エピローグ

河川敷でもまだあらゆる物語が続いている


 夜の川には柔らかなせせらぎと虫の音だけがあった。

 俺はいつものベンチに座り、何をするでもなく、足を投げ出したままぼんやりと川面を眺めていた。Tシャツの上に長袖のパーカーを羽織っていたが、風が吹くと肌寒さを感じた。もうすぐ秋だな、と思い、もう秋か、と内心で訂正する。九月も残すところあと数日だ。夏の暑さは夜の向こうへと消えていた。

 空には星が浮かんでいる。しかし、宇宙で見たものと比べるとどうにも見劣りした。もちろん、あの星々は自分の目で見ていたわけではないから比較するのも無粋な話ではある。


 そのどこにも宇宙船はない。


 俺が全世界へと向けて〈命令〉したあの日から十日余りが経った。時間の流れがどうにも早く感じるのは日常をこなすことに必死になっていたからだろう。支配者でいた頃よりもずっと慌ただしい生活を送っているような気がした。


 もう、地球に支配者はいない。


 俺の〈命令〉により欲していたものすべてを得た宇宙人は驚くほどあっさりと地球から離れていった。彼らの惑星がどこにあるのか、どうやって帰るのか、そういった種々の疑問を置き去りにして。もちろん、彼らは感謝の言葉とともに俺たちが抱いていたいくつかの予想や仮説について語ったが、与えられた答えとの間に大きな相違はなく、印象を深めるどころかむしろ記憶の結合力を緩和させるようなものでしかなかった。絡まった紐と同じだ。複雑に絡んだ紐はほどこうと苦心しているうちは強く意識しているが、結び目が解消されてしまうと存在感が小さくなる。この数ヶ月を泡沫の夢と感じないまでも、もはや記憶は思い出との境界に差し掛かっており、いずれ薄まってしまうような予感をひしひしと覚えた。


 きっと世界の人々にとってもそうだろう。自然災害であれば節目節目でメディアが警鐘を鳴らしもしようが、この夏の出来事を繰り返したところで得られるべき教訓もない。突如として完結した支配者騒動は今でこそトップニュースとして君臨しているものの、騒動はあくまで騒動だ。俺たちの夏は一過性の騒ぎとして処理されているようでもあった。


 俺はふと思い立ち、スマートホンでニュースサイトを開く。どこかの国の外務大臣がまた罷免されただとか、熱愛の末に結婚した芸能人が即座に不倫しただとか、怪我から復帰したスポーツ選手が脅威の活躍を見せているだとか、興味のない報道が徐々に増えている。

 その中にぽつんとある、一つのコラムに目が留まった。


「本当に日本に支配者はいたのか?」


 記者の一人が考察を垂れ流す類のものらしい。これはニュースなのかよ、っていうかいなかった可能性があるのかよ、と俺は笑いを溢す。

 宇宙人たちが地球に対して行った修正は予想していた変化よりずっとささやかなものだった。支配者の存在証明も支配者がした行動も、ほぼすべてが残っている。世界から消えたのは俺とアキが支配者だったという事実だけだ。それでもあらゆる媒体から俺たちが消えている以上、大崎が言った「強い〈命令〉は物理法則すらどうにかできる」という言葉もあながち間違いではなかったのかもしれない。

 画面をタップし、記事を開く。その中で記者はこう綴っていた。


「状況証拠に鑑みて、最後の支配者が日本にいた、という意見は多い。しかし、出演していたはずの番組のマスターテープは消失しており、個人の録画さえも確認が取れない以上、情報や記憶を操作されていることは間違いがなく、『日本人が支配者だった』と結論づけるのは早計である。しかも、目撃証言は関東地方から東海地方まで多岐に渡る。八王子の和菓子店が販売していたキャラクター饅頭も時期によって別人を描いているようにしか見えない。これは我々が『日本に支配者がいた』という曖昧なイメージを植え付けられた証左ではないだろうか。」


