4-3


 肺が限界を超えて膨張した、そんな気がした。

 視界に映るすべてが乳白色の膜の向こうへと遠ざかっている。大崎も医師も看護士たちも、出来の悪いホログラムと化す。脳から送られた信号は一度体外へと排出され、空中に螺旋を描き、それから右手の指を動かした。一メートル以上はあろう背中の皮膚を通してベッドの硬さが伝わっている。気道は扁平なチューブのようで、酸素が足りない。息を吸う。肺がさらに膨らむ。酸素が足りない。

 曖昧な輪郭の音が聞こえた。誰かが何かを言っている。油の層を通ったみたいに声が太っていて、誰のものか、判別できない。声が増える。耳の穴にまばらに綿が詰め込まれたように、うるさくて静かだ。


 汗が垂れる。

 こめかみのあたりを流れたその感触が、瞬間、俺の感覚をすべて正した。

 誰も彼もが顔を覗き込んできている。俺は必死に呼吸を繰り返して、胸の中で暴れる心臓を宥めようとした。与えられた衝撃が未だ脳を揺さぶっている。すぐには落ち着きそうにはなかった。


「遠藤ケイスケ」大崎の視線は「見守る」と言うより「睨む」に近い。「どうだ」

「どうだ、って」


 俺はその質問の意味のなさに噴き出しそうになった。つい先ほど正常を騙る可能性について論じたばかりだというのに。でも、それも大崎なりの焦燥や心配の表現なのだろう。ひとまず笑みを作り、小さく頷いた。


「なんともないよ、大崎さん」


 するとベッドに置かれた電話から声が聞こえた。「ケイちゃん大丈夫?」とナコが不安げに声を震わせ、それからアキが「平気みたいだね」と溜息交じりに言った。


「わかるのかよ」

「久々に不可能命令の感触を食らったよ」

「ああ、あれ、気持ち悪いよな」

「でも、一応解除しとこうか。僕たちはともかくナコや大崎さんたちは不安だろうし」

「そうだな」


 言うが早いか、アキは「今のはなし」と宣言した。かつてテレビ局で覚えた、解除に伴う背骨を抜かれるような感触もなかった。そこでさらに確信を深める。少なくともアキが俺へと下した「死」への〈命令〉は作動しなかったのだ。

 ようやく心臓の鼓動が穏やかさを取り戻し始めている。大崎に目で合図をすると、彼も頷き、拘束を解くように医師たちに指示した。看護士たちは事務的な態度を保とうとしていたが、恐怖か好奇心か、そのどちらにせよ、感情を隠しきれておらず、俺をじろじろと見つめながらゆっくりと拘束帯を外していった。


 ごくごく短い時間だったというのに全身に開放感が突き抜けていく。俺は身体を起こし、丁寧に腕を揉みほぐした。医師は眼球や脈拍を簡単に調べると「問題はないようです」とだけ言い残して部屋から去って行った。扉が開いたせいで空気の通り道ができる。開けっぱなしだった窓から夜の風が入ってきて、俺はそれを殊更に深く、嗅いだ。特段匂いなどはしなかったが、鮮烈な味がするような気もした。


「大崎さん」

「……なんだ」

「俺たちは正しかったよ。間違ってなかったんだ。ちゃんと拒否権を発動させることができた。これでこの世から支配者はいなくなるよ」


 この世界の誰にも「死ね」という〈命令〉は効かない。そして、感情のフィルタを修復させるデータさえ入手できれば宇宙人は地球から離れていく。その実感に俺は拳を握った。

 すべてが元に戻るのだ。

 俺は微笑み、支配者に関する記憶を振り返っていく。ヴィカス・クマール、ワン・シウヂエ、アメリア・スミス、アキ、そして、俺。二年にも及ぶイレギュラーはさまざまな変化をもたらした。いいことも、悪いことも、だ。俺にだっていやな記憶ばかりではなく、支配者、あるいは支配者に近しい存在であったから体験できたこともあった。元に戻る、というのがどの程度の修復なのか、俺にはわからないが――


