悪夢と現実

 私は一人、仕事を終えて最寄り駅の改札口にいた。外は雨が降っている。今日は朝から雨が降っていたんだっけ。手元にはいつか喫茶店に置いてきてそのままだったはずの、お気に入りの長傘があった。よかった、今日は傘を忘れていない。その事実に安堵する。


 そういえばあれはいつのことだっけ。電車の中で傘を忘れて、困っていた日があったな。あの時は私にビニール傘をくれた親切な人がいたっけ。結局彼は海外出張から帰ってこなくて、その存在を記憶から消すことにしたんだ。


 いつからかメッセージアプリのアカウントもブロックされていたみたい。送ったメッセージにはいつまで経っても既読がつかないし、あちらからメッセージが送られることもない。最後に彼とチャットしたのはいつのことだろう。もう思い出せないや。


 帰ってこないままもう十年が経とうとしてる。彼を送り出した時は二十八歳だった私ももう三十八歳になった。アラサーからアラフォーになって、結婚を夢見ることをやめて。しまいには今の独身人生を謳歌してる。


 最寄り駅で長傘をさそうとしている時だった。駅の改札から出てきたカップルと思わしき男女二人組が視界に入る。男性の方は見知った顔――隼人はやと。女性は知らない顔で、鼻筋の通った顔立ちと金髪碧眼が特徴的な外人。二人は私のことに気付きもせずに話し込んでいる。


 隼人、まだアメリカにいたんじゃなかったっけ。帰国したら真っ先に会いに来るって言ってたよね。隣にいる金髪の女性は、アメリカで知り合った人なのかな。すごい親しげに話してる。でも会話の内容は英語で、私には理解出来なかった。


 隼人が長傘を広げて一歩外に出た。そして女性の手を掴むと、自分のさしている傘に招き入れる。相合傘をしているその様子を見て、疑問が確信に変わる。隼人とあの女性は付き合っているんだ。だって、二人の右薬指には揃いの指輪――結婚指輪がその存在を主張しているもの。


 アメリカで素敵な女性に出会えたんだね。遠くの日本で帰りを待ってる私なんかより、身近にいる女性の方がいいに決まってるよね。隼人を信じて今日まで待ってた私がバカみたい。男性はやっぱり、信じちゃいけなかったんだ。


 傘をさそうとするとふと、視線を感じた。顔を上げれば、傘の下にいる隼人と目が合う。私に気付いた隼人は……気まずそうに顔を背けてしまった。もうあの素敵な笑顔も、優しい言葉も、照れる仕草も、私に向けられることは無いんだね。


 隼人が離れてしまったことを実感して、両目からポロポロと涙が零れ落ちていく。ねぇ、無視しないでよ。他の人と付き合うならせめて一言、声をかけてよ。私だけ大人しく待ち続けてたなんて、バカみたいじゃない。


 ねぇ、隼人。お願いだからこっちを向いて。浮気を責めたりはしない。だからせめて、私に帰国を知らせて。私に気づいて無視するなんてそんなの、別れを告げられるより辛いじゃない。ねぇ、隼人……この思いはもう、あなたには届かないのですか。





 目を開けるとそこは、昨晩泊まったビジネスホテルの中だった。今のは、夢、だったのね。夢にしてはやけにはっきりしていて、現実味があった。もしかして、今いるこっちの方が夢なのかな。


 頬を引っ張ってみて、耳たぶを強く引っ張ってみた。大丈夫、ちゃんと痛みを感じる。こっちが現実だ。だけど、ついさっきまで見ていた夢が良くなくて、運動をしたわけでもないのに息が上がってる。情けないなぁ。なんて夢を見てるんだろう。


美穂みほ……どうした?」


 私が起きたことに気付いたのかな。隼人の手が私の髪を撫でる。その顔を見て、夢の中の出来事が蘇る。金髪碧眼の女性と一緒にいたこと、私のことなんてなかったことにしたこと。その外人と相合傘をしていたこと。


 夢で見た隼人を否定したくて、目を開けたばかりの隼人に抱きついた。体はちゃんと温かい。胸に耳を当てれば、隼人の心臓の鼓動が聞こえる。隼人から香る、甘いけど爽やかな匂いに安堵した。隼人は、ちゃんとここにいる。私のそばにいる。


「泣いてる。怖い夢でも見た?」


 私の顔を見て、両目から零れ落ちる涙に気付いたみたい。優しく指で涙を拭ってくれる。その優しさと夢で見た隼人の態度の違いが、私を混乱させる。


「隼人が……他の、女の人と――付き合ってる、夢を見たの。そしたら、悲しくなっちゃって」

「……そんなに不安、しなくていいのに。だって俺、美穂さんが思ってる以上に惚れてるもん」

「はい? それ、どういう――」

「いつか話すよ。せっかくだし、その……一緒にくらす? 転勤を心配しなくていいから家、買えるんだよ。だからその、美穂さえよければ」


 最初こそ自信ありげに話していた隼人だけど、考えを声にしていくにつれてその勢いが無くなっていく。私の返事が心配、なのかな。私の出す答えなんて、心配するまでも無く決まってるのに。


 可能なら「おはよう」から「おやすみ」まで共に過ごしたい。仕事に向かう隼人を見送って、同じ家で隼人を出迎えたい。それは、この三年間で現実味を帯びた、私の将来の夢。


「同棲を誘ってるの?」

「いや……入籍準備と同時進行で進めようって話」

「そこは嘘でも『同棲』って言えばいいのに」

「ダメだよ。同棲なんてしたら俺、我慢出来ないから。ちゃんと入籍するまでは、我慢できるところはしないとね」


 隼人はそういう人だった。変に律儀で、ホテルに泊まったとしてもすぐには襲わない。ちゃんと先のことを考えた上で少しずつ事を進める。そんな、安心できるパートナーだった。


 神様、願いを叶えてくれてありがとう。これからは少しくらいその存在を信じてみます。おかげさまで今私は幸せです。


 隼人に聞こえないように胸の内でそっと、言葉を紡いだ。

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