2-3


 自転の速度が上昇したかのように、一日一日があまりに早く過ぎ去っていく。

 宇宙人と最後に会ってから一週間が経過し、九月に入っていた。課題テストも文化祭も終わり、学校は平常授業へと戻っている。クラスメイトたちは残暑と呼ぶにはあまりに夏らしい日差しに文句を垂らしながらも、もう「夏休みに戻りたい」などとは言わなくなっていた。俺だけが終わらない夏休みの中に取り残されているようでもあった。


 大崎とは一日一回、学校の帰りに連絡を取り合っている。話すのは「生活で何か問題はないか」という不器用な父と息子のような会話だったり、アキの様子だったり、それほど真新しいものはなかった。〈命令〉報告書も渡されたが、俺はアキほどマメではなく、〈命令〉の乱発もしなかったため、書類との睨めっこはかなり稀な時間だった。


 進展はあったか。

 お答えできません。


 大崎は近況報告の最後に決まって同じ質問をし、俺はそのたびに宇宙人を真似た定型句を返した。世界で俺しか面白くないジョークだ。あるいは俺と、他の支配者だけ。毎日話しているとそれなりに感情の変化を読み取れるようにもなる。大崎は俺がその冗談を言うと「なんだそれは」とわずかばかりの不機嫌さを滲ませた。宇宙人の言うことにも一理ある。理解されないジョークは自粛すべきなのかもしれない。

 ジョークと言えば、大崎は未だに会話の端々にくだらないジョークを忍ばせ続けていた。理由はなんとなく察せられた。きっと大崎も大崎なりに俺と打ち解けようとしていたのだろう。もちろん、それが有効に働いたか、という点については甚だ疑問だ。俺は大崎の冗談を聞くたびに辟易した。


「大崎さん、俺の言うことを聞いて欲しいんだけど」

「……言ってみろ」

「そうだな……まずさ、世界のユーモア集、みたいな本を熟読してくれない?」


 とはいえ、毎度毎度、ふざけていたわけではない。使命、と表現すると違和感があるが、俺だって宇宙人からの課題については真剣に向き合っていた。宇宙人との会話をまとめ、疑問点を書き出し、どのような〈命令〉を誰に行使すれば彼らの求める救いが得られるのか、そのようなことで一日のほとんどは費やされた。だが、まだ授業で習っていない範囲の宿題を解答もヒントもなしに出されたようなもので、どれだけ机の上で頭を捻っても正解に近づいている印象はなかった。仮説をまとめるために購入した五百枚入りのコピー用紙は既に半分近くがなくなっている。積み重ねられたボールペンの殴り書きが努力の象徴なのか浪費の烙印なのか、その判別すら難しかった。


        ◇


 その日、学校から帰ると、俺は制服のまま、自室の椅子に腰を下ろした。癖になった溜息が漏れる。机の隅に立てかけられているファイルを手に取り、いちばん新しいページを開いた。


 今日は珍しく〈命令〉を使ったのだ。内容は「もっと勉強しろ」と「その〈命令〉について口外するな」というなんとも他愛のないものだった。昼休み、外で昼食を摂っていたときに三年生の男子に泣きつかれたのである。模試の結果が悪かったらしく、彼は原因である自身の怠惰を〈命令〉によって解消しようとしたわけだ。ずいぶん都合のいい考え方ではあるが、上級生に文字どおり擦り寄られるのは気分がよいものではなく、また、その程度なら願いを叶えてやるのも抵抗がなかったため、俺は彼の依頼を受諾した。

 そのときの状況を報告書にまとめる。日時、場所、対象、内容、そして、最後にはその〈命令〉に対する感想欄がある。何の意図があって所感を聞こうとしているのか、やはり俺にはわからなかったが、無記入のままにしておくのも気が引け、適当にペンを走らせた。


 ――人は誰もが命令を求めている。


 頭にあったのは宇宙人が明言した「拒否権」のことだ。彼らは〈命令〉を絶対的なものとは捉えていないらしいが、俺にはそれが信じられなかった。今までにあった支配者の〈命令〉は理性的なものばかりではなく、たとえばアメリア・スミスの「離れて」という〈命令〉然り、歓迎すべきではないものだって多くある。アキの帰宅禁止令に関してもそうだ。それらの〈命令〉を拒絶できた者は皆無だった。