 徹頭徹尾、記者は穿った視点を崩しておらず、都市伝説が生まれる過程を眺めている気分になった。俺は小さく嘆息し、スマートホンをポケットにしまおうとする。

 そのとき、ぴこん、と高い音が鳴った。

 再び画面に目を向けるとアキからのメッセージが表示されていた。「もうすぐ到着」という簡素な文に、俺は視線を彷徨かせる。街灯が少ないとはいえ、人の有無くらいは判別できる。河川敷の歩道にはアキどころか、誰の影もなかった。

 おおかた近くのコンビニで飲み物でも買っているのだろう。そう結論づけると、まさしく予想どおりで、間もなくアキはコーヒーを両手に姿を現した。「お待たせ」と言うその顔には久しぶりに顔を合わせる緊張だとか喜びなんてものは欠片も見受けられなかった。


「ホットでよかった?」

「助かった」俺はカップを受け取り、手のひらに熱を染みこませるように持つ。「いくらだっけ?」

「百円」


 俺は尻ポケットから財布を取り出し、硬貨を手渡そうとする。しかし、すんでのところで、アキは一度伸ばした手を引っ込めた。


「やっぱいいや。奢るよ」

「お前、金ねえだろ」

「ないけど、奢る。いやなら命令しなよ」

「いやではないから命令しねえけど」


 少しの間迷ったもののアキの視線は以前と同じ風合いで、結局、俺は財布の中に百円硬貨をしまった。カップに口をつける。隣に座ったアキも同じようにコーヒーを啜った。家々の向こうにある幹線道路を、低いマフラー音が通り過ぎていった。

 なんとなく手持ち無沙汰で、俺は思わず先んじた。


「新しい家はどうよ」


 俺の質問に、アキは一瞬呆けた後、空を見上げた。


「居心地は悪くないよ。僕をあしらうときなんか年季を感じさせる」

「あしらわれるようなことをするなよ」

「おじさんたちは遠慮するなって言ってたし……まあ、少し変わってるけど」

「ナコを育てた親だからな」

「感謝してるよ。絶妙な距離感でさ……学校も近くなったし」


 アキの空とぼけた声に苦笑する。

 支配者について、五人の人間が記憶を保持している。俺とアキ、ナコ、そして、大崎と母さんだ。諸々の改変は〈命令〉のシステムによるもので、選んだ対象を記憶操作の対象から除外するのは簡単だった。名前を挙げて、宇宙人に頼む。それだけで済んだ。宇宙人たちは説明が面倒だったのか、詳しい仕組みは堂々とはぐらかし、俺もそれで納得することにした。

 問題だったのは誰の記憶を残したままにするか、という点だ。もちろん、俺も含めて、すべての人間の記憶を改変する選択肢もあった。むしろそれが常道だ。宇宙人たちも例外のない記憶操作を提案した。

 だから、すべては俺の独断だ。


「どうしたの?」


 アキが訝しげに俺を覗き込んでいる。


「急に黙ったけど……聞いてなかったよね」

「ああ、悪い。別のこと考えてた」

「人に質問しておいて?」アキは嫌みたらしくそう言った後、大きく息を吐いた。「これでよかったのか、ってこと?」

「なんでわかるんだよ、気味悪いな」

「だいたいわかるでしょ。真っ先にあんな質問したら『気にしてます』って言ってるようなもんだよ」


 俺はコーヒーを一口飲み、後頭部のあたりを掻いた。


「……俺たちも含めて、全員の記憶を消したほうがよかったんじゃないか、ってちょっと思ってんだよ。そうすれば話は簡単だっただろ? ぐだぐだ悩む必要なんてなくて、俺たちも他のやつらみたいに『支配者ねえ、大変だったよな』って言えた」

「『まあ、旅行は楽しんだけど』って?」

 アキの軽口に頷く。「そうそう」

「確かに、そうしてたらコーヒーを奢らずに済んだね」


 いやだったのかよ、と茶々を入れようとして、堪える。アキの横顔にはそういった会話を求める雰囲気はなかった。


「それに、母さんに関するいろいろなことが薄れてたかもしれない。きっと僕はただただ母さんを轢いた人たちを憎んでただろうね。本当は僕が悪いのに、とかそういう話じゃなくてさ」


