手帳に書いた文字

 玄関の傘立てには何本もの長傘が納められている。そのほとんどはデザインや色が好みだからとお店で買った長傘だ。そんな傘立ての中に一本だけ、傘布に色も柄もないただのビニール傘がある。これだけは私が買った物じゃない。


 ビニール傘はあまり好きじゃなかった。ビニール傘を使うと、第三者に「傘を忘れた人」だと思われそうだから。変なプライドから「絶対に使うものか」なんて思っていたくらい。けれどそれはほんの四日前までの話。我が家に一本だけあるビニール傘が、私の考えを変えてくれた。


 あの雪の日は切羽詰まっていた。別れ話もそうだったけど、衝動的に行動したら持ち歩いていた長傘を喫茶店に忘れてしまって。最寄り駅から長傘が買えるお店までは少し距離があるから、仕方なくビニール傘を買い求めた。結局駅近くの売店ではどこもビニール傘が売り切れていたけれど。


 家にある唯一のビニール傘は、雪の日に傘を忘れて困っている私に渡されたものだった。嫌っていたはずのビニール傘に、私は身も心も救われたんだ。さらには、何の躊躇ためらいもなくビニール傘を渡してくれた男性に、かれてしまった。


 また会えないかなと思っていたら今日、本当に会えたの。夕方から降り始めた雨に困っていたに遭遇して、折りたたみ傘を貸したんだ。そしてその時に、メッセージアプリのアカウント――連絡先を手に入れてしまった。


 今日の出来事を思い出しただけで自然と顔がニヤけてしまう。こんなの、四日前に彼氏と別れた人のする顔じゃないよね。私が一番驚いてる。彼氏と付き合っていた時、こんなふうに思い出しただけでニヤけることなんてなかった。


 一人だけの部屋でメッセージアプリを立ち上げる。「新しい友だち」のページを開けば、そこには青空と雲の綺麗な風景写真で出来たアイコンが表示されている。アイコンの隣には「たちばな隼人はやと」の名前があった。ぼんやりアイコンを眺めていると、急にスマホの画面が切り替わる。


 深呼吸をしてから液晶を見ると、着信画面が開かれていた。しかも電話の発信者は「橘隼人」。今日私が折りたたみ傘を貸した人だ。そう気付いた瞬間に応答ボタンを押して、スマホを耳に近付ける。


「もしもし、北川きたがわ美穂みほさんの電話で間違いないですか?」

「合ってますよ。むしろ、メッセージアプリを経由してかけてるのに間違ってたら大問題です」

「そうですよね。あ、名乗るのを忘れました。橘隼人です。今日は折りたたみ傘をありがとうございました。ひとまずお礼をと思いまして……」


 電話が来たってことは、もう家に着いたのかな。わざわざお礼を言うためだけに電話をするなんて、律儀な人。少なくとも私には出来なかったな。元カレへの負の感情を引きずっていたあの日。私は、あなたの連絡先を聞く余裕なんてなかった。


 ビニール傘を貰うことが精一杯で、連絡先なんて聞けなかったんだ。連絡先を聞くより先に、彼もその場から立ち去ってしまったし。あの時のビニール傘は今も返せずにそのまま所有物にしてしまっている。


「あの、先日はビニール傘、ありがとうございました」

「いえいえ、気にしないでください。おかげで僕も、傘を二本も持ち歩かずにすみました。あの日以来、傘を買う前に確認するようにしましたよ」

「そうなんですか。私はあの日以来、折りたたみ傘を可能なら二本持ち歩くようにしています」

「今日もそれ、言っていましたね」


 この人、駅で話したちょっとした会話の内容も覚えているんだ。私なら、ちょっと会ったくらいのどうでもいい人との会話は忘れちゃうな。その記憶力に驚かされて、嬉しくなった。覚えている会話が私だけならいいのに。


 きっとこういう頭の回る人は、どうでもいい会話も全部覚えてるんだ。私なんかとは頭の良さが違うから。私だけがあの人の特別だったらどんなに嬉しいだろう。そんな小説やドラマに出てきそうなラブロマンスなんて、現実には起きないってわかっているんだけどね。





 手帳を用意して、電話で互いのスケジュールを確認する。あくまで折りたたみ傘を手渡しで返してもらうため。やましいことは何も無い。そうわかっていても少し意識してしまうのは、隼人が異性だから、なのかな。話し合って会う日程を決める。けれど……。


「まだ確実なことは言えませんが、僕、土日に仕事が入る可能性があるんです。なので、もし会えそうになかったら前日までに必ず連絡するようにします。念の為に駅で待ち合わせてもいいですか」

「駅、ですか?」

「ええ。僕が傘をお借りしたあの駅の改札口前で。そこなら、急な仕事が入っても間に合うと思うので」

「そんなに忙しいんですか?」

「いえ、そういうわけではないんですよ。今がちょっと忙しい時期なだけです」


 土日は普通、休みだよね。確かに週六勤務の会社もあるかとしれないけど、それでも普通は日曜日が休みだと思う。土日が仕事ならその代わりに平日が休みになるだろうし。一体どんな仕事をしているんだろう。


「では、失礼します」

「おやすみなさい」


 必要な要件を伝えられると電話が切れた。通話の終了を知らせるビジートーンが耳元で虚しく響く。スマホの画面を操作して見慣れたホーム画面を表示すると、手帳に書いたばかりの文字を眺める。


 私にしては無駄に丁寧に書かれた文字。予定をどう表現するか迷った末に、知恵を絞って出した単語だった。事情を知らない人がこの手帳を見れば、ほとんどの人が誤解するんじゃないかな。だって、手帳にやけに丁寧に書かれた予定のタイトルは「デート」なんだもの。


 デートの意味は確か、誰かと日時や場所を決めて会うこと、だものね。最近じゃ同性同士とか友だち同士でも使う言葉だし。うん、間違ってはいない。でも、「デート」か。


 「デート」の単語で真っ先に思い浮かぶのは、歴代の彼氏達との交際。別れ方は様々だったけど、先日別れた彼氏がなんだかんだ言って最悪な別れ方だったな。思い出しただけでイライラしてくる。


 隼人と会うのは浮気なんかじゃない。私はもう、彼氏と別れてるもの。隼人と一緒にいるのを見られたからって困ることは何もない。堂々としていいんだ。でも、せっかくだから少しくらいオシャレでもしていこうかな。

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