 人間なんて弱い。〈命令〉までもない指示によって安心感を覚える人は大勢いる。免罪符みたいなものだ。責任を他人に押しつけることで自己の正当化を図れたら楽だろうし、他ならぬ俺だって、きっとその範疇に含まれているのだろう。宇宙人の指令に従えばなんとかなるという思いなんて典型的な盲信とも言えた。


 再び溜息が漏れ、俺は机の脇に積み重ねられた殴り書きへと目を向けた。いちばん上の紙には宇宙人たちの言葉が記されている。「為政者である、あるいは為政者だった人物は除外されなければならない」。

 その文言はアキを通じて〈新聞同好会〉にも伝わっていたらしい。協力を申し出た大崎がいまいち役に立っている実感がないのはその条件が枷になっているからだった。


 大崎は〈新聞同好会〉の中間管理職のような役職に就いているそうだ。高校生の俺にとって中間管理職とは「板挟み」の象徴というか権化というか、とにかく、そういった印象ばかりがある。事態を早急に解決したい政府と支配者に寄り添おうとする現場のせめぎ合いがあるのは想像に難くなかった。

 もし、と考える。

 もし、俺が協力を申し出て、偉い人の指示どおりに動いたら支配者としての権限はどうなるのだろう。宇宙人は基準に従い、俺から〈命令〉を剥奪するのだろうか。

 なんとしてもそれだけは避けたかった。


 別に「俺が世界を救う」だとかのヒロイックな気分に浸りたいわけではない。俺自身、その感情の正体をうまく形容することができないが、自分がやらなければいけないという気持ちはあった。由来は怒りかもしれないし、義務感かもしれないし、目の前の餌をついばもうとする我欲かもしれない。いずれにしろ、めちゃくちゃにされた自分の道を誰かに任せて眺めるなど性に合わなかった。

 とはいえ、だからといって奇跡的な解決のアイディアが浮かんでくるわけもなく、俺は立ち上がり、自室から出た。外に出るのは億劫だったが、息が詰まるのはどこにいても同じだ。散歩がてらコーヒーでも買いにコンビニへと行くことにする。


        ◇


 コンビニと隣の古びたアパートの隙間にある路地からは河川敷が見える。かつて俺たちの指定席だったぼろっちい木製のベンチが空いていたため、何の気なしに俺の足はそこへと向かった。

 橋を渡り、川のせせらぎの上を歩く。ベンチに座る。時刻はもう夕方で、太陽の光に橙がかすかに混ざり始めていたが、公園で遊ぶ子どもたちの歓声は高く、空へと抜けていた。あの日見た鬼ごっこの光景はない。夏休みの間に買ってもらったのか、携帯ゲーム機を突き合わせる姿があった。

 俺の隣には誰もいない。

 たかだかそんなことで絶望的な気分に陥りはしなかったが、それでもベンチがいやに広く感じた。

 川の流れは穏やかだ。鳥は流れに乗って水草を躱している。その安穏さに、俺は意地悪く、〈命令〉を行使した。


「止まっちまえ」


 不可能〈命令〉の感触が頭蓋を震わせる。宇宙人に叱られた気分になる。鈴木ケイスケ、何を無駄なことをしてるのですか。その声色が脳内で甦り、変におかしくなった。

 家々に遮られた向こうの幹線道を車が過ぎ去っていく。バイクの低いマフラーの音が響く。子どもたちの歓声、風に揺られる木々のさざめき、蝉の声。不思議なものだ、今の俺にとってすべてが遠く、もっとも現実からかけ離れた宇宙人たちの囁きだけがもっとも現実に近いものに思えた。地球と宇宙を行き来している今よりも三人で旅していたあの頃のほうがよっぽど非日常に溢れていた。

 俺は嘆息し、俯き、目を瞑る。


 どれほどそのままでいたか、わからない。目の前を何人もの人が通り過ぎていき、そのたびに支配者と気付かれたらどんな反応をされるか、考えただけでも憂鬱になった。時折、手探りでアイスコーヒーのカップを掴み、ストローを口に咥えた。時間の経過とともに薄まったコーヒーの味はアメリカンが好きな俺にとっていい塩梅になりつつある。


 外に出てもやっぱり何も変わらねえな。


 気分転換の失敗に、俺は自嘲的な笑いを押し殺した。そろそろ帰ったほうが懸命だろう。しかし、目を開けようとした直前に再び人の足音が聞こえたため、通り過ぎるのを待つことにした。砂の擦れる音が大きくなる。衣擦れの音が近づく。

