3-4
「ちょっと、待ってよ、何それ」
狼狽に塗れた声にやっとのことで顔を上げるとナコは顔を引き攣らせていた。困惑で半笑いになりながら大崎に詰め寄るその姿を、俺は呆然と眺める。
「大崎先輩、めったなこと言わないでくださいよ。そんな〈命令〉」
「横谷」
「ケイちゃん、ケイちゃんだって違うと思ってるよね。だって、もしアメリア・スミスが正解だったなら宇宙人だってもっと評価してるはずじゃない。対象を考えるより内容を考えるほうが難しいんだから」
「……たぶん、それが宇宙人の言ってた功罪だ」
アメリア・スミスは〈命令〉によって直接的に人を殺したわけではない。彼女が口にしたのは「離れて」という一言のみで、死人が出たのは結果であり、あくまで事故なのだ。だが、その一件で次代以降の支配者の選択肢から他者の死を願う〈命令〉が除外される可能性が生まれてしまっている。内容が希望の核を掠めていたとしても宇宙人が彼女を手放しに称える理由はなかった。
「前提に沿って考えれば」大崎は目を伏せ、大きな嘆息をした。「可能性としては考慮に値するな」
「ふざけないでくださいよ! ケイちゃん、そんな〈命令〉――」
激昂していたナコはそこで目を見開き、言葉を飲み込んだ。次に何を言おうとしていたかは明白だ。「そんな〈命令〉する必要ないよ」。異論を唱えたのも口を噤んだのも、きっとナコの優しさからなのだろう。天秤のどちらの皿に錘を載せるべきか、判断に窮したナコはぐっと唇を噛みしめたまま、黙り込んだ。
「わかってるよ」俺は囁くように言う。「わかってるって」
「わかってないって! だって、そんなの……」
「横谷、お前は何を言いたいんだ?」
大崎は姿勢を崩さずにナコを見つめていた。感情を爆発させていたナコは息を吸い込み、立ち上がろうとする。だが、その途中、膝立ちのまま止まった。机を見つめている。あるいは今ここで出た結論めいたものを忌々しげに睨んでいた。
「何を」その声はか細い。「何を言えって言うんですか。そこらの人が言う『死ね』とは話が違うんですよ。〈命令〉なんです、〈命令〉なんですよ!」
「なら反対すればいいだろう」
「簡単に割り切れないからこんなに喚いてるんじゃないですか! もし……考えたくないけど、もしそれが正解だったなら、ケイちゃんに一生支配者でいろって言ってるのと同じ、じゃないですか……」
ナコは力なくへたり込む。顔を覆い、苦い空気を肺いっぱいに吸い込むような呼吸をした。俺は不思議と冷静にその様子を見つめている。
「ケイちゃん」
床にぶつかったナコの声はほとんど跳ねず、俺のもとへと転がってくる。
「ケイちゃんはそれでいいの? その〈命令〉が全部を元どおりにできるものだったとして、たとえばそれで拒否権が発動して誰も死なないって思ってたとして、言葉にできるの?」
「……もしそうならやらなきゃいけないんだろ」
俺の返答に、ナコは悲しそうな顔をする。
「……取り憑かれてるよ、意地張ってるだけだよ、そんなの。だって、そんな〈命令〉、線を超えてるじゃない!」
その瞬間、母さんの言葉が脳裏に甦った。
――私は嘘でも人の生き死にに関することは言わない。
特別、真剣に諫められていた記憶はないが、俺だってその言葉を意識した覚えはあった。横目で本棚をちらりと見る。アキの部屋、並んだ映画の群れを思い出す。別離をテーマにした作品は枚挙に暇がなく、冗談半分に「死」を口にすべきではない、という教訓は数え切れないほど目にした経験があった。
――命令とは願いに似ている。
それが宇宙人からもたらされた権限であってもそうでなくても、あらゆる命令は願望を充足させるために行われる。自分を強く見せるため、仕事をうまくいかせるため、その理由はさまざまだ。だが、結局のところ、自分だけでは叶えられない願いを叶えようとする意志に過ぎない。すべての飾りを剥いでしまえば、命令なんてものはただの願いと一緒だ。