 全責任を他人に押しつけられたら――アキがそれを望まないのはなんとなく理解できた。決して楽な道ではないからだ。無論、どちらが生きやすいかは比較できない。


「でもさ、まだ、こっちのほうが僕は笑いやすいよ。嘘を吐かずに話せるし、ナコに引き取ってもらえたしね」それから、アキは思い出したかのように「あ」と声を宙に浮かせた。「そういえば、ナコも言ってたよ。記憶が残っててよかったって」

「言うだろうな、あいつは」


 あれからナコとは一度電話で話しただけだった。さまざまな後処理の顛末を聞かされ、また別の仕事に就くと教えられた。〈新聞同好会〉のメンバーがどのように集められたかは結局聞けずじまいだったが、きっとまた似たような、でもまったく別の仕事に就くのだろう。青少年の健全な育成を何たら、だ。


「大崎さんは?」

「何にも聞いてねえんだよ、それが」

「怒ってるんじゃないの? 強い〈命令〉、勝手にしかけたんでしょ」

「完全な〈命令〉な」


 正確に言えば「擬似的な」が頭につくが、俺がそれをどうでもいいと思ったのと同様、アキも名称については大して頓着していなかった。「ああ、それそれ」と言うだけで、積極的な訂正はなかった。


「事前に説明してなかったって本当?」

「悪戯のつもりでやってたんだ、最初は」


 半信半疑までもいかなかったかもしれない。アキの手記から明確な〈命令〉では条件から外れていると考え、曖昧な内容を口にしただけだ。それにしたって完全な〈命令〉を発動させる確信はなかった。だからこそ悪気はなかったし、また、大崎にも反省すべき点はある。彼が面白くもない冗談を口にしていなかったら、俺は実行しなかっただろう……なんて、責任の所在をぼかしたら、卑怯だろうか。


「見たよ、あの大崎さんとは思えない満面の笑み」


 俺は病室に設置されていたカメラを思い出す。俺が支配者という証拠が消えている以上、おそらく、大崎が笑うだけの動画が収められていたに違いない。その映像を想像すると噴き出しそうになった。


「ナコが持ってきてさ、正面じゃなくて横からの角度だったからいっそうシュールだった」

「今度、送ってもらうか」

「それがいいよ」


 アキは嬉々として同調し、そこでふと会話が止まった。話題と話題の隙間を埋めるように風が吹く。川上から川下へと虫の鳴き声が流される。俺はコーヒーをちびちびと飲んだ。

 考えていることは一つだ。

 まだ、だろうか、ということ。

 アキは前置きが長い。それは痛いほどに承知している。

 心の整理をつける時間であったり、引越であったり、学校で話す機会を作れなかったが、すぐに生活は交わるのだ。わざわざ俺を呼び出した大事な理由があるはずだった。そこまでして言わなければいけない何かが、ある。

 いや、「何か」ではない。

 俺はその質問の内容を知っていた。

 そして、しばらく沈黙が続いた後、ようやくアキが口を開いた。


「どうして自分の記憶を戻さなかったの?」

「……訊くよな、やっぱり」


 ねじ曲がった記憶をもとに戻す。

 俺はずっとそれを目的に宇宙人を救済しようとしていた。にもかかわらず、記憶はそのままだ。別にシステム的な問題があったわけではない。改竄というファクターさえあれば複線的な記憶にも整合性を保つことは可能だった。


「あのさ、ケイスケが休んでたとき、気になって話を聞きに行ったんだ。木下さんとかに。そしたら予想してた状況と違ってさ」


 自分のことながら、俺は、俺を取り巻く環境に客観的な視点しか持っていない。だからこそ、以前、俺はきっと木下に好意を持っていて、彼女も俺に同様の感情を抱いていることくらいは把握していた。

 飯塚たちに関してもそうだ。

 クラスメイトたちが俺を邪険に扱ったのも友情の裏返しに近い。突然付き合いの悪くなった俺を支配者に媚びへつらう取り巻きと看做した可能性もある。裏切り、とまではいかないだろうが、冷たい態度を先に取ったのはきっと俺だった。


