幼馴染

「……あのさ、怒っていい?」


 隼人はやととの間に起きたことをひととおり話すと、愛未まなみが眉を上げ、眉間にシワを寄せた。頬をわざとらしく膨らませる仕草から、本当に怒ってるんだなと実感する。それなのに冷静なのは、隼人に関することじゃないからなのかもしれない。


 目に見える感情の変化は、隼人がいなくなった日に消えてなくなった。今はもう、喜怒哀楽なんて顔に出てはくれないんだ。頬の筋肉が硬直しつつあるのを感じる。顔だけで気持ちを伝えられないから、頷くという動作で愛未に肯定の意を示した。


「何もかも報告しろなんて言わない。私も美穂みほも自分の生活があるもん。でも……笑えなくなってまで周りに助けを求めないなんて、馬鹿なんじゃないの!」


 作り笑いくらいなら出来る。仕事では作り笑いで誤魔化してるし、今作ってる笑顔もバレないと思ったんだけどな。幼馴染の目には、私の笑顔がおかしいことはお見通しみたい。作り笑いを見破られたから、無理に笑顔を作ることをやめてみた。


 無理に笑わなくなっただけで両頬が引っ張られる感覚が無くなる。自然に笑うことなんてもう、何ヶ月もしてない。泣いたことならあったけど、泣きすぎたからなのか涙はもう流れない。残っているのは、喉の奥がツンとする感覚だけ。


「すごいね。笑えないってに気づいたの、愛未くらいだよ」

「問題はそこじゃないでしょ! もう、海外出張に出かけたとか知らなかったわよ。笑えなくなったのもそのせい?」

「まぁ、ね。隼人がいなくなってから外にも出なくなったし、どんなに昔を思い出しても、チャットをしても、虚しくなるだけなんだよね」


 メッセージを送れば、時間がかかっても返してくれる。隼人から送ってくれることもある。でもどんなメッセージも、過去の思い出も、虚しいんだ。だってどんなにチャットしても、記憶を振り返っても、目の前に隼人がいない現実は変わらないんだもの。


 隼人のことを今は信じてる。どんなに離れても、裏切らないって信じてる。信じててもやっぱり、会えないのが苦しい。もし同じ国にいれば、どんなに遠くても会いに行って気持ちを確かめあえるのに。


「会いに行かないの?」

「会ったら、逆に辛くなるんだって。いっそ一緒に暮らせたらいいんだけど……私もさ、仕事があるから」

「会社員って不便よね。辞める時もいつまでに届を出すとか決まってるんでしょ?」

「うん。まぁそれもあるんだけどさ、私も今の仕事が楽しいから」

「仕事が楽しい、ねぇ。私にはとても理解出来ない言葉だわ」


 会いに行けたら嬉しいけれど、そう簡単にもいかない。仕事の忙しさによって休めるかが変わってくるし、アメリカまで行くとなれば余裕を持って一週間は休みが欲しい。


「じゃあ呑みに行こうか」

「なにがどうなったら『じゃあ』になるのよ」

「閉じこもってるくらいなら居酒屋に行こうって。呑めば少しは気持ち変わるよー」

「それ、愛未が呑みたいだけでしょ?」

「えへへ。いいじゃん。美穂も気分転換出来るし、久々に酒飲んで話そうって。もう予約してあるからさ」

「予約してあるの?」

「そ。午後六時からで予約してあるから、それまでここに居させてー」


 突然の流れに頭が追いつかない。愛未は居酒屋を予約してから来たわけだよね。ということは、最初から私を外に連れ出す気でいたってことで。それを考えるってことは、連絡が無い時点で閉じこもってることを察してたってことで。


「ほら、難しく考えない。私もさ、子育ては楽しいけど友達と疎遠になって寂しいんだよね。だから寂しい者同士、飲み明かそう」


 隼人がいなくなって沈んでいた私には、愛未の明るさがただただまぶしかった。





 呑みにいくことを宣言した愛未は、突然立ち上がって台所へ向かう。何をするかと思えば冷蔵庫や冷凍庫、引き出しまで開けてその中身を確認し始める。あんまり見て欲しくないんだけど、私が制止する間もなかった。


 冷凍庫には冷凍食品が大量にしまってある。引き出しの中にはレトルト食品が大量にしまってある。冷蔵庫に入ってるものなんて缶詰と飲み物くらい。一目見れば、私の食事の栄養バランスが悪いってわかるはず。


「やっぱり。まともなもの食べてないじゃない!」

「そりゃそうだけど……そんなことより、人の台所事情を無断で把握する方がおかしくない?」

「だって美穂のお母さんに頼まれたもん。ちゃんとしたものを食べてるかチェックして教えてって」


 もう、お母さんなにやってんのよ。確かに一人暮らししてからほとんど連絡してなかったけど。だからって愛未にそんなことまで頼むかな、普通。愛未だって暇じゃないんだし、実家と距離あるだろうに。……あれ。


「なんでお母さんから?」

「いやぁ、あまりに連絡がないからさ、美穂の実家に聞きに行ったんだよね。そしたら、『どうせ会いに行くならついでに』って頼まれちゃって。で、レトルト食品とかばっかなら、食材送るって張り切ってた」

「いやいや、送らなくていいから! 送られても困るから伝えないで!」


 お母さん、幼馴染になんてこと頼んでるのよ、本当に。だいたい、仕事に疲れた社会人が夜な夜な夕食作るわけないじゃない。作る人なんて稀よ、料理が好きか得意な人限定よ。むしろ家の中で料理作って待ってくれる人が欲しいくらいよ。


 隼人と離れてから夕食を気にする余裕なんて無くなったのよね。食欲もあんまりないから、レトルト食品とか冷凍食品で簡単に済ませることが多くなったし。正直、野菜とか米とか送られても困るだけなのに。


「あー、伝言忘れてた。近々おばさん、ここに来るって」

「……抜き打ちなら言っちゃいけないんじゃないかな?」

「あっ、本当だ。まぁいっか。細かいことは気にしちゃダメだよね」

「いやいや、そこは気にして! お母さんが抜き打ちで来る意味を察して!」

「うんうん。ツッコミにもキレが出てきたね。ちょっとは元気になった?」


 そういえば愛未、こういう子だったな。昔から何かしらやらかして、その度に私が声を上げてたっけ。あの頃は恋愛でこんなに苦しむだなんて、夢にも思わなかった。大人になれば誰でもすぐに結婚するんだろうなって、甘い夢を抱き続けてた。


「美穂ー、早く飲まないと紅茶が冷めちゃうよー」


 愛未の無邪気な声が、落ち込んでいた私の気持ちを少しだけ明るくしてくれた。

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