3-5


 日嶋の声は、まるで俺が支配者になったことなど知らないような、落ち着いた響きをしていた。怯えや忌避感などは一切なく、それだけで俺は気勢を削がれ、何も言えず、立ち尽くすことしかできなかった。


「遠藤くん」


 日嶋は立ち上がってもう一度俺の旧姓を呼ぶ。経緯を思い出したのか、今度はかすかな狼狽が感じられたが、やはりそこにもこびりついたはずのマイナスの響きはその影すらも存在しなかった。


「大丈夫かい?」


 何を心配しているというのだろうか。

 俺は支配者だ。

 この惑星でいちばん偉い、絶対無二の支配者。俺が〈命令〉すれば、誰も彼もが思いどおりに動く。

 だというのに、日嶋はどこにでもいる高校生を見るような視線を俺へと向けていた。虚飾や見栄がないのなら本当に冴えない人だな、とおかしくなる。少なくとも俺の中にある警察官像は「敏感に悪を察知し、その辣腕で社会の平和を維持する」、なんてものだったから、緊迫感の中にも安穏とした雰囲気を醸し出す日嶋の様子はその職業に相応しいとはまるで思えなかった。

 俺は眉を上げて、言う。


「日嶋さん、知ってるだろうけど、俺、支配者になっちまったよ」

「……座ろうか。ずいぶん顔色が悪い」

 その配慮を無視し、続けた。「最近あんまり寝てなくてさ、そのせいだよ。あ、そうだ、アキ、見つかったんだ。見つかったって言うか、知り合いが保護してたみたいでさ、だから捜索願の取り下げお願いしてもいい?」

「遠藤くん」

「本当に人騒がせなやつだよな。知り合いもさっさと教えてくれれば良かったのによ。俺もまだ会ってないけど、もし話す機会があったらここに来るように言っておくよ。いろいろ迷惑かけたしさ」


 意志を越えてすらすらと言葉が出てくる。その中身には俺が伝えたかった気持ちは一グラムも含まれていないように思えた。だからといって、日嶋に何を言おうとしていたかなど自分でも考えが及ばない。何もかもが上滑りしており、混乱と焦燥が地面を頼りないものにしていた。

 息が続かなくなるほど捲し立て、それが途切れると日嶋は小さな溜息を吐いた。一度奥の部屋に行き、戻ってきた彼の手には湯飲みが二つと麦茶がなみなみと入った樹脂製のポットが握られていた。

 日嶋は椅子に腰を下ろすと、湯飲みに麦茶を注いだ。


「遠藤くん、座ろう。僕、喉が渇いててね、ちょっと一服に付き合ってくれないかな」


 目の前にパイプ椅子を差し出され、俺はかすかに躊躇する。向き合って座ってしまえばすべてを話す義務が生じるのではないか、と不安になった。だが、固辞し、交番から出て行くほどの気力もなく、結局、俺は日嶋に従った。

 根底にある配慮くらい、承知している。見慣れた顔である他の警察官も既に交番の前へと出て行っており、煙草の臭いがうっすらと漂う狭苦しい部屋の中には俺と日嶋だけが残されていた。


「朝夕はだいぶ過ごしやすくなってきたね。日が昇るとまだまだ暑いけど」


 俺は差し出された麦茶に口をつける。まだ作られて間もないのか、色のついた水ほどの味しかしなかった。


「……日嶋さん、あのさ」

「別に根掘り葉掘り聞こうとは思ってないよ」


 俺は顔を上げる。だが、目は合わなかった。日嶋の顔は壁に貼られたカレンダーへと向けられている。とはいえ、俺を視界に入れないように視線を逸らしている、という雰囲気はなく、遠くを見つめているような風情があった。


「申し訳ないけど、きみのその苦しみは、たぶん、僕には一生理解できない。きみだけの苦しみだ。僕の人生経験で偉そうに言えることはないと思う」

 アキもいる、とは反論しなかった。「まあ、だよな」

「ただね、だからといって突き放そうとしてるわけでもないんだ。僕ときみたちは顔見知りくらいの関係で、詳しく知っているわけじゃないし、なぜか交番に遊びに来る高校生、程度の認識だけど、結構、気にかけてはいる」

