送れなかった言葉
帰宅して、スマホの液晶画面と向き合う。開かれているのはメッセージアプリ。個別のトーク画面を開いて、文字を打とうとしてる。けれど打っては消してを繰り返して、なかなか送信ボタンを押すまでに至らない。
目を閉じれば思い出せる。公園で、元カレ相手に淡々と言葉を紡ぐその姿を。普段は髪に寝癖が付いてたり、うっかり傘を二本買ってしまったり、折りたたみ傘を持ってくることを忘れたり。カッコイイというよりどこか抜けてるイメージの強い
駅で困っている私にビニール傘をくれたあの優しさは本物で。映画館でどんなに拒否しようとしても
「今日はありがとう。今まで迷惑かけてごめんね。もう大丈夫だから」
打ちかけた文字を慌てて全部消す。最適な文面が浮かばない。思いつくままに文字を打っても、内容に違和感があって消してしまう。たった一つメッセージを送るだけでかなり時間が経っちゃったな。
いつからか隼人の存在が大きくなりすぎて、私の心を圧迫するようになったの。だからこそ、これ以上関わることで今までの関係が壊れてしまうなら……自分から別れを告げてしまいたい。離れて、一時の思い出で満足していたい。
なんとなくわかる。これ以上仲良くなったら、元には戻れなくなる。今だって、一緒にいるだけで胸の高鳴りを抑えきれない。声を聞くだけで体がふわふわと浮いたような感じがする。隼人と一緒にいると感じる甘い匂いは、私の理性を溶かしてしまいそう。
何もしてない時だって、隼人のことを考えてしまうの。寝癖がついてないか、傘をちゃんと持ってるか心配してしまう。私以外の誰かに同じようなことをしてないか、気になってしまう。別に隼人は私の恋人ってわけではないのに。
愛なんて信じていない、つもりだった。実際、今までに出会った彼氏とは色んな別れ方をした。いつの間にか愛情が消えてしまったり、相手が浮気したり、犯罪をやらかして捕まったり。極めつけは先日の浮気相手妊娠騒動。それまでの恋愛から「永遠なる愛なんて存在しない」って学んだつもりだった。なのに……。
私はずっと「結婚」を夢見て、色んな人と付き合っては別れてきた。だけど今ならわかる。夢への道標は、いつだって私の中にあったんだ。今感じてる愛おしさが、夢を叶えるために必要なことだったんだ。だけどそれはもうおしまい。これ以上一緒にいたら、また迷惑をかけてしまうから。
隼人といると、心を抑えつける
玄関にある傘立てを見た。たくさんある傘のうち二本だけ、異質なものが紛れてる。他の傘は柄や色がついていて見た目も華やかだ。なのにその二本だけは、柄も色もついていないただのビニール傘なんだ。私には似たような二本のビニール傘の区別がつく。
留め具が白いビニール傘は、いつかの雪の日に隼人から貰ったビニール傘。このビニール傘がなかったらきっと、隼人と知り合うことなんてなかったと思う。ビニール傘をきっかけに相手のことを少しだけ覚えていて、その数日後に別件で連絡先を交換したんだもの。間違ってはいないはず。
もう一つのビニール傘は留め具が黒い。これは元カレへの対処法を話した帰りに、喫茶店で一緒に購入した物。あの日はスカートに水をこぼして恥ずかしかったな。喫茶店を出る時にはゲリラ豪雨になっていて、ひどい雷と雨の中を二人で駅まで全力疾走したっけ。
隼人との思い出はいつでもすぐに思い出せる。顔見知りになった経緯が特殊だからこんなにも苦しいのかな。ううん、違うよね。この感覚は「恋愛感情」に近いもの。きっともう一度会えばその時には、隼人との恋に
本当はもう少し前にこの関係を終わらせるつもりだった。折りたたみ傘を返してもらって、それで終わるはずの関係だった。元カレの一件で協力してもらううちに、いつからか別れの言葉を切り出せなくなっていただけなんだ。だから今日こそ、言わなくちゃ。
「こんばんは。今日帰る時ぼーっとしてたけど大丈夫? もしこのメッセージに気付いたら返事をください」
別れの言葉に迷う間に、隼人からチャットが来てしまった。別れを切り出す言葉について考えるのを一旦やめた。まずは返事をしなきゃいけないもの。返事を送ればすぐに既読がつく。
今、同じチャット画面を開いているんだ。そんな些細な偶然に心臓の鼓動が速くなる。暖房をつけているわけでも、厚着をしているわけでもない。なのに何故か、体が少しだけ熱くなる。
「無事でよかった」
無事に決まってる。だって隼人は、マンションのエントランスまで私のことを送ってくれたんだもの。これで何かあったらそれは、マンションのセキュリティの問題になると思う。無駄に安全性の高いマンションも、こういう時には役に立つ。
やっぱりもう一度会いたい。一回と言わず何度でも会いたい。あの声を聞きたくて、あの匂いを嗅ぎたくて、あの温もりを感じたくて。願わくばもう一度、今日みたいに少しだけ甘えたい。そう思ってしまう私はもう、恋に落ちてしまっているのかもしれない。
もし恋仲になれたら、今日みたいに甘えることが許されるのかな。弱い私を見せても平気なのかな。堂々と隣に立って、凛と前を向いて歩けるのかな。私が別れを告げなければ、今の関係はずっと続くのかな。
隼人もいつか浮気とかをして私から離れてしまうに違いない。その可能性を捨てきれない。いつか離れてしまうなら、深い関係になる前に自然消滅してしまった方が楽になれる。
私は勇気のない臆病者だ。別れの言葉一つ、愛の言葉一つ、自分から言えない。離れたくない。けれどいつか別れてしまうなら、今離れた方が傷が少ない。そうやって同じ考えの中を行ったりきたりしてるんだ。
結局別れを意味する言葉は、隼人に送ることが出来なくて。時間だけがただ過ぎていった――。
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