運命の悪戯
軽食と飲み物を買って、目的の映画が上映される劇場へ向かう。手元に残った、座席番号の記された半券に胸が高鳴る。これから観る映画に期待しているから、だけじゃない。隼人と一緒に劇場に入ることに、ドキドキした。傍から見たら恋人同士に見えたりするのかな。そんなふうに高まる気持ちは、一瞬にして覚めることになった。
偶然か、運命の
女性の方は知らない人。でも、男性の方は見覚えのある顔だった。聞き覚えのある声だった。真っ暗になる前のシアターではっきり照らし出された、見覚えのある服。他人の空似なんてものじゃない。私があいつを見間違える、はずがない。近くでイチャつくカップルの一人は私の元カレ――
イチャつくことが悪いとは言わない。けれど、見知った顔がそこにいるとなると話は違う。つい、別れを告げられた雪の日を思い出してしまう。私が傘を忘れるきっかけになった出来事を。
あの日、隼人から貰ったビニール傘のおかげで、雪の中を濡れずにマンションまで帰ることが出来た。流れ作業のように鍵を空けて家の中に入る。誰もいない部屋に電気が付いているはずもなく。暗くて静かな部屋と窓の外に見える雪が、一日の出来事を思い出させた。
そういえばスマホに着信があったんだ。発信者は思い出したくもない名前、「
このまま折り返さないのも悪いよね。そう思って、部屋の明かりをつけながらスマホを取り出す。スマホの液晶画面を見て、思わず硬直した。液晶画面に表示されている通知の数が異様だったから。
「不在着信5件、通知82件」
見間違いかと思って目を凝らしてよく見る。けれど、この異常ともいえる通知の数は見間違いじゃない。着信もメッセージアプリに送られてきたチャットも、どっちも同じ人からだ。
それは全部、さっき私に別れるを告げた宏光からのものだった。メッセージの内容はポップアップで確認できるけれど、電話の方は無理だよね。なんとなく既読を付けたくなくて、画面をスライドして、ポップアップからチャットの内容を確認する。
「さっきはごめん」
「なんで電話出ないの」
「怒ってる?」
「電話でもう一度話したい」
「本当は別れたくない」
「浮気したことは謝る」
「やり直せないか?」
「一番愛してるのはお前だけだ」
同じような文面ばっかりが並んでた。「やり直したい」「話したい」「謝るから許して」って、そんな意味の無い文字の羅列ばかりが八十二件も続いてる。見た瞬間に、持ってたスマホを投げそうになった。ここでスマホを壊すわけにもいかない。そう思って、必死に理性で衝動を抑えつける。
自分から振ったくせに。自分から「別れてほしい」って言ってたくせに。三年前から裏切って浮気していたのは宏光の方じゃない。避妊もせずに浮気相手を妊娠させたのも、宏光だ。だからかな、怒りと悲しみしか出てこない。
隼人に出会ったあの日の晩。迷いに迷って、寝支度を全て済ませてからようやく、チャットに既読を付けた。でもメッセージは送らない。返信するような内容じゃないし、私は裏切られたことをそう簡単に許せるような女じゃないから。
きっと宏光は、既読がつくのを待っていたんだろうな。私がメッセージアプリを起動して数秒と経たないうちにすぐに電話がかかってきた。最初の一回は呆然としたまま出られずに終わってしまう。だけど宏光はもう一度電話をかけてきた。
液晶に表示される着信画面。赤い拒否ボタンと緑の応答ボタン。その上には「飯山宏光」の文字が出ている。発信者の名前にため息を吐かずにはいられない。通話ボタンを押して「もしもし」と告げれば、スピーカー越しにハッと息を呑む音が聞こえた。
「スマホを見たら通知がたくさん来ててびっくりしたよ。で、要件は何?」
「
私が声を挟む余裕もなく早口で告げられる宏光の声。でもその言葉に、私に対する思いやりはない。あるのは私欲だけ。それと同時に悟ったんだ。この人にとって、彼女はアクセサリー感覚でしかないんだろうなって。
私を手放したくない理由は何。チャンスも何も、それ以前の問題よ。自分が私に隠れて何をしたのか、きちんと相手の立場になって考えてものを言ってほしい。浮気されて、浮気相手と性行為をして、挙句の果てに相手を妊娠させたから別れてほしい。そんなの、全部宏光の責任じゃない。
「たしか宏光は、浮気相手を妊娠させたんだよね? だから責任を取って結婚するんでしょ? それなのに私とやり直すって……おかしくないかな?」
「いや、その……あれだ。浮気相手とは別れる。なんとか金払って納得してもらう。だから、俺とやり直してくれよ。頼むから!」
「じゃあ、どうして私とやり直したいのか、教えてくれる? ごめんね。正直、別れ際の話で宏光には幻滅してるんだ。だから、『やり直したい』を連呼されてもすぐには無理かな」
声とその慌てぶりを聞けばわかる。多分、私を引き止めたいだけだなって。この様子じゃ、浮気相手にも連絡してないはず。それに、自分が浮気しておいて何様のつもりなんだろう。しきりに「やり直したい」って言い続けてるけど、こんなことをされて私が関係を戻すとでも思ってるのかな。
「なんで? 俺がこんなに謝ってるのに、どうして……」
「まず、浮気をしてたって時点で同じことをまたするって思うよね。あと、浮気相手を妊娠させたってことは、きちんと避妊とかしなかったわけでしょ? そもそも、そういう行為をしなければ向こう様も妊娠することはなかったわけだし」
「そりゃそうかもしれないけど」
「やり直して、どうなるの? 同じことをしないって言いきれる? この三年間、散々嘘をつき続けてたのに、まだ信じて貰えると思ってるの?」
一度口から零れてしまった言葉は、もう止まらない。これ以上は怒りを抑えられなかった。謝れば許してもらえる、その発想が間違ってる。浮気して裏切っておいてやり直したいとか、この人はどこまで私を馬鹿にすれば気が済むんだろう。
浮気するような人と、浮気相手を妊娠させるような人と、これ以上付き合いたくない。笑顔で人に嘘の愛を告げるような人を、私は信じられないもの。何より、宏光の「こんなに謝っているのに」の言葉に限界を感じた。
この場に及んでまだ上から目線なんだね。どうせ「この俺様がわざわざ謝ってんだよ」とか思ってるんだろう。これまでのこと、今回されたこと。宏光と思い出を振り返るけれど、もう何の未練もない。
「やり直したくない、それが私の答え。別れてくれてありがとう。お願いだからもう、連絡してこないでください」
この時に選んだ決断が間違っていたのかどうか、私にはわからない。でもこのままやり直したって、元には戻れない。それくらい私にだってわかったよ。自分から振ったくせに、通話を終えたあとに泣き崩れてしまったけれど。
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