4 透明の支配者
4-1
それはいい考えだね、なんてあたしが言うと思った?
予想していたとおり、ナコの声は厳しいものだった。まずもって「試す」という案は当初から頭の隅にあったはずだ。「死」への〈命令〉に拒否権があるかどうか、実際にやってみるのが何よりも手っ取り早い。にもかかわらず、口にもしていなかった、その意味に鑑みれば歓迎などされるべくもなかった。
「ケイちゃん、焦るのはわかるけど、破れかぶれになっちゃダメだよ」
「焦ってもないし、破れかぶれでもねえって」
「なら、なんであたしに頼んだの? ケイちゃんなら断られることくらいわかるよね」
「俺だけじゃ環境が準備できない」
「環境?」
唾を飲み込む。
この案に行き着いた発端はすべて俺の感情論だ。人を動かすに足る論理は急拵えで、それがナコに通用するかどうか、不安で仕方なかった。
それでも、伝えてみるほか、ない。
「……失敗してもいい環境だよ。〈新聞同好会〉なら、なんつうの、超法規的措置、みたいなのを取れると思ったんだ。鎮静剤とか準備してよ、〈命令〉の根幹はホルモンバランスの異常なんだから、薬でも対抗できるだろ?」
やや間が空く。
電話の向こうでゆっくりと息を吸う音が聞こえた。
「でも、なんでわざわざケイちゃんが被検体になる必要があるの? それならあたしだっているし、大崎先輩も了承すると思うけど」
「胸を張りたいんだ」
もし、この実験が成功したら俺は「死ね」と全世界の人に向けて〈命令〉することになる。そのとき、自分の経験があったのなら自信を持って実行できるだろう。俺も死ななかったのだ、これは単なる手段に過ぎない、と。その納得があるとないとでは心の持ちようが大きく違ってくるはずだった。
「胸を張るための、言い訳だよ。くだらねえけどさ、もし『死ね』って〈命令〉が不可能命令なら俺は独り言を喋ってるだけになるだろ」
そこでナコは「なおさら怖いね」とおどけた。独り言で「死ね」って言うなんて、と。話の腰が折られたとは感じなかった。俺は笑い、話を続ける。
「だから、俺自身の感覚で確かめたいんだ。言ってること、わかるだろ?」
「……まあ、うん、わからなくもない、かな」
「ナコ、頼むよ、今だけはきっと逃げちゃいけねえんだ。もう宇宙人とか支配者とか、そういうのはほとんど関係なくさ……」
そのとき、カシャッとスマートホンのシャッター音が聞こえた。駅に隣接された百貨店が開店するところで、並んでいた幾人かの人たちが俺に向けてカメラを向けていた。それだけではない、駅の南北を繋ぐ連絡通路にはかなり通行人が増えてきていて、俺を中心に歪な円が形成され始めている。
――削ぎ落とせ。
俺を知らない、知ろうともしない人の存在なんてどうでもいい。
馬鹿正直に俺が萎縮する理由はないのだ。俺はお前らのことも救おうとしてるんだぞ、と感謝を押しつける必要もない。重要ではないものからすべて削ぎ落としていって残るのは柔らかな外壁に覆われた、俺の芯とも表現するべき感情だ。それを守るために、俺は殊更に胸を張り、再びお願いをした。
「ナコ、頼むよ。〈命令〉を使わない意味、わかるだろ」
「ケイちゃん」
その声の調子だけでナコがどんな表情をしているか、どんな姿勢をしているか、目に見えるようだった。きっとナコは懊悩を満面に浮かべ、俯いているに違いない。
「ごめん、それはあたしの一存だけじゃ決められない」
「……だろうな。ナコ、下っ端だもんな」
「うん」苦笑が混じる。「大崎先輩も含めていろんな人に相談するからちょっと時間が欲しい。もちろん賛成なんてできないから断られろ、って思ってるけど」
「ひでえこと言うなよ」
「たださ、これは忠告とも違うんだけど」
ナコの声が再び沈んだ。たぶん、俺も抱いている最大の懸念を突きつけられるんだろうな、と覚悟すると、やはり、ナコはその不安材料を口にした。
「あたしにはアキくんが了承するとは到底思えない」
この夏、アキの母親は〈命令〉が遠因となって、死んだ。
そして、アキは俺が支配者となった原因が自分にあると考えている。
その状況下で、特に俺に対して「死ね」と口にすることがどれだけ負担になるのか、俺にはもはや想像することすらままならなかった。
「ケイちゃん、何か解決策はあるの? アキくんを頷かせられなければそれで終わりだよ」
「ああ」と俺は頷く。「そうだな」
「どうするつもり?」
「ナコ、悪いけど、解決策なんてねえよ」
「え?」
「そのときはそのときだ。どっちにしたって〈命令〉じゃ意志までは操れないしな。神頼みでもしとこうぜ」
一拍置き、ナコは「なにそれ」と小さく笑った。俺だって行き当たりばったりということは認識していたが、一方で、この世のすべてに万全を期せるわけがないとも思っていた。そもそも、だからこそ、別の惑星からの来訪者が地球へと来たのだ。〈命令〉に慣れきった異星の独裁者が現在進行形で失敗しているのだから、俺に一切の失敗をなくせというほうが無理な話だとも言えた。
「じゃあ、ナコ、頼むよ」
「うん、会議がどれだけ長引くかわからないけど、とりあえず夜には連絡するよ」
「ああ、ありがとう」
「それにしてもずいぶん急な連絡だったねえ。何かあったの?」
「まあ、ちょっと外に出たら気分転換になってな。会ったときにでも説明するよ」
「そういえば人の声がするね。今どこ?」
「八王子駅だけど」
