雨の日の再会

 いつしか雪は止んで、数センチだけど積もっていた雪はすっかり溶けてしまった。都会に不釣り合いな雪景色はたった二日で終わりを告げる。また雪が降れば隼人はやとに会えるかもしれない。相手の名前も知らない当時、そんなくだらない理由で、柄にも無く雪の日を待ちわびるようになった。


 今思えば本当にバカバカしい。雪の日だから隼人に会えたわけではないのに。あの日会ってビニール傘を貰ったのは、ただの偶然でしか無かったのに。でもこの頃は、些細なきっかけでいいからもう一度会いたい、その一心だった。


 隼人に会うことを願い続けたある日のこと。ビニール傘を貰ったあの雪の日から一週間も経っていない時のことだった。仕事帰りの最寄り駅で、もう一度隼人に会うことが出来たんだ。今度は雪の日とは逆で、彼の方が駅の改札口付近で佇んでいた。


 彼を見るついでにと改札口の外に目をやって、なんとなく事情を察する。外は雨が降っていた。ゲリラ豪雨とまではいかないけど、滝のようなひどい雨。さすがにこの中を傘もささずに歩くわけにはいかないわね。


 見たところ長傘を持ってはいないみたい。折りたたみ傘でもあれば、こんなところで立ち止まる必要もない。むしろ、これ以上悪化する前にって急いで帰るはず。改札口付近で佇んでることが、彼が傘を持っていないことを証明していた。


「あの……大丈夫、ですか?」


 スーツ姿で一人佇む彼に、雪の日にかけられた言葉と同じものをかけてしまう。その声に気付いてふり返った彼は、私に気付いたのか目を見開く。そして、困ったように苦笑いをした。


「あの時の方ですね。あのあと、無事に帰れました?」

「お陰様で。ところで、どうされたんです?」

「実は、財布を家に忘れてしまったんですよ。折りたたみ傘も忘れてしまい、電子マネーの残金も無くて……どう帰ろうかなと」


 今日は、午前中は晴れていた。でも時間が経つにつれて空は雲に覆われて、今は雨が降ってる。ゲリラ豪雨とまではいかないけれど大粒の雨だから、この中を傘をささずに帰るのも辛いはず。まるで、この前の雪の日の私みたいだな。


 ふとあることを思い出して、鞄の中を漁る。そういえば私、あの雪の日を境に折りたたみ傘を二本持ち歩くようにしていたんだった。折りたたみ傘を電車の中で忘れても困らないようにって思って。鞄の奥底には、私の予想通り折りたたみ傘が二本、しっかり収まってる。


「この傘、使いますか?」

「そんな、申し訳ないですよ。それ、折りたたみ傘じゃないですか。ビニール傘ほど気軽には受け取れません」

「あの日を境に折りたたみ傘、二本持ち歩くようにしてるんです。それに、このままここで待っていても……雨が止む保証はないですよ?」



 アプリの天気予報によれば、今晩から明日の午前中にかけて雨が続くはず。このまま家に帰れないのも良くない。そう思っての提案だった。幸いにも傘の色は水色と紺色の二種類。これなら、彼が持ってもおかしくはないよね。


 流石に赤の他人と同じ傘の下に入る勇気はないから、傘を貸すだけ。帰って来なかったらその時はまた別の折りたたみ傘を買えばいい。折りたたみ傘が一本減ることより、隼人が家に帰れないことの方が嫌だった。


「では、借りる代わりに連絡先、教えてください。連絡先がないとこの傘、返せませんから。借りパクなんてしたくないので」


 彼の手が私に伸ばされる。伸ばされた手の平には黒いスマホが乗っかっていて。その顔を見れば、はにかみながら頬を赤らめている。そんな表情になぜか、胸の奥が熱くなる気がした。





 たちばな隼人。スマホの画面に表示されたその名前を強く意識してみる。アイコンは、綺麗な青空に雲が少し浮かんでる風景写真。ただメッセージアプリの連絡先を交換しただけなのに、どうしてこんなに胸の鼓動がせわしなく聴こえるんだろう。


 心臓の音が隼人に聞こえそう。聞こえて欲しくないけど聞こえてほしい、そんな矛盾した気持ちが辛い。もしこの心臓の音が届いたら、彼はどんな顔をするのかな。あぁ、こんなことを考えるなんて私、柄にも無く浮かれてる。冷静にならなきゃダメだよ、私。


北川きたがわ美穂みほ、さんですか。綺麗な名前ですね。このアイコンの猫も可愛い」

「ありがとうございます。橘隼人、さん。素敵な名前ですね。響きがいいです。アイコンの風景写真も綺麗で、見ていて心がスっと晴れてきます」

「それはそれは、ありがとうございます。お気に入りの景色なんです。本当は星空が撮りたかったんですけど、無理でした」


 他愛のない、ありきたりなやり取り。それなのになぜか、この会話が終わらないように願ってしまう。もっと隼人の声を聞きたい、もっと隼人について知りたい。おかしいな。私、ついこの間まで彼氏と別れて落ち込んでいたはず。なのになんで今、こんな感情を抱いているんだろう。


 スマホの画面を見るフリをして、チラッと視線を上に向けてみる。一瞬だけ隼人の顔を見ようとしたの。やっぱり今日も寝癖がついてる。柔らかい笑顔を浮かべたその顔を見ると、何でか心が落ち着いてくる。


「あの、僕の顔に何かついてますか?」

「え?」

「いや、あまりにも僕の顔を見てるので、顔に違和感でもあるのかなーと」

「そういうわけじゃないんですけど、その……ね、寝癖は、直さないんですか?」


 やってしまった。口に出してから激しく後悔する。別に寝癖のことなんて言わなくていいじゃない。どう考えても仕事終わりのはずなのに、なんで寝癖を指摘しちゃうかな、私は。流石に朝からこのままのはずがないのに。


「え、ね、寝癖ですか? そんなはずは――うわっ、本当だ! ちゃんと直したはずだったのに」


 前言撤回。隼人さん、実は結構抜けてるみたい。この感じだときっと、本当に気付かないで仕事してたんだろうな。「だから今日笑われてたんだ」とか言い始めてるし、私の想像は間違っていないはず。


「お恥ずかしいところをお見せしてすみません。とりあえず、帰宅したら連絡します。その時に、傘をお返しする日程を決めましょう」

「そんな急がなくても大丈夫ですよ」

「いえいえ。先ほどより雨足も強くなりましたし、これ以上引き止めるわけにはいきません。帰れなくなったらどうするんですか?」


 隼人の声はなんでか少し上擦っていて。雨も北風の冷たさもどうでもよくなるくらい、その声で体が暖かくなった。

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