 止まる。

 気付かれたのだろうか、足音の主は俺の目の前で立ち止まり、そのまま動こうとしなかった。戦々恐々としながら目を開け、顔を上げる。その途端、尻に小さく、柔らかな衝撃が伝わった。いつの間にか夕が深まった景色の中には誰もいない。


 俺はゆっくりと、長い息を吐いた。

 自分でもわけがわからなくなるほどに震えた呼吸だった。


「遅えよ……」

「支配者だ、元気?」


 いたずらっぽい声の調子に、精一杯の強がりで声を絞り出す。


「……ナコ」


 右隣に座ったナコは以前と同じように微笑んで「ごめんね」と呟いた。今までに見たことのないパンツルックのスーツ姿で、もう自分の所属を隠す気はないようだった。


「ケイちゃん、ごめん、ずっと連絡取れなくて……それと、嘘、吐いてて」

「別にいいって」

「でも」

「いいんだよ、そんなのは」


 睨んでいたつもりはなかったが、視線がぶつかるとナコは少し沈んだ表情のまま、それ以上の言葉を口にしなかった。茶色がかったウェーブヘアが夕陽に赤く燃えている。風が吹き、肩ほどのところで毛先が揺れる。

 どうしてだろう、気付けば俺は泣いていた。こんな人目のつくところで涙を流すなんて恥ずかしい、恥ずかしいはずなのに涙は止まらなかった。肩に手を回される。振りほどく気にはなれない。身体を丸めて、子どもみたいに泣きじゃくって、顔を見られないようにするだけで精いっぱいだった。


「……ナコ」

「なに?」

「何か、話、してくれよ。自分の泣き声が、うるせえんだ」

「なにそれ」


 ナコはくすりと笑う。どこかから烏の鳴き声が響いている。その余韻が消え去るまで待って、ナコはゆっくりと語り始めた。


「――アキくんね、結構大変でさ。お母さんのことを自分のせいだって考えてて、しかもケイちゃんが支配者になっちゃったからそれにも責任感じたみたい」


 違うんだ、アキは何も悪くない。

 俺はそう反論しようとしたが、声にならなかった。しゃくり上げ、首を振る。大崎から事情を聞いているのか、それとも別の理由なのか、肩に回された腕の力が少しだけ強くなった。


「ずいぶん塞ぎ込んじゃって、最初はご飯も食べなかったの。あたしも、あんまりこの言葉使いたくないけど、担当だし、そっちにつきっきりになっちゃって。大崎先輩もケイちゃんのことは『心配ないだろう』の一点張りで、絶対嘘だってわかってたんだけど、あたし、二人に会ったとき結構無茶しちゃってたから動くに動けなくてさ……ああ、ごめん、言い訳ばっかりになっちゃうね」


 俺は頭を振る。弁明すら心地よさを感じた。あのときと同じだ。アキの家から二人で帰ったとき、そのときと同様にナコの声色には嘘はなかった。当時は真実を隠していたかもしれないが、ナコはいつだって俺たちを「嫌な特別」として扱わない。あの旅で養われた贔屓目だったとしても、間違いなく心が軽くなった。


「信じられる? 電話とかバイクの鍵とか、お金まで取り上げられたんだよ。関係者の伝手であたしと同僚二人が広めのマンションに住み込んでさ、カメラもついてるの。前にアキくんの家でさ、ケイちゃんが『監視されるの嫌だー』って言ってたけど、あれは本当にごめんだったね」

「……だろ?」

「あ、落ち着いた?」

「ああ、だいぶ」俺は手の甲でまなじりを乱暴に拭い、息を吐いた。「それで、アキは?」

「アキくん、最近はよくなってきたよ。大崎先輩からケイちゃんの話を聞いたことも理由だと思う。でも、元気になってはいるんだけど、今度はいろいろヒアリングも多くてさ、自由になる時間はむしろ減っちゃってるかな。あたしはやめろって言ってるんだけど」

「仕方ねえよ、支配者だったんだから」


 突き放したわけではない。そして、ナコもそれを理解しているらしく、「だねえ」と笑った。気負いのない声に俺の頬も緩んだ。肩から手が離れる。もう大丈夫だと判断したのだろう、名残惜しさはあったがそのままにしろとせがむのも羞恥心が邪魔をして俺は何も言わなかった。