「……アキ、お前、そのとき取りなしただろ」

「だって」


 だって、の後に言葉が続かない。俺も責める気はなく、それ以上何も言わなかった。

 偽りの不和は俺が登校を再開した日に解消した。支配者という要素をなくせば、状況は一変するのだ。どうやらアキは母親の早世を引き合いに出して俺の態度を説明したようだった。これ以上ない理由付けだ。事情が事情だけに飯塚たちは再び俺を受け入れるようになった。


「ねえ」アキは話を戻そうとする。「教えてよ。僕たちの記憶を消さなかったのは理解できる。でも、わざわざ仲がよかった友達との間に溝を作る必要はなかったでしょ?」

「まあ、そうだな」

「なら、なんで」


 どうして、だろうか。

 明確な理由など持っていなかったため、どうにも答えあぐねた。

 比較し、合理的に判定するのであれば記憶を戻したほうがすべて円滑に動いただろう。名前も思い出せないクラスメイトたちは仲のよかったクラスメイトへと戻るし、だからといってアキやナコたちとの思い出が消えるわけでもない。アキを拒絶したかもしれないという確信に近い疑念は事実へと変わり、後悔も容易になったはずだ。

 しかし、俺は宇宙人の申し出を拒んだ。記憶の保持をするか否か、という問題に関しては大いに悩んだが、この選択には迷いはなかった。


「説明すんの難しいな」

「……僕には言いにくいこと?」

「いや」と俺は微塵の気後れもなく、首を振る。「あえて言うなら、思いつき、かな」

「え?」

「なんかさ、こうするのが正しいと思ったんだよ」


 理屈はいくらでもこねられる。

 どれだけ俺の脳が整合性を保ったとしてもクラスメイトたちに対して異なる二つの感情を抱くことは確かで、それならば一つを切り捨てたほうがいい。

 だとか。

 アキやナコ、大崎との関係性の土台を偽りと認めたくなかった。

 だとか。

 本当の記憶、なんてものが紛れ込んだとき、その重さに順位をつけてしまわないだろうか、と怖くなった。

 だとか。


 だが、それらは後付けの理由に過ぎない。俺が記憶の修正を拒んだとき、どの理由も頭の中にはなかった。純粋に、直感的に、今の状態を選んだだけだ。


「なあアキ、記憶が人間を規定するのか?」

 俺の問いにアキは眉を顰め、しばらく悩んでから、小さく頷いた。「人間なんて言い換えれば記憶の集合体じゃないの?」

「まるで記憶に〈命令〉されてるみてえだな」

「でも、そういうものでしょ。積み重ねてきたものは否定できないじゃん」


 どちらがむちゃくちゃなことを言っているのか、自覚はあった。もちろん自己否定するつもりはない。肉体は無意識下から繰り出される記憶の〈命令〉に従っているだけ、と主張するのも衒学的だ。

 だから、結局、理由などないのだろう。支配者なんて肩書きをつけられても振り回され続けた俺の、最後の抵抗と考えることにした。

 記憶がなかろうと、誰かに〈命令〉をされようと、俺は俺だ。気持ちよくそう思うためにあのときの俺はこの選択をしたに違いない。


「大事なのは曖昧になっていく記憶じゃなくて、未来だ……って言ったら笑うよな」

「爆笑するね。へそで茶が沸くよ」

「お、ついでにコーヒーを温め直してくれよ」


 くだらない応酬に俺たちは顔を合わせずに笑う。こうやって胸を張って笑えるのだから、たとえ俺の選択が間違いだったとしても間違いではなかったと思えた。アキも「もういいや」と頷く。「気にしないことにしよう」と。