だから、つまり、俺はこれから他人の死を願わなければいけないということになる。
頭は冷静だった。他者の死を願う〈命令〉を行使したとしてもそのとおりになるとは限らない。それに、〈命令〉は解除が可能な代物だ。テレビ局でアキが俺とナコだけに除外を図ったときと同じく、失敗だと判断できたとき、すぐさま「待った」をかければ死人は出ないかもしれない。
だが、それでも俺が「死」を願ったという事実は残る。
たとえ、この世界から支配者なんて歪なものを消し去るためだったとしても。
「……別の方法を考えようよ」
ナコの声にはいつもの覇気はなく、辛うじて俺のもとに届くくらいの弱々しいものだった。俺はなんとか、形だけ頷く。だが、水が一度流れた場所に再び流れ込むように、思考はどうあっても「死」へと繋がった。
小さく笑う。
手段を選ばないほど大人ではなく、手段を選べないほど子どもでもない。
一瞬、邪な思いに襲われた。そもそも俺が必死に解決しなければならない問題なのだろうか、と。それでも頭の片隅でその逃げ道を打ち消そうとしているのは、ナコの言うとおり、俺が取り憑かれているからなのだろう。自分がやらなきゃいけない、という思いに意固地になり、囚われている。
そこで議論は打ち止めになり、部屋の中は沈黙で満ちた。大崎は腕を組んだまま、何も言わない。ナコは顔を伏せたまま、何も言わない。俺は窓の外を見上げ、「今日は終わりにするか」と呟いた。しばらく反応はなかったが、やがて二人は小さく首肯し、部屋を出て行った。その間際、ナコは「早まっちゃダメだからね」と言った。
ずいぶん内側を覗かれてしまったな、と俺は頭を掻く。
同じ予感が俺にもあった。
きっと、俺はその言葉を口にする。
今、持っている恐怖が麻痺するまで待って、疲労感と使命感を言い訳に、逡巡から目を逸らすのだろう。自分のことだ、自分がいちばん理解していた。子どもでも大人でもないということはつまり大人でも子どもでもあると同義なのだ。そのどちらになるとしても、結果は変わらない。
息を吐く。
そういえば――俺はどうしてここまで、宇宙人の救済に執着してるんだっけ。
◇
日曜、午前中の太陽は柔らかく熱を染みこませるように輝いていた。
明け方まで雨が降っていたせいか、九月前半にしては過ごしやすい気温で、外を歩いていると欠伸が溢れた。風はない。空の端にある黒雲を除けば、薄く伸ばした雲が頭上でぽつりぽつりと浮かぶばかりだった。
河川敷の歩道では、時折、ジョギングをしている人とすれ違った。反応はさまざまだ。そのままの速度で走り去る人もいれば、こちらに気付き、目を見開いて不自然に距離を取る人もいる。
いつも使っているバス停に足を向けた理由など特になかった。かもしれない。強いて言えば人通りの多い場所へ行きたかった、という思いはあった。もちろん、それを殊更に意識していたわけではなく、考えてみれば、という話だ。
バス停に到着すると同時にバスが滑り込んでくる。目的地は定まっていなかったが、ほとんど癖で乗り込んだ。行き先は八王子駅らしく、俺は「まあいっか」と一人頷く。八王子駅で、まあ、いっか。定期券の範囲に鑑みると妥当な選択肢だろう。
車内はまばらに人がいるだけで席の大半が空いていた。いつもなら顔の見えにくい前方に座るのだが、なぜか足が止まった。俺は一瞬考え、右側に足を踏み出す。普段は絶対に選ばない乗車口の目の前に腰を下ろしたところでバスがのそりと動き出した。
休日の九時過ぎは遊びに出るには少し早い時間帯なのかもしれない。乗客の多くはおじいさんやおばあさんばかりだった。彼らは周囲に関心がないのか、俺に目もくれない。嬉しいような、寂しいような不思議な気分になった。
