1 世直しするには空が青い
1-1
宇宙人が来たぞ。
そう言ったのは狼少年でもオーソン・ウェルズでもなく、日本のニュースキャスターだった。ちなみに俺がオーソン・ウェルズの逸話を知ったのは情報をインターネットで探していたときのことだ。火星人が地球を攻めてくる『宇宙戦争』をニュース形式のラジオドラマとして流した人であるらしい。信じた人が大勢いたというからなんとも驚くべき話だけれど、とにかく、現状と『宇宙戦争』との相違点は三つある。一つは地球に来た宇宙人が火星出身ではなかったこと、彼らが積極的直接的な武力侵攻を行わなかったこと、そして、フィクションではなかったこと、だ。
ともかく、もっとも重要な出来事は変わらない。彼らは地球の支配者を指名していき、その四番目に
他人事なら馬鹿馬鹿しい話だけど。
◇
「世直し?」
ショートホームルームが終わると、級友たちが徒競走のような勢いで部活へと向かっていき、その流れが落ち着いた頃になって、アキが俺のクラスへと入ってきた。アキが支配者になってから二十日が経っていたけれど、いろいろな事情があったらしく、登校を再開したのは十日前だ。それだけの期間では誰もが空気に馴染めるものではないらしく、すぐさま教室から俺たち以外の影が消えた。
だが、当人に堪えた様子はない。俺の声に大きく頷いて、続けた。
「そう、世直しだよ。支配者なんだからそういうのやったほうがいいと思ってさ」
――アキは昔から、ときどき、突拍子もないことを口にする。
虹の根元を探しに行こう、だとか、担任教師を尾行しよう、だとか、考慮の中に実現の可不可や意味の有無など一切盛り込まれていないような提案だ。そして、言うだけならまだしも俺を連れて実行に移すのだから堪らない。最近は鳴りを潜めていたものの悪癖は治りきっていないようだった。
そのおかげで、と言うべきなのだろうか。他の人なら悪い冗談として受け取るような突然の世直し宣言も、俺にとってはさほど驚くべき事態ではなかった。もちろん、甘受していただけで、歓迎はしていない。対応のコツは概要の段階で話を変えてしまうことだ。俺は話半分に聞き流し、リュックを片手に立ち上がった。
「そういや、アキ、その髪って毎朝自分でやってんの?」
「え、ああ、うん。大変だよ、割と気に入ってるけどさ」
「いつまで続くもんかね」
「悪い気分じゃないし、しばらくはがんばるよ。寝癖直すのは面倒だけどさ……あ、直すと言えば世直しだけど」
その連想は無理がある、という指摘は声にならず、盛大な溜息として漏れた。俺が対応のコツを知っているのと同様に、アキも自分の意見を押し通す方法を身につけている。目を見るとそれなりの真剣さが伝わり、俺は改めて椅子に腰を下ろしてやった。明るい表情でアキが隣の席に座る。
「で、ずいぶんいきなりだな。何の映画を見たんだ?」
「別に何にも影響されてないよ。強いて言えばちょっと話をしただけ」
「話? ヴィカス・クマールの関係か?」
初代支配者のインド人は死後の今もなお強い影響力を持っている。支配者や世直しというキーワードからその名前を思いついたのだが、アキの反応は鈍かった。
「あー、当たらずとも遠からず」
「最近、講演会とかドキュメンタリーってあったっけ」
「さあ」と眉を上げるさまはとぼけているようには見えない。「ヴィカス・クマールの映画は駅前でもロングランしてるけど、春に見たきりだよ。それに話をしたのであって、聞いてたんじゃないから」
「誰と話したら世直しなんていう発想が出てくるんだよ。大塩平八郎か?」
「宇宙人だよ」
「あー」頬が引き攣る。「宇宙人か、そっか」
もし、一年半前の俺がここにいたらアキの正気を疑っていたに決まっている。この前さ、宇宙人と話したんだけど。そんな与太話を真面目な表情で伝えられたら俺が返す言葉はほとんど二択だったはずだ。
お前、頭大丈夫か?