「そうしようぜ。もう全部が思い出話だ」

「あ、そういえば、もう一つ、訊きたいことがあったんだ」

「気分が沈むような質問はするなよ」

「大丈夫だと思うけど」

「じゃあ、聞こう」

「あのさ、最後、宇宙人とはどんな話をしたの?」


 その一言であの無機質な声が甦る。

 そして、彼らが語った、もう一つの目的も。


        ◇


『本当にいいのですか』


 俺が記憶の修正を拒むと宇宙人は何度もそう念を押した。おそらく、彼らにとって記憶とはもっとも大事なものの一つだったのだろう。正確に言えば、記憶から生じるさまざまな感情が、だ。彼らは感情のフィルタに基づく拒否権を取り返そうとしていた。だから、俺の選択に非を唱えるのは自然な成り行きでもあった。

 だが、一度決めたことだ。俺も俺で「しつこく訊くなよ、決意が揺らいだらどうすんだ」と繰り返し、それから、ごまかすように別の話題を提示した。


「その代わり、お前らのこと、教えてくれよ」

『交換条件としては相応しくないように思えます』

「いいだろ、言葉の綾だ。もう問題ないなら頼むよ」


 宇宙人は〈命令〉により、行動を束縛されていた。条件付加命令だ。ある条件に反したら死、という独裁者のステレオタイプのような〈命令〉で命を握られていたという。しかもその条件が曖昧なものだったというのだから、難儀なことだ。〈命令〉には言語的厳密性を要しないため、独裁者の意向は類推するほかない。それに、彼らの死は何万、何十万、何百万もの同胞の死と同義なのだ。迂遠なやり方で自らとその同胞の救済を図るにはあまりある理由ではあった。

 だが、もうその〈命令〉は拒否権によって無効になっている。彼らは『仕方ないですね』と言い、『話せる範囲で話しましょう』と答えた。

 その物言いに俺は肩を竦める。


「なんでだよ、もう何でも話せるんだろ」

『あなたが日本、あるいは自分のことを説明しろ、と言われるようなものです。話したくないこともあれば理解が足りなくて話しにくいこともあるでしょう』

「……まあ、そうか」

『もとより時間的な制限もあります』

「そういえばそうだったな」


 俺の心が宇宙にいられる時間は短い。慌てて雑談をするというのもおかしな話だが、訊きたいことがあるのならさっさと訊くべきだ。


「まず、そうだな……お前らって自分たちの星でもその姿なのか?」

『まさか。これはあなた方でいう宇宙服のようなものですよ。肉体は星で保管されてます。ちなみにかなり地球の人々と酷似した形をしています』

「へえ、神サマのレパートリーもそんなにないのかね」

『というよりも、肉体と精神の関係ですね。肉体という器は精神を規定します。つまり、形状が似ていれば精神構造も必然的に似るのです。だから、神のレパートリーが貧弱、というわけではなく、我々が地球を選んだというのが正確です。結果、我々とあなたはほとんど同じでした』

「じゃあ、お前らも普通に笑ったり泣いたりする、ってことか?」

『制限されない範囲では』

「制限? どういうことだ?」

『答えたくありません』


 お答えできません、よりも感情的な口調に、笑ったものか同情したものかわからなくなる。だから俺は平静を装い、深い部分に足を踏み入れるのをやめた。

 かつて宇宙人たちが言った言葉を思い出す。

 彼らは「感情が残されている」と、そのように自身を形容した。つまり、それは彼らが本来持っているべき感情を失っていることを意味する。俺が理解できない技術の結晶なのかもしれないし、思想教育の賜物かもしれない。そのどちらにせよ地球の常識の範疇にはないだろう。語調を強くしたところで宇宙人が語り始めるとは思えず、俺はせめて和やかな雰囲気になるよう、卑近な話題を口にした。


「ってことはそんな口調のくせにお前らも恋愛とかするのか? つうか、そういう生殖の仕組み?」

『ええ、ちなみにここにいるのは男性形が二人、女性形が一人です』

「え」


 俺は目の前に浮かぶ三つの球体を見比べる。当然、違いなどわかるわけもない。今、俺が目にしているのは彼らの身体的特徴など皆無の「宇宙服」なのだ。よくよく見れば大きさや溝の深さなどに差異があるかもしれないが、たとえ何かを発見してもやはり男女の別を当てることなど不可能だった。

