてを任せるつもりはなかった。
宇宙人は俺を選んだのだから。
認めたくはないが、それは俺が彼らの期待に応えるだけの何かを有していたのだろう。どちらが後か先かはわからない。俺に期待を寄せるからアキを選んだのか、アキと過ごした日々により俺を支配者として追認するだけの理由を見出したのか。
懊悩するにも材料は少なく、俺は再び嘆息し、アキの家を後にした。
自転車に乗る前にアキに電話をしてみる。だが、聞こえたのは代わり映えしない録音された音声だった。おかけになった電話番号は現在、電源が切られているか電波の届かないところにあるため――。ふと思い立ち、ナコの携帯にもコールする。こちらは電話ではなく、メッセンジャーツールを使ったため、いつまでも無機質な音が響くだけに終わった。
呻き声を堪える。呻き声を出そうとしている自身の心に気がつく。
空から降り注ぐ日差しは夏を帯びたままで、強い。だというのに、暗闇の荒野か大海を一人で進んでいる気分だった。真っ直ぐ進みたいのに多すぎる情報やくだらない感情が横風となって思考の進路を曲げていく。
優先すべき事柄は一つなのにどうにも定まらず、居ても立ってもいられなくなり、俺は自転車に跨がった。
◇
俺の知らない間に世界が救われていた。
漫画の話だ。
アキがいない学校生活はどうにも手持ち無沙汰で、俺はかつて習慣としていた漫画雑誌の立ち読みをするために家からいちばん近いコンビニに寄っていた。乱雑に陳列されている雑誌を一つ引き抜き、ページをめくると見知ったタイトルが目につく。だが、しばらく話を飛ばしていたせいで場面展開への推理力を試されているようにも感じた。
単行本で読まなきゃなあ、と思うと同時に自分がそれまでアルバイトをしていたことを思い出した。帰宅禁止令とそれにまつわる事件以降、まったく連絡をしていない。シフトの提出は二週間ごとの一日と十五日だ。
俺はスマートホンを取り出し、店に電話をかけようとして、やめた。そもそも十五日の時点で店長からの連絡がなかったのだ。きっとうやむやにしたまま、どうにか雇用契約を打ち切れないか、と考えているに違いない。人手が足りないと口癖のように嘆いていた店長が連絡してこない理由をそう断じ、鞄に電話をしまった。
コンビニを出る。やる気のない「ありがとうございました」も聞こえない。振り返るとレジにいた店員がちらちらとこちらを窺っている。「金を出せ」と〈命令〉するとでも考えていたのだろうか。
たぶん、アキも似たような経験をしたはずだ。だから、とも推測する。だから、アキは世直しをわざわざ八王子の駅前で行おうとしたのだ、と。八王子駅は俺たちの生活圏から外れている。日常生活と地続きにある自宅近辺で行動するには人々の変化はストレスが多すぎた。
俺はポケットから自転車の鍵をつまみ上げる。
「ケイスケ」と声をかけられたのはそのときだった。
今日はよく後ろから呼びかけられる日だ。俺は顔を上げ、声の主を見やる。感情はそれほど揺らがない。驚くとしたら予想よりも早い、ということくらいだった。
「……親父」
「その、久しぶりだな」
上着こそ脱いで手に持っていたが、親父はスラックスに長袖のシャツという暑苦しい格好をしていた。小学生の頃、俺が選んだ青いネクタイをしている。建設業の営業部長を任されている親父はそれほど外回りをしないそうだが、大きな顧客との契約の際は出張ることもあるらしかった。
「仕事?」
「……ああ、取引先に行った帰りに思い立ってな」
理想的な父親像――たぶん、多くの人が親父に憧れを重ねていただろう。家庭を顧みないわけでもない。仕事にも精力的で、よい結果を残す。プライドが高く、整理整頓が苦手なのが玉に瑕だが、普段は勇敢で頼もしい。
でも、それは片面だけの評価だった。
親父は人間関係の整理整頓ができず、営業の手腕を存分に発揮して母さんじゃない女性との愛に溺れた。二つの家庭を大事にして、勇敢にも子どもまで作ってしまった。プライドが高いものだから謝罪すらままならなかった。要約するとどこにでもある陳腐な話だ。浮気が原因の離婚。
坊主憎けりゃ、なのだろう、俺は親父のネクタイを見ただけであざとさを感じ、気分が悪くなった。思い立って、というのはきっと嘘だ。少なくとも朝から俺に会おうと考え、だから、わざわざ思い出のあるネクタイを選んだに決まっていた。
俺たちじゃなくて、愛人を選んだくせに。
その悪罵をなんとか堪える。
「で、どうしたの?」
「あ、いや」
「尾長さんたちとは順調?」
「ああ、まあ」
