第五部 忘れられない存在
もう一度君と
君に会いたい
隼人と出会ってからの四年間を思い出したせいかな。スーっと頬を伝う一筋の涙に気付いた。久々にオリオン座を見つけて、冬の大三角形を作って。そのまま隼人との思い出を振り返っていたんだ。思い出して、しまったんだ。思い出したら恋しくなる、寂しくなる。そうわかっていたはずなのに。
ネオンライトに彩られた街並みは今も昔も変らないな。空がどんなに暗くても、ビルの看板だけは
冬の大三角形とそれを構成する星座しか見えない夜空。もし他に星座が見えていたら、冬の大六角形を作ったんだけどな。隼人に会ってから身についた知識は全て、私の中で生きている。隼人との思い出は今でも、目を閉じれば当時の感情と共にはっきりと思い出せる。
初めて会った時、ビニール傘を貰った時、折りたたみ傘を返してもらった時。当時は、隼人とこんなに長く関わることになるなんて思いもしなかったな。こんなに人を
隼人に出逢って、その人となりを知って、隼人の優しさに触れて。一緒に過ごしたあの
照れる仕草も優しい所も。耳を赤く染めて「大好き」を伝えてくるのも。体の温もりも隼人の匂いも何もかも全て。たかが昔の記憶なのに、ちっとも忘れられない。隼人に会いたい気持ちを抑えるために、今まで以上に仕事に没頭して今日まで生きてきた。
「待てなかったら、俺のことは忘れていいよ」
転勤を告げられた日に言われた言葉は、一度だって忘れたことは無い。「忘れていい」なんて言うくせに、メッセージアプリで連絡を送ればきちんと返してくれる。でも、文字でしか伝えられない思いがなんとなくもどかしかった。直接顔を見て言葉をかわせない現実が悲しくて、苦しくて、辛くて。
忘れられるはず、ないんだ。隼人より良い人なんて、そう簡単に出会えないもの。出張の前に作った隼人との思い出を糧にして、仕事に没頭することで寂しさを紛らわせて。時差のあるメッセージアプリのやり取りでなんとか、日々を頑張って生きてる。
転勤する前にと作った思い出はいつでも振り返ることが出来る。だけど思い出す度に実感するんだ。隼人が今はそばにいないことも、簡単に会いに行ける距離じゃないことも、会ってない日々の方が長くなってしまったことも。そういったことを実感するのが辛くて、今年に入ってからは思い出すことをしなくなった。
隼人と付き合う選択をしなければ、こんなに苦しまなかったかな。隼人が帰ってくるまで待つって決めなければ、こんな思いをしなかったのかな。隼人に何か言われてでも、アメリカまで会いに行っていたら、この寂しさも少しは拭えたのかな。今頃になって昔の選択を後悔してしまうんだ。
隼人のことを考えながら歩くうちに、気がつけばマンションの近くまで来ていた。外から見える私の部屋には、今日も電気はついてない。逆についてたら怖いけれど。でも、たまに思うんだ。隼人が帰ってきてくれないかなって。誰かが家にいてくれないかなって。
隼人に会いたい気持ちだけを抱いたまま、今日もこの街で暮らし続けてる。もうこの街にもこの国にも隼人はいない。海外出張で、時差の大きいアメリカに旅立ってしまった。今でもメッセージアプリでのやり取りはしてるけれど、もう何年も声を聞いてない。
海外出張したばかりの頃は電話を試みたこともある。でも、時間が合わなかったんだ。日本の朝は向こうの夕方から夜で、日本の夜は向こうの昼間。どっちかが電話すると決まって相手は仕事中で、留守電を残すしかなくなる。いつしか留守電を介して話すのも虚しくなって、電話ををかける行為そのものをやめてしまった。
時折送っていたボイスメッセージですら、誕生日を除いて送りあっていない。いつからかボイスメッセージの一方通行の声ですら、聞くだけで会いたい気持ちが抑えられなくなった。どうせ会えないのに声だけ聞く、その行為そのものが辛くて。
いつか彼のいない現実を受け止められると思ってた。彼への気持ちが忘れられると思ってた。でも、やっぱり無理なの。どんなに強がっていても、頭では理解していても、心はすぐには追いついてくれないんだ。
いっそ恋愛なんてしなければ楽なのに。足りない何かを補おうとしなければ楽なのに。何も待たないで、思わないでいられたら、楽なのに。誰かを大切に思うから、こんなにも離れた後が辛いのに。転勤の可能性をわかってて、隼人と付き合うことにしたのは私。でも、こういう時は自分の選択を悔やんでしまう。
流れ作業のように何も考えずに鍵を空けて家の中に入る。誰もいない部屋に電気が付いているはずもなく。暗くて静かな部屋が「彼がいてくれたら」なんて思わせる。室内の電気を付けながら靴を脱いで、鞄を廊下に置く。そしてコートを脱ぎ捨てた。
「ただいまー」
誰もいない部屋に私の声が響く。誰もいないとわかっていても声にしてしまうのは、私の悪い癖。ほぼ毎日、帰宅する度に声を出しては虚しくなってしまう。結局、今日も変わったことは何もない。いつも通りのつまらない毎日。隼人がそばにいればまた何か違ったのかな。
今日こそはいつもと違う、そう思っていたのにな。久々に隼人のことを思い出してしまったのに。今日はいつか一緒に見た時のように、オリオン座が綺麗に見えた。だから変な錯覚をしてしまったのかな。期待したって意味無いのにね。そう簡単に帰ってくるはずがないのに。変に期待するなんて馬鹿だな、私。
とりあえずスマホを充電しなきゃ。廊下に脱ぎ捨てたコートを拾い上げて、そのポケットを漁る。そこで、一つの異変に気付いた。拾い上げたコートが微かに振動していて、バイブ音が聞こえるんだ。バイブ音がすぐには止まない……誰かから電話が来てるんだ。仕事でミスでもしたのかな。
「もしもし」
慌ててスマホを取り出して、発信者も確認しないで応じる。私の声にハッと息を呑む音がした。かと思えば何回か咳払いをして声を整えている。なかなか話そうとしない発信者に少し苛立ちを感じてしまう。でもこの咳払い、どこかで聞いたことがあるような気がするんだよね。
「
名乗られた言葉に、思わず息が止まる。すぐには信じられなかった。だって、聞こえてきたのは、何度も夢見た隼人の声なんだもの。もう何年も話せていない隼人の声が今、スマホから聞こえてくる。そのことに驚きを隠せない。今日感じた予感は、間違ってなかったんだ――。
「今、どこにいるの?」
「どこって家だけど……」
「あのさ、今からちょっと出てこれる? いや、明日も仕事あるなら無理しなくていいや。久々に顔が見たくて」
「待って! 今、どこにいるの?」
「どこって……日本。覚えてるかな。帰り道によく一緒に立ち寄ってた公園があるでしょ? そこに今、いるんだ」
隼人の言葉を聞いてすぐに、体が動き出していた。廊下に脱ぎ捨てたコートを羽織って、貴重品を入れたままの鞄も持って、急いで靴を履いて。電話を貰って一分後には鍵をかけて、隼人のいるであろう公園に向かって駆け出していた。
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