 とはいえ、直接訊ねるのも気が引ける。わかっていたふりをして「美人ですね」とおだててみたが、我ながらひどい苦肉の策で、それきり宇宙人も黙ってしまった。居たたまれなくなり、謝罪する。すると一人の宇宙人があっけらかんとした声を発した。


『いえ、少し面白かったです』

「あ、そう?」

『どうでしょう、他に何か訊きたいことはありますか?』


 俺は考える。

 好奇心だけを基準にするなら訊きたいことはたくさんあった。普段どんなものを食べてるのか、だとか、〈命令〉の存在する社会システムとはどんなものなのか、だとか、科学の発展具合、生活環境、いくら似ていると言っても違いは多々あるだろう。外国の文化に興味を持つような自然さで質問することはできた。

 でも、本当に訊くべきは別のものだ。


「もう、あまり時間はないんだよな」と確認する。この空間では時間の感覚があやふやになるが、〈命令〉の前から数えるとそれなりに時間が経っていてもおかしくない。短い肯定が返ってきたため、俺は質問を一つに絞った。


 振り返り、窓から地球を見つめ、それから再び視線を宇宙人へと戻す。


「全部――全部、終わったんだよな?」


 一瞬、薄暗い空間が沈黙に満たされた。騙すための言葉を考えている、そのような雰囲気は微塵もなかった。むしろ、俺が覚えたのは共感だ。彼らの挙動には一切の変化はなかったが、この地球での出来事を振り返っているように思えた。

 俺は無根拠にそれを確信し、返答を催促しない。

 そして、宇宙人たちは代わり映えのしない機械音声みたいな声を最大限に弾ませた。


『ええ……もちろん、我々の悲願が達成されるのはまだこれからですが、あなたに求めていたものはすべて手に入りました』

「じゃあ俺も晴れて自由の身ってわけだ」

『それと』と宇宙人は控えめに囁く。『これは本来伝える必要などないのですが、我々が欲していたものは〈命令〉への拒否権だけではありませんでした』

「……どういうことだ?」

『感情のフィードバックについては既にお伝えしています。当然、あなたも例外ではありません。我々はあなたがた支配者が抱いた感情を手に入れたかったのです』


 疑問を差し挟む余裕すらなかった。

 宇宙人が滔々と語る話に俺は耳を傾けることしかできない。


『我々とあなたは同じです。同じなのです。理不尽な状況に追い込まれても、そこから脱するために最大限の努力をしなければならない。だから、少しでも決意を揺るがないように補強をしたかった』

「……話が見えねえよ」

『これは最大限の敬意だと考えてください。我々は弱い生き物なのです。だから、根拠が欲しかったのです……成功の根拠ではなく、挑戦の根拠が』


 ああ。

 他人事にも関わらず、俺は嘆きそうになる。

 思えば宇宙人たちは初めからそう言っていた。

 自らと俺たちが同じだ、と。

 薄ぼんやりと大きな話、つまり、地球の人々が置かれている状況と宇宙人たちが強いられている社会に関するものだと思っていたが、それだけではなかったのだ。故郷を救うために理不尽から逃れようとしている彼らと無理難題を押しつけられた俺は確かに似ている。

 だから、彼らの気持ちは痛いほどに理解できた。


 どれだけ強い決意を持ったとしても、心など容易く揺らぐ。本来的に記憶は曖昧なものであるのならば、そこから生まれたあらゆる感情はいとも簡単に風化する。

 俺たちはヒーローではない。

 なんだかそれが嬉しくて、俺は自分に呆れた。

 どこまでいっても無機質で、頑強に見えた宇宙人たちも柔らかな生き物だったのだ。迷い、悩み、甘え、きっと俺に対して言葉を投げかけていたときも不安で堪らなかったに違いない。我ながら単純ではあるが、すべてを許したくなり、俺は声を上げて笑った。この数ヶ月でずいぶんと鍛えられてしまったのか、顔のない宇宙人たちも微笑んでいるように見えた。