そうか、よかったな。
しかし、実際に宇宙人が地球に来ていて、アキが彼らと面会した事実を知っている以上、そんな罵倒やあしらいは出てくるはずもなかった。俺は「宇宙人か」と現実逃避したがる自分に言い聞かせるように、あるいは時間を稼ぐように反復する。それから、豆粒程度の疑問を精いっぱい膨らませた。
「また会ったんだな。宇宙人も暇なのか?」
「同じこと訊いたら笑われたよ。でも、支配者を呼び出すのは二回くらいにしてるらしいから今後はあんまり機会がないかもね。もっと話してみたいんだけど」
「ご多忙だな」と鼻で笑い、俺は話の舵を元に戻した。「つうか、それにしたって、なんで宇宙人と話したら世直しをしたくなるんだよ」
「宇宙人にお願いされたんだよ」
「は?」
にわかには信じられず、俺はひどく顔を歪めた。と、思う。なにせ、宇宙人たちは超科学的な兵器こそ用いなかったものの、ほとんど蹂躙に近い行為を行ったからだ。勝手に一人の地球人を支配者に仕立て、その様子をテラリウムよろしく眺める、だなんて最悪の趣味ではないか。そのせいでよくない事件もたくさんあったし、声に出さずとも恨んでいる人は相当数、いた。もちろん確たる正当性のある行動という可能性もある。だが、歪んだ人間の社会の矯正のためにやってきたのだ、少々の悲劇くらい我慢しなさい、と諭されたところで納得できる人は少ない。
そのせいか、別に直接的な損害を被ったわけでもないのに、俺は一言ぶつけてやらなければいけない気分に陥った。もちろん、アキに対して怒りなどはない。無邪気に蟻を潰す幼児に注意するような義務感だけがあった。
「あのなあ、アキ。あいつらに世直ししてくれって頼まれたからってよ」
「違うよ」
「え?」
「別にあいつらに世直ししてくれって頼まれたわけじゃないって」
「じゃあ、なんだよ」握っていたはずの話の舵が左右に揺さぶられている。「今、お前が言ったんだろ」
「だから違うって。宇宙人にお願いされたのは別のことで、そこから、なんか、世直しでもしてみようかな、なんて思ったんだ」
「じゃあ、なんてお願いされたんだよ」
「救ってくれー、って」
「すく……は?」
「我々を救ってくれ、って」
言葉が出ない。夥しいほどの疑問が浮かび、それらがいっせいに口へと殺到して、詰まった、そんな感じだった。アキはまっすぐな表情をしていて、俺がよほど変な顔をしていたのか、声を上げて笑った。
「ケイスケ、なに口をぱくぱくやってんの」
「いや、お前……」
「でさ、世直しでもしようかなって」
「続けるなよ」俺は唾を飲み込み、もう一度言った。「続けるなよ」
「何、どうしたの?」
「どうしたの、じゃねえよ。本格的に意味がわかんねえ。聞きたいことがめちゃくちゃあるんだけど」
「たとえば?」
「『救ってくれ』ってなんだよ」
多くの意味を含んだ、曖昧な質問だった。
たとえば、一人の地球人を支配者に擁立することと彼らを救うこととの間にどんな関係があるのか、だとか、宇宙を甲州街道よろしく走り回れるような生命体をどうすれば地球人ごときが救えるのか、だとか、そもそも「救う」の定義は何なのか、だとか。でも、困惑した今の俺にはひとまず確かな手触りの基準を願って漠然とした疑問を投げかけることしかできなかった。
当然のことながら、要領を得ない質問に返ってくるのは同価値の回答だ。アキは肩を竦め、世間話をするかのような調子で返した。
「さあ? 宇宙人は大事なことを教えてくれないんだ。少なくとも住むところがないからアパートを探してくれって意味じゃないと思うけど」
「だろうな」
「まあ、それに関して答えられることはないよ。他には?」
「じゃあ、なんで、世直しがあいつらを救うことと繋がるんだよ」
「逆に訊くけど、答えられると思ってるの?」
ああ、と俺は呻く。ああ、そうだったそうだった、と。これがアキの提案の常だ。思考の変遷は分析できたが、現状に影響があるはずもない。
俺は嘆息し、立ち上がる。その動作だけで拒否の意志と読み取ったのか、アキも続いた。「待ってよ」と声が聞こえる。
廊下には膜の張られた喧噪があった。部活の掛け声であったり、どこかの教室で行われている男子生徒の悪ふざけであったり、女子生徒の浮ついた声であったり。縁遠いものではないが、今の俺とは少し離れたものであるのは間違いがない。
「ねえ、ケイスケ、いいじゃん」
いつの間に追いついていたのか、左に並んだアキは肩に体重を掛けてくる。だが、俺よりも頭一つ分小さいアキにちょっかいを出されても大した妨害にはならなかった。
「やろうよ、世直し。そんなにいや?」
「家で本でも読んでたいけど」
「顔に合わない趣味だよね」
「ほっとけよ。つうかさ、世直しってなにするつもりなんだ?」
「あれ、前向きになった?」
「前向きっていうか」自分の感情を何と呼べばいいのか、わからない。少なくとも慣れはあった。と思う。「とにかく、どうやって世直しするつもりなんだよ」
「そこはまだ考えてないけど、ほら、この前みたいに歩き煙草を注意するとかさ」
「……それは世直しに入るのかよ?」
「まずはやってみてから考えようよ、二人で」
昇降口まで辿りついたところで、下足箱からスニーカーを取り出し、床に落とす。ぱん、と音が鳴り、わずかに浮き上がった後、靴はしばらく身じろぎを続けた。横には倒れない。
結論から言ってしまえば、俺はアキの提案を受け入れた。それがあたりまえだったからだ。ただ、やはり、高校生が具体案などまるで思いついていなかった。
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