君の夢を叶えたい

 隼人はやとが泣いているところを初めて見た。泣きながら話し始めた言葉を、私はただ聞くことしか出来ないの。ひとまず浮気話とかじゃないと知って少し安心はしたけれど。私に抱きつかれたままの隼人は、少し困った顔を浮かべる。


「俺の会社、さ。出世するには、海外出張、しなきゃいけないんた。出世しなくても、転勤があるんだけどね」


 隼人の職業は知ってる。営業職で転勤ありきの仕事だってことも。何年かに一度転勤するけれど、転勤頻度は誰にもわからない。会社の人に言われるまで、いつ転勤するのかもわからないらしい。


 隼人の会社は、出世することで営業職から様々な部門に異動することが出来る。管理職や内勤はもちろん、営業職の中での出世も出来る。実際に出世出来るのは一握りしかいないそうだけれど。


「俺には、行きたい部署がある。そこの部署に行くと、今より安定した、転勤や出張の少ない仕事が出来る。何より、俺の一番やりたい仕事が出来るんだ。その部署に行くために、わざわざ同じ会社の営業職に入った。それで、毎年人事部に申請を出してたんだ」


 会社の詳しいことは聞けない。けれど、隼人が今後のことを考えてなのか部署を異動したいってことはわかる。となれば、その先に続く言葉もなんとなく想像がつく。


「先日言われたんだ。本気でその部署に行きたいなら、海外に出張しろって。行かないなら、転勤の方向で話を進めるって」

「それって……」

「来年の四月には、転勤か海外出張になる。そしたら、今みたいに美穂みほさんに会うことも、出来なくなるんだ」


 そこまで聞いてようやく、隼人の「ごめん」の意味を正確に理解した。隼人は来年の四月から、この街にいなくなるんだ。それは私と隼人が遠距離恋愛になることを意味していて、今ほど頻繁には会えなくなる。だから「ごめん」なんだ。


 国内のどこかに飛ばされるか、海を渡った先の国外か。どこに行ってもいいよ。私は、隼人を信じて待つから。何年でもいい、休日に少しでも会えれば……。だって、全く会えなくなるわけじゃ、ないんでしょ。


「俺、どうしたらいいんだろう。場合によっては、美穂さんを一人にしちゃうかもしれない。ごめん。ごめんね、美穂さん」


 隼人は今、転勤か海外出張かで迷ってる。どっちになっても私と遠距離になることに変わりない。あとは来年以降の仕事先が日本か海外かの違い。どれくらいで戻って来られるのかはきっと、隼人にも分からない。


 隼人は不安なんだと思う。今いる街から離れることも、私と遠距離になってしまうことも。考えて考えて、それが今日の雰囲気の違いに繋がってるんだ。だからって、物理的に距離を空けなくてもいいと思うんだけどな。


 物理的に離れられたら、何かやましい事があるのかと誤解してしまう。転勤か、海外出張か。どう転んでも、隼人にとっては喜ぶべきことなんじゃないのかな。だって、出世のための第一歩を踏み出したようなものじゃない。





 隼人の言葉を聞いた私は、抱きしめる力を少し強めた。「大丈夫だよ」の言葉の代わりに、隼人の唇を奪ってみせる。どんな言葉もありきたりでどこか虚しい。だから、言葉と思いを行動にして、その熱を伝える。


 隼人が私の接吻くちづけに応えた。でも隼人の顔は涙で濡れていて、キスは少ししょっぱい味がする。頬を伝う涙を舌で優しく拭うと、その両目からはさらに涙が溢れてくる。


 そんなに泣かないでよ。私まで泣きたくなってしまうから。ねぇ、泣き止んで。泣くのをやめて私を見て。そして、隼人の選んだ答えを聞かせてよ。私はもう、どんな結末でも冷静に聞くことが出来るから。隼人がどっちを選んでも責めたりしないから。


「今まで付き合った人はいる。でも、美穂さんほど愛した人はいなかった。だから、迷ってるんだ」

「迷う?」

「転勤になってもいいから、美穂さんと一緒になる。それか、夢を追いかけて海外出張して、将来の安定性を取る。俺にはどっちの夢も大切だから、選べない」


 嘘つき。本当に選べないなら、そんな苦しそうな表情しないよね。隼人は感情が顔に出やすい。何かに迷っている時は、眉をしかめてうつむきがちになるんだ。泣きそうになる時は決まって、何かを決断した時が多いの。


 付き合ってから、隼人の色んな表情を見てきた。だからわかる。隼人が涙した本当の理由も、隼人が何を選んだのかも。それでも嘘をついて私に尋ねる。私は……なんて答えたらいいんだろう。


「美穂さんの夢は、知ってる。結婚して家庭を持ちたいんだよね」


 それは、付き合ってから一度だけ話した私の夢。私は好きな人と家族になりたいし、出来れば好きな人との間に子供も授かりたい。それは変えられない夢、思い。でも、隼人がそれを口にするとその意味が少し変わる。


 隼人が迷ってる理由は私が話した夢にあるんだ。私の夢を叶えるか、自分の出世を叶えるかで迷ってるんだ。海外出張に行ったら、何年後に帰ってくるのかわからないから。私のせいで、隼人の夢まで犠牲にしてほしくないよ。


 嘘、つかなくていいよ。優しい言葉をかけなくていいよ。こんな時まで私に気を遣わなくていいんだよ。私が本当の気持ちを答えたら、あなたは夢を諦めるつもりなんでしょ。そんなことをしたら絶対いつか、後悔する日が来る。だから、こんな大切なことまで私を優先しなくていい。


「隼人の中では、もう答えは決まってるんじゃないの?」


 言うかどうか悩んだけど、ついに思っていたことを口にする。尋ねてみれば、隼人の目が一瞬見開かれた。困ったように口を少し尖らせて俯く。ほら、やっぱり。隼人の中ではしたい選択が決まっているんだ。そんな隼人をここまで悩ませるのは、私なんだ。


「海外出張に行きたいから、泣いてるんでしょ? 隼人を困らせてるのは、私の存在なんでしょ?」


 隼人の反応を見てさらに言葉を続ける。私の言葉を聞いた隼人は、涙を流したまま私の胸に顔をうずめてしまった。ほら、これがあなたの答えなんだ。私の目は誤魔化せないよ。あなたがそれを望むなら、私に出来ることはもう決まってる。

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