「あ、じゃさ、まんじゅう買っておいてよ」
「まんじゅう?」
「あれ、知らない? この前から支配者まんじゅうってのが売り出されててさ、あたし的にもケイちゃん的にも言うタイミングがなかったから黙ってたんだけど、面白くない?」
「商標権どうなってんだよ」
その程度のことには万全を期して欲しい、というのはわがままだろうか。
◇
シリンダーに嵌めた鍵を回すとガチンと音がした。
扉を引くが、つっかえる。そこでもともと錠が開いていたのだと気がつき、俺は鍵を逆回転させた。再び硬質な感触が指先に伝わる。
三和土には母さんが仕事に行くときの靴が揃えてあり、珍しく休みだったことを思い出した。「ただいま」と言う。「おかえり」と返ってくる。「ケイスケ、こっち来て」と続く。俺は何も言わず、居間へと向かった。
母さんは食卓で何か書き物をしていた。仕事関係の書類か、それとも別の何かなのか、気にはなったものの訊ねる気にはなれなかった。ドアのそばで立ち尽くしていると目が合う。それが催促だとわかり、俺は椅子に座った。もともと一脚余っていた椅子は今では二つ、使われていない。ずっとそうだったにもかかわらず、なぜかいやに広く感じた。
「やっぱり」
「え?」
「やっぱり、ケイスケ、あんた、何かしようとしてるでしょ」
母さんはそこでペンを置き、顔を上げた。午後から出かける予定があるのか、薄く化粧をしていたが、疲労が滲み出ているようにも思える。別居が続いていたとはいえ離婚の影響があるのだろうし、ましてや、息子が支配者になったのだ、その心労は俺の抱いているものとは質が異なるに違いなかった。
それを知ると下手に隠し立てするつもりも消え失せる。俺は観念し、小さく頷いた。
「まあ、そうだな」
「そっか」母さんは小さな嘆息をし、頬杖をついた。「それでさ、今夜、何食べたい?」
「は?」
「は、じゃなくて。夕飯のメニュー考えてって言ってるんだけど」
「いや、何するかとか、そういうこと訊かねえの? っていうか、訊くもんじゃねえの?」
「訊かれたいの?」
詰問されたわけでもないのに俺は口ごもる。母さんの声は淡泊で、あらゆる圧力から解放されたような穏やかな浮遊感があった。それを心地よいと感じたものか、反対に不安と感じたものか、俺には判別がつかない。
「……なんつうか、詳しく説明したくないけど、ぶちまけたい」
「なにそれ?」母さんは眉を上げる。「面倒臭いこと言い出した。思春期?」
「息子に面倒臭いとか言うなよ」
「思ってるだけよりマシじゃない」
冗談だと示すように母さんは笑った。なぜだか久しぶりに笑顔を見たようにも思え、急に気恥ずかしくなり、俺は目を逸らした。
しかし、次の言葉に、反射的に視線を戻していた。
「私は訊かないからね」
「……なんでだよ? もう一回言うけど、こういうのって訊くもんじゃねえの?」
「だって、話を聞いたら絶対止めちゃうし」
その指摘は正しい。これから俺が取ろうとしている行動を知ったら母さんは絶対に止める。少なくとも、全世界の人々に「死ね」と言います、それはいいじゃない、とはならない。たとえ目的に理解をしても方法に賛同するはずがなかった。
母さんは振り絞るように言う。
「ケイスケ、あんたは間違ってないから」
「え?」
「あんたは間違ってない」と母さんは苦しそうに断言する。「どれだけ間違っても、あんたは間違ってないの」
「むちゃくちゃなこと言いだすなよ。話も聞いてねえのに」
「聞いてないから言えるんでしょ」
「……まあ、それもそうか」
たぶん、これも覚悟の一種なのだろうな、と思った。おばさんは、アキの母親は、覚悟を決めていたそうだ。息子が支配者となったことで生活は激変していただろう。どう発露されるかは個々人で違いはあるが、母さんも揺るがないことを誓ったようだった。
「これまで責任を持って育てたんだから、たまには世間に対して無責任でもいいでしょ。ただ……」
母さんは少し苦々しげな表情になり、それから口元を上げた。無理に作った笑顔であるのは明白だったが、俺は追及しなかった。
「ただ?」
「一つだけアドバイスするけど、あんただけが荷物を持つ必要なんてないからね。重い荷物は他人に押しつけたっていいんだから」
買い物に行く度に一人では抱えきれない量を買い込んで、俺に袋を預ける母さんの姿が脳裏を過った。まるで程度の異なる話ではあるのだろうが、その連想に俺は笑みを堪えきれない。
そして、同時に母さんの表情の意味も類推される。些細な翳りすら見せないよう、わざとらしいかもしれないが、俺は明るく嘆いた。
「母さんが言うと言葉の重みが違うな」
「でしょ?」
「まあ、気負わずにやるよ」
「で、夕食のメニューなんだけど」母さんはそれが一大事のようにしつこく続けた。
「……あー、今日、俺ちょっと用事ができるかもしれねえけど」
「いいよ、それでも。食べるまで作り続けて、食べ続けるから」
「そう何日も家を空けねえよ」
俺はポケットの中に入れているスマートホンに手を当てる。ふとした瞬間に感じる振動はほぼすべてが俺の焦りが作り出した幻みたいなもので、結局、夕食を食べ終えるまで、ナコからの着信はなかった。
――つまり、夜にはナコから連絡があった、ということだ。
実験は開始される。
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