 ――まだ終わってないよ。


 ベッドの上に転がっている携帯電話は未だ通話状態のままだ。回顧に水を差された俺は嘆息し、立ち上がって、電話を拾った。


「なあ、本当にやらなきゃだめか」

「うわ、ずるいなあ。約束したのに」

「それはわかってんだよ。でも」

「だから言ってるでしょ。僕に言えないようならケイスケは本番でも言えないよ」


 ぐっ、と言葉に詰まる。反論の余地のない正論に俺は肩を落とした。


「仕方ねえな。準備しろよ」

「できてるよ、もう。ずいぶん前からベッドに縛り付けられてる」


 では今まで俺と同じ体勢で命令をしていたのか。俺はその様子を想像し、苦笑した。


「まさに『支配者こそ誰よりも縛られる』、だな」

「……うわ、恥ずかしいからそういうのやめてよ」

「悪い悪い。じゃ、さっさとやるか」

「ちゃんとやってよ」

「わかってるよ」


 先ほどとは立場が逆転した会話に、アキはどのような気持ちだったのか、と考える。決して気持ちのいいものではなかっただろう。でも、アキはやってくれた。俺も応えないわけにはいかない。小さく息を吐く。妄想に過ぎないが、横たわるアキが目の前に見えた。

〈命令〉に必要なのはスイッチだ。冗談半分の言葉でも頭の中にあるそのスイッチさえ押せば〈命令〉へと変じる。そこに煩雑な行程は存在しない。ただ〈命令〉であることを意識して喋ればいい。それだけだ。


「……アキ」


 アキも緊張しているのか、返事はなかった。ナコの震えた呼吸が聞こえた。

 俺は携帯電話を睨み、その言葉を口にする。


「今すぐ、死ね」


 空気の揺らぎが二手に分かれる。一つは携帯電話に吸い込まれ、一つは宇宙船に吸い上げられる。〈命令〉が肉声である必要はない。別種の信号に変換された二つの俺の声はやがてアキへと届いた。

 空気が止まる。

 その瞬間、俺の思考は弾けた。

 ――不可能命令の感触はついに訪れなかった。


 焦燥が論理性を燃やす。〈命令〉に付随する確かな手応えが、俺にすべてを悟らせた。


「ナコ! 鎮静剤を打ってくれ!」


 言い切る前に悲鳴が聞こえた。アキの声だった。聞いたこともない切羽詰まった恐怖に、身体が硬直する。拘束帯が軋む不快な音が耳に届く。あちらにいる医師は油断していたのか、ほとんど叫ぶようにして指示を出していた。


「ケイちゃん! 早く解除して!」


 ナコの声が俺の鼓膜を鋭く突いた。そこで自分がどれだけ冷静さを失っていたか、気がつく。解除しなければならない。だが、舌がもつれる。


「アキ! 今のは無効だ!」


 やっとのことで口から出た俺の解除命令に、電話の向こうにあった騒ぎが嘘のように収まった。ナコがアキに何かを囁いている。中身までは聞き取れない。だが、そのかすかな余韻がすべてを物語っていた。

 俺の〈命令〉により、アキは死のうとしたのだ、と。


「……失敗、か」


 大崎はさほど気落ちしていないかのように振る舞っている。ああ、振る舞っている、それがわかった。そんなことを考えている場合ではないというのに、だ。だから俺は些末な情報を遮断しようと自分の頭を抱えた。

 部屋の中にはかすかな音が鳴り響いていた。カメラの作動音、窓の外の風、遠くで車が走っている。俺はそれらすべてが聞こえないように必死になって耳を押さえつける。何もかもが邪魔だ。思考が乱反射を繰り返している。螺旋の内側を、今まで見向きもしなかった何かに逢着しようと、あがいている。

 俺とアキの違いは、何だ? どうして俺の拒否権だけが発動した?

 それを知らずに、大崎は優しい声音で言った。


「遠藤ケイスケ、そう落ち込むな」

「大崎さん」

「ダメだったのなら次の方法を考えるしかない」

「大崎さん」顔を上げる。「言うことを聞いてくれよ」


 その言葉と同時に大崎の動きが止まった。表情の変化は読み取れず、返事もなかった。俺はそれを無言の催促と願い、少し考えてから言った。


「笑ってくれよ」

「何を言っている?」

「大崎さん、言うことを聞いてくれって!」


 俺の叫びに大崎の身体が硬直する。視線はぶつかっていたもののどこか通り抜けているような感触があった。


「……大崎さん、笑ってみてよ」


 そして、次の瞬間、俺は噴き出した。

 大崎が今までに見たことのない、満面の笑みを浮かべたからだ。鉄面皮には不釣り合いな笑顔に、俺は手を叩いて笑う。よほど長々と笑っていたのか、いつの間にか歩み寄ってきた大崎が俺の両肩を掴んだ。自身の鉄面皮が崩れたことなど知らないかのような迫力があった。


