君に笑顔を

 映画館でイチャつくカップルは、運が悪いことに私の斜め後ろの席にいた。宏光ひろみつが彼女と思われる女性にベタベタと甘えている。肩に頭を乗せたり、抱きついたり、キスをしたり。その一つ一つに苛立ってしまうのは、この前のことがあったからかな。


 ついこの間まで、私も似たようなことをしてたんだ。宏光が浮気を告白する瞬間までは。浮気してるなんて思わなかったし、宏光といる時間は砂糖菓子みたいに甘くて、つい夢中になった。もう二十代後半だからって結婚も視野に入れてたんだ。今思うと本当にバカバカしいことだけど。


 別に宏光が誰と付き合っていても関係ないの。気になるのは、私と別れてから二週間くらいしか経過してないこと。それなのにこんなに親密な関係を築いてる。その時点で、新しい彼女ではないなと察した。となれば考えられる答えは限られていて。


 宏光が言ってた妊娠させた浮気相手なのか、はたまたその子とは別に作っていた浮気相手なのか。その真相を私が知ることは、きっとない。別に知りたくもない。出来ることならあの顔すら見たくなかった。


 ふいにカップルが動きを止めた。彼女の方を見ていたはずの宏光と、何故か目が合う。もしかして、私ってバレたのかな。でも、わかったところで動けない、よね。だって今、宏光はデート中なんだもの。私とはとっくに別れているんだから、互いがどうしていようと関係ない。


 心の中ではそう強く思っているけど、実際は違う。宏光の顔を見るだけで、懐かしい思い出が蘇る。責めるような冷たい眼差しが辛い。あの時「やり直したい」って言っていたら、あの女性の席には私がいたのかな。ううん、あんな奴と一緒に映画なんて、嫌だ。


美穂みほさん、どうかした? 眉間にシワが寄ってるよ?」


 宏光から目が離せない私を現実に引き戻したのは、隼人はやとの言葉だった。宏光の姿を見て、雪の日の出来事を思い出してたんだ。隼人が私の視線の先を目で追い、その先に何があるかに気づいた。宏光と隼人の視線が

空中で交わる。


「知り合い?」

「ううん、元カレ。隼人さんにビニール傘を貰った日に別れた、最低な人」

「……場所変える?」

「ううん、大丈夫」


 隼人は私の簡潔な説明で何かがあったことを察したみたい。そういえば私、隼人にビニール傘を貰った時、泣いてたっけ。雪の日なのに傘も持たないで改札口付近で泣いていたら、さすがに怪しまれるもんね。


 宏光とやり直さなかったこと、後悔してないよ。実際は二股じゃなくて三股四股くらいしてたんじゃないかな。そうじゃなくても、やり直したところでまた浮気されるのが目に見えてる。だって宏光は、謝れば許されると思ってるから。謝っても、失われた信頼はそう簡単に戻らないのにね。





「なるほど。それであの日、泣いていたんだ」

「逆にどうして泣いてると思ったの?」

「電車の中に傘を忘れて、止みそうにない雪を見てショックを受けたのかなって思ってた」

「その程度じゃ泣かないわよ」


 映画を観終えた後、隼人に連れられて映画館近くの喫茶店に入った。映画の感想を話すためだったはずなのに、いつの間にか映画館で遭遇した宏光の話になっていて。なんでだろう。気がつけば、宏光との間に起きた出来事を隼人に話していた。


 隼人と会うのは今日が三回目だけど。まともに話すのは今日が初めてだけど。不思議なくらい、話しやすいんだ。もしかしたら、私と宏光のことを知らない赤の他人だから、なのかも。隼人に宏光と別れた経緯いきさつを話しただけで、心が少し軽くなる。


 人は悩みを誰かに話すと楽になる、なんてよく言われるけどあながち間違ってないのかもしれない。話す相手を選ぶ必要があるけれど、たしかに人に打ち明けただけで心が晴れやかになる。隼人が相手だから、なのかな。


「あれ、じゃあその時忘れた傘はどうなったの?」

「気になるところ、そこなの?」

「だって、喫茶店に置いたまま出てきたんでしょ? 傘、いつか取りに行かなきゃね。それとも、もう警察に届けられたりしてるのかな」

「知らないわよ、もう!」


 言われてみれば確かにそうね。あの雪の日に喫茶店に置いたままだった傘はどうなったんだろう。宏光のことで頭が一杯だったから、そこまで気が回らなかった。あの日持っていた長傘は、大好きなアイスブルーの傘だった。それを隼人に言われるまですっかり忘れていたのもどうかと思うけど。


 だってお気に入りの傘とか関係なかったもの。いきなり別れ話をされるし、その理由も理由だし。傘を忘れたことは覚えていたけれど、その傘を取りに行こうって発想はなかった。家に帰れば長傘がたくさんあるっていうのも、傘を取りに行くことを忘れていた理由なんだと思う。


「あ、やっと笑った」

「どういうこと?」

「美穂さん、映画館で知り合いに会ってから、ずっとしかめっ面してたんですよ。なんとかしてもう一度笑わせたいなって思って」

「そうだったんだ……」

「美穂さんは笑ってた方がいいと思う。俺、美穂さんの笑顔、好きだな」


 隼人に言われるまで気付かなかった。宏光に会ってからしかめっ面してたんだ、私。というか、どうして隼人はそこに気付いたんだろう。それに今、変な言葉を聞いた気がする。笑顔が好きって聞こえたような……。


 隼人の言葉に、初心うぶな若者の頃のように頬に熱が集まるのを感じた。顔、赤くなってないといいんだけど。隼人の前だと、少し油断するとすぐにこうなる。胸の高鳴りが止まらないんだ。どうしてなんだろう。


「そういうことは、好きな人のためにとっておいたら?」


 お冷で喉を潤してから、必死に強がってみる。男性の言葉は信じちゃダメだって自分に言い聞かせる。宏光みたいに嘘を吐いているだけかもしれない。信じて後悔するのは私なんだ。後悔するくらいなら、最初から信じない方が楽だし、もう恋愛はしない。あの雪の日に、そう決めた。


「美穂さん。そんなこと言ってるけど、顔赤いですよ?」

「け、敬語はやめなさい」

「美穂さんも戻ってる」


 他愛もないやりとりで時間があっという間に過ぎていく。異性とこんなふうに楽しく話したのはいつ以来だろう。少なくとも宏光とは、こんなふうに楽しく話すことはなかった。嫌われないように気を使ってたわけじゃないけど、隼人ほどは話が盛り上がらなかったっけ。


 恋人同士でもないのに、些細な会話で笑い合う。隼人との会話は私にとって、とても心地よかったんだ。このまま時が止まってしまえばいいのに。このままずっと隼人と話していたい。そんな、叶うはずのない願いを胸の内でそっと呟いた。

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