「言い訳してるか、自分に言い聞かせてるみたいだ」

「どっちも、なんだろうね」そこで日嶋は咳払いして、身体を俺のほうへと向けた。古びた回転椅子が軋む音がした。「……困ったことでもあった?」


 どこか上擦った声に俺は苦笑する。


「話、聞かないんじゃねえのかよ」

「根掘り葉掘りは、ね」と日嶋は頭を掻く。「少しくらいなら聞きたいとは思ってるよ。今夜、もやもやしない程度には」

「わがままな警察官だな」

「それに、交番は困った人が来るところだから」

「スケールが違うだろ、それ」


 笑うが、しかし、何をどう伝えればいいのだろうか。支配者が宇宙人を救済するために生み出されていることはごく一部の人しか知らない。インタビューを受けたアキでさえその事実は隠していたのだ。俺自身も口にしようとは思えなかった。

 しばらく悩み、俺はようやくぼかしの濃度を決める。その間、日嶋は麦茶の入った湯飲みに手を伸ばすことすらしなかった。


「……しなきゃいけない〈命令〉があるんだ」

「しなきゃいけない?」日嶋は眉根を寄せる。「きみの意志ではなくて?」

「説明が難しいんだよな、これ。遠くから見れば『したい』と思ってるけど、近くで見たら『したくない』と思ってる、そんな感じ」

「うん、ずいぶんわかりづらい」


 単語を明確にすれば話は簡単なのだろうが、今の俺にはここでその言葉を口にする勇気はなかった。言ったところで日嶋が「やめろ」と忠告してくることは確実だ。


「それが本当にいろんなものを改善する〈命令〉なのか、確証がないんだよ。でも、俺はそれしかない、と思ってる」

「……ああ、きみもやるつもりなんだね」

「え?」

「つまり、鈴木くんみたいに、いろんな人を巻き込む命令をするつもりなんだろう?」


 それほど察しやすい言動をしていただろうか。

 なぜかばつが悪くなり、俺は俯く。


「まあ、そうだな。ただ、アキよりももっと多くの人に、もっといやな〈命令〉をすることになるんだ」

「じゃあ、しなければいいじゃないか」日嶋は端的に言ったあと、小さく嘆息した。「……とは簡単に言えない話なんだろうね、きっと。その命令で何が変わるのか、聞いてもいいかな?」

「そうだな……めちゃくちゃ掻い摘まんで言うと、支配者がいなくなって、この先、新しい支配者が出てくることもなくなる」


 一瞬、日嶋の表情が硬直した。彼は黙り、考え込むような素振りをしたのち、ようやく湯飲みに口をつけた。直に〈命令〉を受けた経験があるだけに思うところがあるのだろう。言葉選びに苦戦しているのが目に見えてわかり、俺は続ける。


「まあ、そんな感じでさ、すげえ悩んでるってわけ。支配者ってさ、暴君とか独裁者みたいなのが出てくる心配はたぶんないんだよ。だから、別に俺がやる必要なんてないかもしれねえ、でも、俺がやんなきゃ、そんな感じでさ……要は何を我慢するかって話なんだ」


 俺は背を椅子に預け、天井の蛍光灯を見つめる。


「正直、なんで俺なんだ、って気持ちはあるよ。俺が思うに、くじ引きみたいなもんなんだ、この支配者制度は。言葉をひっくり返すようなんだけどさ、候補の選抜まではかなり慎重を期してるってのに、最後の最後は適当に決められてるんだ。だってそうだろ? 俺みたいなやつは、きっと、この世に腐るほどいる」

「厳正な抽選のもと」


 ぽつりと溢された日嶋の言葉に俺は一瞬戸惑ったのち、薄く笑った。


「当選者の発表は発送をもって代えさせていただきます」

「いや、別に茶化そうとしたわけじゃないんだ」

「わかってるよ、日嶋さん。でも、ほとんど正解だと思うよ。しかも、嬉しくないんだ。当選したとしても全然喜ばしいことじゃない。なんで俺が、ってなるだけで、幸せになんてなれないんだ」


 ああ、俺は理解している。

 なんで俺が、と疑問を持ったところで答えなどないのだ。

 天井を仰ぐ。その先にいるだろう、宇宙人を睨む。ただ、そうやったところで蛙の面に小便というやつだろう。宇宙人の作業は候補者を絞って、終わりだ。彼らは、実際に誰が選ばれるかはランダムだと言っていた。きっと支配者の苦しみに対して自責の念などないに違いない。