八王子駅へと近づくごとに席は埋まっていく。もちろん乗り込んでくるのは高齢者ばかりではなく、ナコくらいの年齢の女性であったり、中学生ほどの男子二人組などもいる。そういった人たちは皆、俺の顔を見ると一瞬顔を強張らせ、こそこそと足早に離れた席へと進んでいった。
連れ立っている人は少なく、後方の二人掛けの座席はほとんど一人ずつ陣取られていく。
俺の隣と後ろだけがぽっかりと空いている。
その親子が乗り込んできたのは終点まであと停留所が五つほどのバス停だった。若い女性と女の子だ。女性ははしゃいで跳ねるようにしていた我が子を諫め、「ほら、カード」と促す。女の子は首から提げたキャラクターもののカード入れを両手で掲げた。しかし、位置が悪いのか、リーダーはなかなか反応はしない。俺はその光景をぼんやりと眺めている。扉が閉まる。それでもなお手間取る女の子に苦笑を浮かべ、母親は手を差し伸べてやった。
ぴっ、と音が鳴る。その瞬間、女性と俺の視線がぶつかった。現状を把握するような間を置いた後、女性はあからさまに目を見開き、逃げるように俺から視線を逸らした。横目で乗車口を覗いていたが、既に扉は閉まっている。「やっぱり降ります」と運転手に要請するのも気が引けたのだろう、次に、彼女は車内を見渡した。空いているのは俺の隣と後ろだけだ。女性の顔色には諦めが混じっていた。
「ね、立ってようか」
「ええー!」と女の子はぐずる。「なんで? すわりたい!」
「ほら、駅まですぐでしょ?」
「なんでなんで? すわりたいすわりたい!」
「わがまま言わないの」
「やだ! あ、ほら、ママ、あそこ、すわれるよ」
女の子は、拘束するかのように繋がれていた母親の手を振り切り、ステップを登ってくる。そこで、俺と目が合った。突進するかのようだった勢いが急速に衰え、女の子の顔色がぱっと変わった。舌足らずな言い方には好奇心が満ち溢れていた。
「しはいしゃのひとだ」
空気に亀裂が入る。
その瞬間、車内にあった囁き声に満たない話し声が消えた。録音されたアナウンスが間の抜けた響きで浸透する。慌てふためいた母親が近づき、我が子を抱きかかえようと手を伸ばしたが、女の子はそれよりも先に俺の座席へと飛び込んできた。
「ねえ、しはいしゃのひとってなんのひと?」
要領を得ない質問に答えあぐねていると、母親は女の子の口を塞いだ。それがよほど不快だったのか、くぐもった泣き声とともに手足がじたばたと動く。
「あ、あの、すみません、本当にすみません」
まるで鬼か悪魔に命乞いをしているみたいだな、と思った。「いや、別に気にしないでいいですよ」
「よく言って聞かせますから」
「……あの、別に〈命令〉しないんで。それよりも手、離してあげてくれません? 俺がなんか悪いことしてるみたいじゃないですか」
女性は、はっとし、手を引っ込めた。その途端、女の子が涙声で抗議する。「ママ、ひどい!」それでも俺の隣に座らせたままではいけないと断じたのか、「隣の席に行こう?」と手を引いた。とはいえ、女の子も女の子で意地になっているらしい。「ここにすわる」と言ったきり、肘置きにしがみついたまま離れようとしなかった。そうなると狼狽するのは母親だ。椅子から引き剥がすことで俺の気分を損ねてしまうのではないか、という杞憂がありありと伝わる。かといって俺も女児がいるため席を離れられず、状況は膠着する結果となった。
一人暢気な女の子は強情に肘置きを掴んだまま、顔を上げる。
「ねえ、おにいちゃん」
まさか再び話しかけられるとは思いもしなかったため、反応が遅れる。「……なに?」
「おにいちゃんってしはいしゃのひとなんでしょ?」
「ああ、まあ」
母親に視線を送る。制止する気配はない。もうまともに思考が働いていないのだろう、戦々恐々とした表情でただただ俺と女の子を見つめるだけになっていた。
女の子は続ける。「じゃあ、おかし出せる?」
「え?」