 ナコは俺と拳一個分ほど離れた位置に座っている。薄く、体温を感じた。


「ねえ、ケイちゃん。こんなこと訊くの、我ながら嫌悪感があるんだけど……大丈夫だった?」


 曖昧な質問ながらも訊きたいことはわかる。俺は小さく頷いた。質問への肯定ではなく、解答の了承だ。ナコも理解しているらしく、俺を見つめたまま、次の言葉を待つように唇を結んでいた。


「……なんだかんだ、辛かったよ。だって、そうだろ? 俺もこんなこと言いたくねえけど、アキには俺とナコがいた。でも、俺には誰もいなかった。誰もいなかったんだ」


 烏が一羽、夕暮れの空を飛んでいる。仲間からはぐれたのか、黒い影はそばに一つもなかった。甲高い鳴き声が溶けるように、空に響く。


「学校な、油の切れた歯車みたいなんだ」

「……歯車?」

「すげえぎこちないんだよ、みんな。みんな、無視はしねえんだけど、自然を装って避けてるんだ。先生たちの中には熱心なのかプライドが高いのか知らねえけど、音読とか問題の答えを当てたりするやつもいてさ、正直、めっちゃ上滑りしてんだよ、無理が透けてる。目ぇ見りゃそんなのわかるんだよ」

「……うん」

「休むのは逃げるみたいでよ、毎日、行ってんだ。そりゃ〈命令〉を使えば出席日数なんて簡単にごまかせるんだろうけど、なんかそういうのって負けたみたいだろ? ……これ、意地張ってるだけだって思うか?」

 答えを求めていたつもりはなかったが、ナコは唸り、それから苦笑を浮かべた。


「まあ、そうかもしれないね。でも、嫌いな意地の張り方じゃないよ」

「……そっか」俺は一度俯き、喉元で笑声を堪える。「でさ、うちの親、離婚したんだ」

「え」


 横顔に視線が突き刺さる感触がした。あえて見ないようにしたが、ひどく苦い表情をしているのは間違いがない。


「それって」

「違うって、もともと離婚は秒読み状態でさ」

「なんだ、よかった」とナコは胸を撫で下ろし、それから慌てて訂正した。「いや、よくはないね、ごめん」

「よかったんだよ、俺、親父嫌いだし。この前も〈命令〉をして欲しそうな顔してきたからマジでいらついたよ」


 どうせ反応に困って沈黙が続くとしか思えなかったため、俺は「そうそう」と思いついたように付け足し、話題をすぐさま変えた。


「宇宙人、すげえよな。親が離婚したことまで知ってやがった。俺のことを鈴木ケイスケって呼ぶんだ」

「鈴木」ナコは持て余し気味に発音し、眉を顰める。「偶然?」

「偶然だよ、日本で一位か二位だろ。一緒になることもあるだろ」

「それもそうか……そうだね。それで、宇宙人はどうだった?」

「嫌なやつらだった。でも、救わなきゃいけないんだ。俺があいつらを救わなきゃ、アキが苦しんだことも意味がなくなるだろ」

「ケイちゃんも苦しんでるしね」

「いや、俺は、なんつうか」

「それに、ほら、負けたみたい、なんでしょ」


 俺は目を見開く。たったそれだけのくだらない理由で行動が正当化されたような気がして、気負いが掻き消された。再びぶり返した涙を隠れて拭い、俺はナコと向き合う。


「……なあ、ナコ、頼みがあるんだ」

「なに?」


 息を吸い、吐く。じきに来る夜闇に夕陽が薄まり、影の輪郭が曖昧になっていた。


「助けてくれ。俺だけじゃ同じとこをぐるぐる回るだけなんだよ。自分の考えが合ってんのかどうかもわかんねえ。情けねえよ、背中を押してもらわなきゃ動けないなんて」

「……ねえ、ケイちゃん」


 ナコは立ち上がり、夕陽を浴びるように胸を反らした。俺は座ったまま、その奔放な動きに目を細める。


「あたし、そのために来たんだよ」

「……そうか」

「さっき、電話したのに出てくれないし」

「ケータイ、忘れたんだ」

「家に行っても誰もいないし」

「悪い」

「まあ、だったらここだと思ったけどさ」ナコは微笑み、極めて軽々しく、しかし、頼もしい声で言った。「ってことで、ちょっくら宇宙人を救ってやろうぜえ」


 俺も腰を上げる。もう一度目を拭い、唇を結ぶ。

 遠くの空で、ひとりぼっちだった烏が仲間と並ぼうとしていた。

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