 俺は溜息を吐きそうになり、何とか堪えた。視線を正面に戻す。すると、いつの間にか日嶋が真面目な表情で俺を見つめていた。


 気圧される。いつもの冴えない印象は消え失せていて、喉元まで出かかっていた愚痴や冗談めかした嘆きが腹の底へと落ちていった。


「でも」と日嶋は言う。「でも、きみは選ばれた」

「な」その端的な指摘に俺は口ごもる。「なんだよ」

「望む望まないに関わらず、遠藤くん、きみは選ばれてしまったんだ。別にきみの頭の中にある〈命令〉を実行しろ、って言ってるわけじゃなくてね……ただ、最後の地点から逃げてはいけないよ」

「……最後の地点? なんだよ、それ」

「わからない」


 日嶋が頬を緩めたのにつられ、俺は噴き出した。


「わからないって、改めて、なんだよ、それ」

「でも、そうだろう? いろんな物事にはいくつかの通過点があって、そこではたぶん逃げてもいいんだ。虐められたから学校に行かない、とか、上司が理不尽すぎるから会社を辞める、だとかね。ただ、逃げちゃいけない最後の地点っていうのがあると思うんだ」

「ああ」と俺は軽く合点する。「死ぬ死なないの話ね」


 命を大切にしましょう。そんな標語めいた話を今さら、そして、このタイミングで出されるとは予想しておらず、俺はなんとも言えない気持ちになった。軽蔑とまではいかないものの「こんなものか」という侮りは生まれた。この状況で当たり前のことを諭してくる人間なのか、と。そう意識したくもないというのに日嶋に安い額縁が付いてしまった気がした。

 しかし、日嶋は首を横に振る。


「そうじゃないよ。逃げないっていうのは、自分を守ることだ」


 虚を突かれ、俺は反応できない。雷に背中を貫かれたような気分だった。


「人はどれだけ苦しんでも、背筋を伸ばして、胸を張らなきゃいけないんだ。それが自分を守るっていうことだよ。ほら、今だって気付けば背中を丸めてる」


 指摘され、思わず姿勢を正した。背中の真ん中あたり、筋肉が軋むような痛みがじわりと染みこむ。それから、俺は日嶋の言葉を解釈しようとする。


「後悔をするな、って言いてえの?」

 だが、その予想も日嶋は否定した。「それも違うかな。どんなことをしたって人は後悔をするよ。だから、それも飲み込むんだ。逃げても悔やんでも、それが自分なんだって思うことが大事なんだ」

「自己正当化しろってことかよ」

「そういう言葉を使われるとむちゃくちゃを言ってるみたいで、なんとも弱るね」


 日嶋は苦笑し、背もたれに体重を預けた。きっと気を張っていたのだろう、制帽を脱ぎ、頭を掻いて被りなおしたあと、彼の表情は今までと同じ、どこか冴えないものに戻っていた。


「まあ、そういうことで、遠藤くんは支配者に選ばれちゃったんだから、そこから目を背けて俯いちゃいけないよって言いたかったんだ。誇りを持てって言い換えてもいいけど、あんまりこれ以上長々と続けても、説教には興味ないだろう?」

「頷きづらい質問はしないでくれよ」

「そりゃそうだね」


 この話はここで打ち切り、と宣言するかのように、日嶋は湯飲みに口をつける。真似るわけじゃないが、俺も麦茶を一口飲み込み、そこで、節くれ立っていた心がいくぶん滑らかになっていることに気がついた。もしかしたら、これがその、「自分を守ること」なのかもしれない、とぼんやり考える。疎んでもいいし、後悔だってしてもいい、ただそれを持った自分を否定してはいけない。きっと日嶋はそう言いたかったのだろう。

 俺は溜息を吐く。

 今までの溜息とは温度が異なるもののような気がした。


「俺、日嶋さんをずっと冴えない人、って思ってたんだけど」

「それはひどくないかい?」

「でも、しっかり大人っていうか、警察官っぽいんだね」

「褒められてる気がしないなあ」

「なんでだよ、ちゃんと褒めてるだろ」

「いや、心の問題でね」日嶋は同僚や道行く人に聞こえていないか、確認するかのように視線を泳がせ、目を伏せた。「僕はね、警察官になんてなりたくなかったんだよ」

「え、そうなの?」


 素直に驚く。警察官は俺の中では特別な職業で、すべての人が自分で望んで就いているのだとばかり思っていた。さまざまな試験がある、と聞いたこともある。生半可な気持ちでなれるようなものではないはずだった。