「しっかりしろ」


 大きく揺さぶられるが、そんなことをしなくたって俺は正気だ。大崎にとってそんな場面ではないことくらい承知している。だが、笑みを堪えることができない。


「いいか、落ち着け」

「大崎さん、俺は落ち着いてるよ。でも、そりゃ笑うだろ? だって、実験が成功したんだから」

「……何?」


 大崎は目を見開き、沈黙する。俺が何を言っているのか、わからないのだろう。無理もない、俺自身、今の今までこの事態を予想していなかったのだ。実験がこれ以上ない成功を収めていたとしても彼が気付けるはずもなかった。


「遠藤ケイスケ、私にはお前が落ち着いているようには見えない」

「顔に似合わず」と俺は嘯き、携帯電話を手にした。スピーカーフォンから通常の状態に切り替え、耳に当てる。「ナコ、聞こえるか?」

「ケイちゃん」


 ナコの表情が目の前に浮かぶようだった。実験の失敗に嘆き、俺の態度に困惑し、唇を震わせている、その姿が見える。


「アキは無事だよな」

「無事っていうか」一瞬、間が空く。「命に別状はなさそうだけど、でも」

「これ、まだアキに聞こえてるよな」

「え?」


 その声の反響で答えを聞く必要がないと気がつく。黙ってはいるが、アキもこの会話を耳を傾けているに違いない。


「アキ、ありがとう、お前の命令に従ってよかった。おかげでもう一歩になった」


 荒い息づかいと小さな呻き声が聞こえてくる。鎮静剤の作用なのか、死の恐怖を間近に味わった後遺症なのか、まともに喋れる状態ではなさそうだった。


「――どうするべきか、だいたい掴めた。今から宇宙人に会ってくる」

「遠藤ケイスケ」と大崎が訝しげに俺を見つめている。「ケイちゃん?」とナコは混乱を隠そうともしない。しばらく待ってようやく、アキがか細い声で囁いた。

「……もう全部任せるよ、僕にはケイスケに何が見えてるのか、わからないから」

「ああ」


 そして、アキは「それと」とはっきりした声で言った。


「それと、ありがとう。少し、気が楽になった」

「なんだよ、急に」

「罰を、罰を受けたかったんだ、母さんを殺した罰を」

「……そうか」


 アキの自戒を否定するのは簡単だ。あれはただの事故だったのだ、悲しんでも、苦しんでも、責任を感じる必要はない。ただ、そう口にすることはアキのすべてを否定することに繋がってしまう気がしてならなかった。

 ふと思い出す。俺の頭の中に浮かんだのは宇宙人の言葉だった。じわじわと染み出すような速度で記憶が甦っていく。


 俺が囚人説を披露したとき、彼らは「罪と罰」という概念について語った。自分たちにもその概念はあるが、理解されるとは思えない、と。きっとそれは惑星単位ではなく、個人という単位でも同じなのだろう。

 きっと、アキにとって罰とはあくまで形式上の儀式に過ぎないのだ。許され始めるための儀式であり、そこに本来的な意義は存在しない。内罰的な態度ではあるが、間違いだと誰が否定できるだろう。


「アキ」

「わかってるよ、何が言いたいのかなんて。でも、こうしなきゃ気がすまなかったんだ。ごめん、利用したみたいだよね、これじゃあ」

「いいんだよ、そんなん」


 俺が俺を守ろうとしたのと同様、アキもアキ自身を守るべきだ。怒りなどまるで生まれず、俺は「じゃあ、行ってくる」とだけ伝えて通信を切った。音の消えた携帯電話を大崎に返し、肩を竦める。大崎は執拗に説明を求めたが、後でいいだろう。

 もし、宇宙人の撤退により俺たちと過ごした記憶も消えるのであれば考えを明かす意味はないし、記憶が残るのであればそれからでも遅くはない。少なくとも、もはや意見を擦り合わせる理由はなかった。


「大崎さん、今のうちにいろいろ謝っておくよ。それと、ありがとう」


 事態を理解していない大崎は変わらず詰め寄ってきたが、俺は無視してベッドに横になった。宇宙人に招待を受ける方法はもはや感覚的に理解している。ただ呼びかければいい。呼びかければ勝手にこちらの意図を汲み取って精神をすくい上げてくれる。


「じゃあ、また」


 会うことができるか、定かではないが、ひとまずそう言っておく。

 そして、俺の精神は大崎を病室に残したまま、宇宙へと飛翔した。

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