「まあ、なんだ、お前らもがんばれよ」

「ええ」不思議なもので彼らの声に生気が灯っているように聞こえる。「必ず」

「目的を達成したら自伝でも書いて俺のこと、褒めといてくれよ。アキのことも」

「それはいいですね」

 握手もハグもない、簡素な別れだった。球体の彼らには手を振ることすらできないため、終わりの境界線がぼやけている。俺は最後に青く輝く地球を目に焼き付け、「じゃあな」と肩を竦めた。宇宙人たちは「さようなら」と言う。

 それを合図に地球の重力が俺を捕まえた。

 たぶん二度と会うことはないのだろう。それが嬉しくもなく、悲しくもなく、俺は笑みを浮かべた。きっとあいつらも笑顔になっているに違いなかった。


        ◇


 ――俺の話が終わると、アキは「そっか」と感慨深げに空を仰いだ。俺もそれを真似て星々を見上げる。そのどこかに彼らの惑星があるかもしれない。ないのかもしれない。どちらであっても大した問題ではなく、そう思えることがおそらく終わりの証明だった。


「……なーんか、遠い話だよな」

「何が?」

「だってそうだろ? 地球に宇宙人が来て、俺たちがそいつらに選ばれて、もう全部が終わったんだ。今はいいけど、きっとこれからどんどん現実感がなくなっていくぞ」

「かもね」アキの声は草の隙間へと落ちる。「宇宙人は生活と関わりがない」

「生活と来たか」


 俺はすっかり冷め切ったコーヒーを飲み干し、空のカップを手の中で弄んだ。アキはぼんやりと川の流れを見ている。

 スマートホンで時刻を確認しなくてもずいぶんと夜遅くになっているとわかる。虫の音に装飾された沈黙は話題探しの間でも、言いづらいことを言うための覚悟の時間でもなく、別れを告げるまでの曖昧な空白だった。

 ゆっくりと長い息を吐く。

 すると、アキが「ねえ」と小さく呟いた。


「ねえ、ケイスケ、支配者になって、どうだった?」

「どうって……もうあれから二週間も経ってんぞ」

「なんか、急に気になってさ」


 いつかした会話だ。立場が逆にはなっているが、たぶん、アキは殊更に再現しようとしたつもりはないに違いない。俺が笑声を漏らしても、まっすぐに見つめてきていた。おどけようとしただけに機先を制された気分になる。

 俺は頭を掻き、答えた。


「いいもんじゃなかったよな。俺ももっと楽しいことに使えればよかったけど、そうする気にはなれなかったし、あいつらは自覚して意地悪くやってたし」

「そうだね」

「しかも、結局、何一つ得なんてなかったんだ。まあ、どこかの星で俺の人気は上がるかもしれねえけどな、それだけだよ」


 もう二度とこんな役割を担いたくはない。

 それが嘘偽りのない感想だった。たくさんのものを失って、結局、宇宙人たちばかりが望みを叶えている。客観的に言えば、この夏の出来事は俺にとって損ばかりだったのだろう。今後、辛い事態に直面してもさほど思い悩まないかもしれないが、それだけだ。

 ささやかすぎる収獲に、俺は考えることをやめる。それに、損得勘定でこの日々を評価してしまうと心が濁るような気がしてならなかった。

 今、なぜだか、清らかな気分であることは確かなのだから。


 俺は立ち上がり、「帰ろうぜ」と言った。「どうせまた明日学校で会うだろ」

「まあね……あ、そうだ。今度またキャンプに行かない? 十月の連休とかにさ、ナコとか何なら大崎さんも誘って」

「大崎さん、来るキャラじゃねえけど」

「誘ってみるのは別に悪いことじゃないでしょ」

「スーツで来たら爆笑するな」


 その姿を想像したのか、アキはくすりと笑った。俺は伸びをして、流れる川を見つめる。ふと思い立ち、命令する。川よ、止まれ。だが、当然、止まるはずもなければ不可能命令の感触が返ってくることもなかった。


「ケイスケ、どうしたの?」

「いや、別に」


 秋の風が吹く。

 囃し立てるように川面がなびいた。





        『この世の支配者、鈴木』 〈了〉

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この世の支配者、鈴木 カスイ漁池 @ksi-ink

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