歯切れが悪い。バイアスがかかっている自覚はあったが、その態度を目にしただけで俺は親父の目的に勘づいた。親父は俺に会いに来たわけではなく、支配者に謁見しに来たのだ。元愛人で現妻の尾長さんとの間に不和があったのか、それとも、会社で問題が起きたのか、その解決に俺を利用する素晴らしいアイディアが閃いたに違いない。
「……何か、お願いでもあんの?」
俺がそう訊ねると、一瞬、ほんの一瞬、親父の目に期待の光が浮かんだ。まがりなりにも俺は不貞を知るまでは親父を慕い、憧れていたのだ。その程度の変化ですら読み取ることは容易かった。
目を伏せる。どうしてこんな反吐が出るような茶番に付き合わなければいけないのだろう。しかも、もっとも日常に近い、コンビニの駐車場で、だ。知らず言葉は刺々しくなり、俺は当て擦るように質問を続けた。
「それは俺に対するお願い? 支配者に対するお願い?」
「ああ、その、だな」
「俺に対してなら百歩譲って聞くよ。でも、支配者の〈命令〉を当てにしてるんなら――」
帰ってくれ。できれば二度と姿を見せるな。
嫌いだから、憎んでいたから言ったわけではない。社会的に、世間的に浮気が罪深い仕打ちだったとしても、俺にとっては血の繋がった父親なのだ。思い出だって俺の中にたくさん残っている。
だから、これ以上、幻滅させてくれるな。
それがたった一つの望みだった。
だが、願いは虚しく、親父の顔色が変わった。怒りに顔を引き攣らせ、周囲を気にかけながら、彼は怒鳴る。
「なんだ、父親に向かってその口の利き方は」
その口ぶりで、目で、瞬間、昔はあれだけ恐ろしかった親父の剣幕がくだらない戯れ言へと変わった。悲しいはずなのに、俺は笑っている。
「……父親ならこんな口の利き方させんじゃねえよ」
「なんだと?」
「俺がアキと一緒にいたことは知ってるよな? いろんなところで話題になってたはずだから知らないわけないよな。でも、親父は一度だって連絡してこなかった。俺が支配者になってから今日で何日目だ?」
「……こっちも仕事が立て込んでたんだ」
「なら、あんたにとって俺はもう『大事なもの』の外に置かれてたんだろ」
せめて愕然とした表情をしてくれたのなら俺の溜飲も下がったのかもしれない。だが、親父は満面に朱を浮かべ、俺に手を伸ばしてきた。
「触るな!」
その〈命令〉は血縁だとか戸籍だとか今までの関係性だとかを飛び越えて視床下部に作用する。親父の手は大きく震えて止まり、俺の鼻先で虚空へと伸ばされていた。
「ケイスケ」
最悪の〈命令〉が頭に浮かぶ。目の前にある幹線道路では、時折、速度超過の車が矢のように過ぎ去っていく。俺が一言、口に出してしまえばこんな茶番などすぐにでも終わるのだ。憎しみなどなかったのに、今では憎くて堪らない。最初から他人であったのならばこんなに苦しくはなかっただろうに。
――アキ、お前が言ってたのは宇宙人のことだけじゃないんだな。
支配者こそが誰よりも縛られる、その本当の意味がわかった気がした。誰もが俺を支配者として仕立て上げようと目論んでいる錯覚に襲われた。記憶だとか周囲の反応だとかは頭の隅に置いておくべき事柄で、今は何よりも宇宙人を救う方法を考えなければいけないというのに、そうさせてくれない。
「親父、頼むから帰ってくれよ」
俯き、地面に向けて声を放ると、親父は黙り、やがて車へと引き返した。社用車らしき白のセダンが唸り、震える。そして、滑らかにコンビニの駐車場を出て行った。なんとかその表情を確認したが、ちらとすら目が合うこともなく、悔恨めいた色も見つけられなかった。
黒々とした陰鬱の塊が胸を占拠している。感情の糸はもう解けないほどに絡まっていてどうしようもないくらい叫びたくなった。
その日、いつもより早く帰ってきた母さんが「学校はどうだった? 何かあった?」と訊ねてきた。俺は笑みを繕い、答える。小学生じゃないんだからさ、別に何もなかったって。下手な嘘だ。だが、どうして本当のことを言える? クラスメイトたちとの間には溝があった、教師たちの顔は引き攣っていた、わざとらしく日常を振る舞おうとして父親と会い、失敗した。それらを素直に吐き出せるほど俺は強くはなかった。
夕食を摂り、部屋へと戻る。
棚には親父が俺にくれた本が並んでいる。机の上には明日提出すべき夏休みの課題が積まれている。窓の外にある街灯はぽつぽつと道を照らしているが、どうにも夜の暗さをさらに深くしているような気さえした。
アキ、お前はいいよな。
お前には俺がいた。でも、俺は誰に吐き出せばいい?
早くしなけりゃ壊れちまうよ。
早くあいつらを追い出さなければ――。
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