「おかし! しはいしゃのひとなんでしょ?」
「いや、そういうのは……魔法使いじゃないから無理、だな」
「このまえね、ペンギン、みにいったの」
「ペンギン」突如として跳躍した話題に俺はおうむ返ししかできない。
「うん、ペンギン。おにいちゃん、ペンギン出せる?」
「それもちょっと」と俺は頭を掻く。「できない、な」
「しはいしゃのひとなのに?」
「支配者の人なのに」
「なあんだ、しはいしゃのひとってなにもできないんだね」
女の子は不満そうに背もたれに体重を預け、天井を見上げる。母親は悲鳴を飲み込み、窒息しそうになっている。俺は一瞬呆け、それから、思わず笑ってしまった。
「そうなんだよ。意外と支配者って何もできないんだ」
◇
八王子駅に着き、しきりに手を振ってくる女児に別れを告げた後、俺は改札へと向かった。別にどこかへ移動しようとしたわけではない。そこがいちばん人が多いと判断したためだ。
ちょうど電車が到着してすぐだったらしく、ぞろぞろと改札口から人が出てくる。足早に北口の商業地域に向かう人もいれば、待ち合わせをしていたのだろう、改札前で手を挙げあってる人もいる。小さな子どもから歩みの遅い老人まで、さまざまだ。
俺は遠くから人の群れを眺め、心の中で「死ね」と言った。罪悪感で喉が詰まった。もう一度、繰り返す。死ね。〈命令〉を行使しているわけでもないのに、言葉が浮き上がるように感じた。行き交う人々の中、躓いたらしく、大学生ほどの女性がよろめく。そんな些細な出来事さえ自分が原因のような気がしてならず、拳を握り、俯いた。
なんというろくでもない練習だ、「死ね」と言う練習など。
友人同士のじゃれ合いですら躊躇うその言葉を面識のない人に向けるには臆病すぎて、俺はそれ以上、改札前に留まっていられなくなった。追われているわけでもないのに逃げるようにその場を後にする。引き返すにもバスが来ているはずもなく、北口へと進んだ。道は二手に分かれている。右はペデストリアンデッキへと向かう通路、左はバスターミナルへと繋がるエスカレーターだ。
そこで左を選んだのは駅前交番に勤務する日嶋の顔が思い浮かんだからだった。
日嶋は最近出会った人の中では特別に普通の人間だった。俺の生活にはほとんど関連がなく、人並みに支配者に怯えるし、〈命令〉に対して拒否感を覚えてもいた。
日嶋なら――とそこまで考えたところで、俺は自分が何を望んでいるのかわからなくなる。わからなくなり、足が止まる。足は止まったものの既にエスカレーターに踏み込んでいたため、身体は滑らかに運ばれていく。
胸中にあるのは二つの相反する期待だった。
一つは「きっと日嶋なら親身になってくれるだろう、あるいは親身なふりをしてくれるだろう」という期待だ。悩み、ぐるぐると同じところを回る俺に応援か叱責を与えて、気を紛らわせて欲しくてたまらなかった。あまりに自分勝手だし、失礼ではあるが、きっと彼の言葉は毒にも薬にもならないはずだ。やるべきことははっきりとしている以上、欲しいのはアドバイスではなく、些細な気休めだった。
一方で、薄暗い望みが体積を増してもいた。もし日嶋が俺に対してなんらかの呪詛の言葉を吐いてくれたなら、少しは簡単に「死ね」と言えるだろう。誰も彼もが俺を嫌いになったのならば暴力的な方向に舵を切ることができる。
気持ちの整理がつかないまま、足が地面に触れた。駅前交番はすぐそこだ。周囲にはほとんど人の流れはなく、俺はまっすぐ歩を進める。
そして、入り口から中を覗くと見知った横顔が視界に入った。安堵している自分に気がつく。声をかけようとしたが、それよりも先に人の気配を感じたのか、日嶋が俺の方へと目を動かした。
「遠藤くん」
そんな声で俺を呼んで欲しくはなかった。
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