小さな違い

 私達が訪れたのは、都会によくある複合映画館――シネコンだった。シネコンの施設内には今の時期に上映している映画のポスターが貼られている。私の目をひいたのは、とある一枚のポスターだった。


 主演の俳優と女優は私とあまり変わらない年齢で、それなりに名の知れた人達。公開されて一ヶ月ほどが経過したその映画は、アラサー世代の恋愛を題材にしたとして先日特集が組まれていた。偶然その特集を観てから、ずっと気になっていた映画だ。この映画を観たい、そう思うのにさほど時間はかからない。


 券売機でチケットを購入する時、一緒に並んでいるせいもあって互いに腕が少し触れる。選んだ映画が恋愛物だったせいもあって、そんな些細な偶然が嬉しくて、でもどこか恥ずかしく思えた。このまま一時の感情に素直に流れることが出来れば、どれだけ楽だろう。


 券売機にお金を入れようとしたけれど、隼人はやとがそれを止めて二人分の代金を払ってしまった。そんなこと、しなくていいのに。映画を観るためのお金は持ち合わせているのに。申し訳なくてお金を返そうとすれば、拒絶されてしまう。


「最初に提案したのは俺だから」

「でも映画を選んだのは私です。頼んだのも私です」

「俺も行きたかったからいいの。この映画、俺も気になってたからさ」

「だからって払ってもらうわけには……」

「こういう時は男が払うものなの。だから気にしない。好意は素直に受け取っとくもんだよ?」

「いやいや、よく知らない人に代金を払ってもらうわけにはいかないって」

「傘のやり取りをした仲でしょ? 少なくともよく知らない人じゃないよね。俺がお願いしたんだから、俺が代金を払う。何言われたってチケット代は受け取らないからね」


 くだらない言い争いをした挙句、隼人に丸め込まれてしまった。納得はしていないけど、どんなにチケット代を渡しても受け取ってもらえない。このまま代金でめていてと何も変わらない気がして、仕方なく私が折れることにした。


 券売機でチケットを買ってからはエレベーターで階を上がる。私の観たかった恋愛物の映画は数ある劇場の一つで上映される。目的の劇場がある階と今いる階は離れているため、エレベーターでの移動が推奨されていた。エレベーターに乗り込むと、思わず隼人と顔を見合わせて笑い合う。


 でも笑い合ったのは最初だけ。同じように劇場目当てにエレベーターに乗るお客さんが多くて、エレベーターの中は混雑し始めた。混雑の影響で、体が隼人と密着する形になる。久々に触れた元カレ以外の体は温かくて、外気の寒さなんて忘れてしまいそうだった。


 密着した体勢に慣れないからかな。心臓の鼓動が速い。ドッドッと忙しなく十六分音符を刻む心拍。それをやけにはっきりと感じ取れたのはエレベーターが混雑してるせい、だよね。


 隼人は彼氏でも何でもない人だもの。たったの二回、傘のやり取りをしただけの男性だ。どうせ隼人も、彼女とかいるんだろうな。あとで映画の半券は捨てるように言わなくちゃ。変に浮気なんて誤解されたら隼人が可哀想だ。


 実際私は、浮気されたことと浮気相手を妊娠させたって発言で元カレに幻滅してしまったし。隼人には元カレみたいになってほしくないんだよね。元カレほど欲望に忠実じゃなさそうだから多分大丈夫だろうけど、念の為に。





 エレベーターから降りれば目の前には売店スペースが広がっている。メニュー表にはドリンクだけじゃなくてポップコーンやチュロス、ホットドッグ、ポテト……映画のお供に出来そうな軽食の名前が並んでる。どれにしようかな。


美穂みほさん、美穂さん。何飲む?」

「うーん。飲むならビール――はまだ早いし。オレンジジュース――はチュロス食べると甘くなくなるんだよね。いや、ポップコーンと一緒にだったらオレンジジュースもありかな」

「……心の声がタダ漏れしてるよ?」


 隼人に言われ、慌てて口を手で覆う。もう漏れてしまった言葉は返ってこないけど。まさか心の声が全部口に出てるなんて、思いもしなかった。そういうこと、あんまりするタイプじゃないんだけどなぁ。


 私は映画には飲み物と軽食を欠かせないタイプだ。夜だったらビール一杯におつまみのポテトで決まりなんだけど、まだそんな時間じゃないんだよね。オレンジジュースとか甘い飲み物なら、チュロスみたいな甘い軽食は避けなきゃいけないし。だからこそ、映画前の売店に寄る時は真剣に悩む。ここで妥協しちゃダメだから。


 これから観るのは恋愛物の映画だから、甘い物を食べるのはなぁ。甘そうな雰囲気の映画に甘い物まで食べたら、甘すぎて気分悪くしそう。だとしたら食べるのは塩味ポップコーンかポテトかホットドッグか、変わり種扱いのたこ焼きか。それに合わせて飲むなら、アイスティーかアイスコーヒー、もしくはレモネード辺りが妥当なところかな。


「すっごい真剣に悩んでるね」

「軽食も飲み物も大事だもん! 見る映画によっても変わってくるし、その日の気分によっても変わってくるし」

「そ、そんなに?」


 話してから気付いた。私、今とんでもない発言をしたんじゃないかって。隼人、引いちゃったかな。私、こういうタイプの人間なんだよね。友達と一緒に来ても同じこと言ってるもの。だからって、つい友達と同じノリで答えるなんて。私、バカだ。


 嫌われてないか不安になって、視線を隼人の方に動かす。隼人は何がおかしいのかクツクツと音を立てて笑っていた。必死に口を手で覆って声を抑えようとして、肩を不自然に上下させている。そんなに笑わなくたっていいじゃない。私みたいな女性もいるのよ。


「そういう考え方はしたことが無かったな。今度から俺も気にしてみるよ。で、頼むものは決まったの?」

「うん。ポテトとレモネードにする」

「了解。やっと決まったね。……すみません!」


 ひとしきり笑った隼人は、早速私の分と自分の分をまとめて注文する。さらに代金を払ってから私に笑いかける。あれ、この流れ、嫌な予感がする。まさかとは思うけど……。


「ここは私が代金を――」

「もう払っちゃったからね。折りたたみ傘を貸してくれたお礼ってことで、今日は素直におごられてよ」

「そういう訳にはいかないってば。さっきだってチケット代――」

「こういうのは男が奢るもんなの。むしろ。こういうところで奢らない男が、俺には信じられないね。そんなわけで、俺の顔立ててくれない?」


 元カレは何でも割り勘で、私が奢ることもしばしばあったっけ。だから、隼人の言葉には正直驚かされた。だって、その言葉は元カレの行動を見事なまでに否定していたから。やっぱり隼人は元カレと違うんだ。そう、改めて実感した瞬間でもあった。

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