「じゃあ、なんで警察官に?」

「いやあ、自分で言い出してなんだけど、この話はやめよう。支配者になりたくなかった、って話の後に警察官になりたくなかった、だとスケールが小さすぎる」

「いいじゃん、聞かせてよ。それとも〈命令〉しようか?」

「ずるいよ、それは」

「そう、ずるいんだよ、俺は」


 日嶋は眉を上げ、それでも逡巡はあったのか、間を取った後、「仕方ないな」と言った。「大した話でもないから要約するけど」とも。


「いいよ、俺が今夜気にならない程度で」

「……本当に大した話じゃないんだ。親戚に強引な人がいてね、無理矢理警察官の試験を受けさせられて、何の間違いか受かっちゃったんだ。しかも、運の悪いことに他の会社は全滅でね、外堀が埋まってしまった」

「試験、手を抜けばよかったじゃん」

「それができない性分で」


 日嶋は顎を上げ、しみじみと、味わうような風情で言った。


「警察官にはなりたくなかったけど、なっちゃったんだ。だから、さっき遠藤くんに話したのは『自分がこうあれればいいな』って話なんだよね。せっかく見直されたって言うのに情けないって、我ながら思うよ」

「……いや、そうでもないよ」


 俺は微笑み、立ち上がった。それから、ふと思い立ち、日嶋に深々と頭を下げた。


「日嶋さん、ありがとうございました」

「え」と彼は目を丸くする。「なんだい、急に」


 今までまともに敬語さえ使っていなかった俺が敬うような態度を取ったためか、日嶋はどこか居心地が悪そうに眉根を寄せた。でも、今の俺にはそれだけの理由があった。

 霧が晴れたのだ。

 自分が抱いていた正体不明の感情、その全貌が見えた気がした。俺は宇宙人の救済に執着していたわけではなかった。少なくともそれは目的ではなく、手段だったのだ。

 俺が何より守りたかったのは俺自身だ。

 記憶がねじ曲げられ、それまでの関係性を失い、日々の生活がめちゃくちゃに踏み荒らされた。そして、アキとの繋がりも消えようとしている。その事実に抵抗することなく、甘んじて受け入れてしまったとしたら、きっとこの先、俺は胸を張って生きていけなくなるだろう。

 たぶん、ここが日嶋の言う、最後の地点だった。

 だから、俺は精いっぱい笑い、胸を張る。


「日嶋さんと話せてよかった」

「もう行くのかい?」

「問題は何一つ解決してないんだけど、まあ、今なら前向きに悩めるよ」

「そっか」と日嶋も立ち上がり、頷く。「本当はもっと力になってあげたいんだけどね、僕にできることは……あ、その〈命令〉を僕に試すってのはどう?」

「いやあ、気が進まねえよ」


 ここまで感謝をした直後に「死ね」と言えるほどの傍若無人さは俺にはなかった。


「なら仕方ないか。まあ、いつでも来なよ。話を聞くくらいなら僕にもできる」

「でも、夜に思い悩まない程度なんだろ?」

「そうだね」


 日嶋が破顔したのを見て、俺も鼻で笑い、交番を後にした。長々と滞在したわけではなかったが、気温が上がり、街を歩く人もいくぶんか増えている。だが、「死ね」と思い浮かべることもない。まずはまた、一から思い悩もうと決める。日嶋の言うとおり、誰かに試せるようなものであったのなら楽だったのに、と天を仰いだ。


 頭の中で音が鳴ったのはその瞬間だった。

 ちょうど改札階に向かうエスカレーターに乗ったところだったため、俺の身体は淀みなく運ばれていく。その調子とまったく似通った滑らかさで、俺の思考も終着点へと進んでいった。

 音は、思考が弾けた音だった。

 あまりに暴力的な〈命令〉であったため、「試す」という行動すら切り捨てていたが、その方法が身近に存在するではないか。


 俺は慌ててナコに連絡する。何度かコール音が鳴り響いたあと、気怠げな声がした。眠気がふんだんに混じった、間延びした声だった。


「もしもしー、ケイちゃん?」

「ナコ、お願いがある。例の〈命令〉のことで」


 一拍置いて返ってきたナコの声にはもはや睡眠の痕跡はなかった。


「なに?」

「試したいんだ」

「……ケイちゃん、本気で言ってるの?」

「ああ、だけど、勘違いするなよ、〈命令〉されるのは俺だ」

「え」

「アキなら俺に〈命令〉できる」


 卑怯な考えであることは重々承知していた。たとえ、俺がアキに、あるいは他の誰かに〈命令〉したって客観的には得るものは何も変わらない。が、次を考えるときっとこれが最適解なのだ。


 ――これが、胸を張るために必要な最適解。

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