それぞれの夢

微妙な距離

 テーマパークでお互いの思いを確認して、付き合うことにして。それからの日々は、私のこれまでの人生の中で一番満たされていたと思う。男性に優しくされることに、愛してもらうことに、若い頃のようにはしゃいでいた。誰かを愛おしく思えることが嬉しかった。


 交際を初めてから、時間が合えば仕事の帰りに駅近くの公園で話すようになって。休日が合えば、デートをするようになって。少しずつ日常が変化し始める。そんな時に、隼人はやとの夢を聞いた。この日の選択が違っていたら、私は悲しい思いをせずに済んだのかな。



 それは、四月のとある金曜日のこと。翌日が休みなのもあって、仕事帰りに待ち合わせてデートをした。その帰り、街中にあるホテルの一室で共に夜を明かす。それ自体はさほど珍しいことじゃない。けれど今日は、隼人のまとう雰囲気がいつもと少し違ったんだ。


 金曜日の夜は、二週間に一度は一緒にホテルに泊まる。いつもならダブルベッドの中で体を寄せ合って眠りにつく。なのに今日は、わざと私と距離を空けて眠ろうとしている。お互いに顔を背ける形になっていた。


 掛け布団の下に出来た微妙な隙間のせいか、体が寒く感じる。わざとらしい距離の空け方に違和感を覚えた。今日の沈黙はなんとなく居心地が悪い。今日の隼人は何かがおかしい。表情には出さないけれど、行動がおかしいの。


「何かあった?」


 寝る前の沈黙に耐えきれずに尋ねれば、布団の中でモゾモゾと動く気配がした。掛け布団の下で、温かな熱を発する体が近付いてくる。後ろを振り向こうとすれば、人の温もりが背後から私に絡みついてくる。


 背後から肩に顔がうずめられた。その腕は、適度な力加減で私の胸部に巻きついたまま離れない。背中から伝わってくる人特有の熱が、冷えた体を温める。先ほどまで距離を空けていたのが信じられないくらいに、隼人の体は熱い。でもやっぱり、何かがおかしいんだ。


 何もないなら、私と距離を空けて眠らなくてもいい。その必要が無いし、距離を空けるという行為そのものが無駄だから。ねぇ、隼人。質問に答えてよ。別れ話をされる心の準備はもう出来ているんだから。


「ごめん。美穂みほさん、ごめん」


 背中から聞こえたのは、隼人のくぐもった声だった。その声を聞けば何かがあったのがわかる。なのに、肝心な内容については話してくれない。私に伝えられないこと、なのかな。やっぱり別れ話とか、かな。


 元カレと別れてから、それまで以上に恋愛が怖くなった。隼人と付き合ってからは、いつかこの幸せが壊れるのかと怖くなった。けれどやっぱりね、覚悟していても別れ話は辛いな。隼人は、隼人は……。


「来年の四月から、転勤しなきゃいけなくなるかも」


 隼人の口から紡がれたその言葉は、私の予想の斜め上をいくものだった。





 背後から右耳にキスを落とされた。そのまま左耳、右頬、左頬とついばむようなキスをされる。続けて首筋にキスを落とされると、思わず体がピクリと動いてしまう。そんな些細な変化に気付いたのか、隼人は首をペロリとめた。舌の柔らかく温かい感触がくすぐったい。


 あごが右肩に乗せられた。私を抱きしめる腕はそのまま。布越しに伝わってくる体温が隼人の気持ちを伝えているようで。その熱に反応してか、私の体も燃えるように熱い。体の熱は誤魔化せないのに、隼人は急に動きを止める。


 どうしたんだろう。というか、転勤の一言で片付けないでその詳細を話してよ。私は一応恋人なんだから、話の詳細を知る権利があるよね。中途半端に行為を止めないでよ、虚しくなる。ついに我慢出来なくなって、口を開いた。


「続けるか話すかにしてよ。やましくないなら、話せるでしょ?」

「話せるけど、話したくない。話すのに、心構えが、必要なんだ」

「心構え?」

「……ごめん、ちょっと、顔、見ないでくれる?」


 背中越しに聞こえる涙声。顎が右肩から離れる感触と共に、ズルズルと鼻をすする音が聞こえた。もしかして隼人、泣いてるの、かな。心構えってなんだろう。何があったんだろう。私は、隼人の話を聞きたい。何かできることがあればしたい。隼人の力になりたいのに。


 涙声を聞くのも、顔を見ないように言われるのも、今日が初めてだ。これまではこんなことなかった。嫌いな雷の音がしたって、涙目にはなるけど泣きはしなくて。やっぱり今日の隼人はどこかおかしいよ。転勤が、関係してるのかな。


 隼人の両腕が私から離れていく。お願い、その腕を離さないで。もう少しこうして体をくっつけていたい。隼人の体が遠のいたからか、冷たい空気が体にまとわりつく。さっきまでの行為との落差で、凍えそうなくらい寒く感じてしまう。


「何がら話ぜば、いいんだろうね。俺、今日、ダメだ」


 隼人の涙声をただ聞くことなんて出来なかった。体を反転させて隼人の方を見る。隼人は顔をゆでダコみたいに赤くして、溢れんばかりの涙を流している。流した涙が枕カバーを濡らしていく。そんな弱いところを見て、これ以上放っておけなくなった。


 今度は私から隼人の体を抱きしめる。背中に右手を回して、優しくさすってみる。左手は寝癖のついた黒髪を撫でる。「一人じゃないよ」って伝えたかったけれど、今は声をかけることが出来ない。きっと声をかけたら、今以上に泣いてしまう気がしたから。


 強くいなきゃ、泣いちゃダメだ。私まで隼人につられたら、隼人が苦しくなる。そう思って必死に抵抗してみるけれど、息が止まりそう。今度は私が隼人を支える番なのに、どうして私はこんなに弱いんだろう。


「…………俺の夢は、二つあるんだ。一つは、家庭を持つこと。もう一つは……出世して、社内の地位を上げること。出来れば、ずっと憧れていた部署に行って、やりたかった仕事に携わりたい」


 隼人が泣き止んでから言葉を発するまで、やけに長く感じた。ようやく語り始めたのは隼人の夢。家庭を持ちたい気持ちも、出世欲も、どちらも人として持っていておかしくない夢。なのにどうして、泣きそうな顔で話すんだろう。


 私からはあえて、何も聞かない。隼人が自分から話すまでじっと待つ。それが今、一番良い選択のように思えたんだ。私はいくらでも待つよ。だから、ゆっくりでいい。隼人のペースで、私に事情を説明して。一人で抱え込ませるなんてこと、許さない。

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