美樹八歳、その場にいなくても傍迷惑

 和真の背後を通りかかった吉川は、彼の机の上に置いてあった、復元した手紙を入れてあるクリアファイルを認めて、思わず足を止めた。


「ほう?」

「何ですか、部長?」

 背後から聞こえた興味深げな声に、和真が思わず仕事の手を止めて座ったまま振り返る。すると吉川は、件のクリアファイルを指差しながら、苦笑まじりに言い出した。


「いや、さすがの君も、女の涙には勝てないようだなと思ってね」

 それを聞いた和真の顔が、忽ち渋面になる。

「“あれ”を女で括るとは、部長は目が腐っていますね」

 しかしそんな憎まれ口を、吉川は飄々と受け流した。


「そうか。それならさっさとリタイアして、君に部長の席を譲るとするか」

「冗談ではありません。部長補佐でも事務処理が多くて現場に出る事が格段に少なくなったのに、どうして部長なんぞにならないといけないんですか。管理職なんて年寄りの仕事です」

「だが実際問題として、君より年上のめぼしい者達に『小野塚の上役にはなりたくない。部下の方がまだマシです』と悉く断られていてね」

 そう言われてしまった和真は、盛大に舌打ちした。


「……年だけ食ってる根性無しどもが」

 そこで何故か部屋の出入り口の付近から、社員達のざわめきが伝わってくる。


「社長? どうしてこんな中途半端な時間に?」

「どうかされたんですか?」

「今日、こちらにいらっしゃる予定でもありましたか?」

 それを耳にした吉川と和真も目を向けると、確かに秀明がドア付近に立っており、何故か屈んで手にしていた鞄を床に置いたところだった。


「うん? どうして社長が?」

「今日は特に、重要な議題を話し合う会議とかもありませんでしたよね?」

「ああ、副社長から、社長に提出する資料とかの請求も無かったが」

 思わず顔を見合わせて確認を入れた二人だったが、ここで彼らの部下達が悲鳴じみた声を上げた。


「え? あの、社長!?」

「何をやってるんですか!?」

 その声に、和真達が再び秀明に視線を向けると、彼は全く悪びれずにとんでもない事を言い出した。


「見て分からないか? 即席の火炎瓶だ。あり合わせの物で、急遽作ってきた」

「そうじゃなくてですね!」

「どうしてそんな物を事も無げにビジネスバッグから取り出した挙げ句、ライターまで手にしているのか聞いてるんです!」

「今から使うからに決まっている」

「……何をやってるんですか、あの人は?」

「俺に聞くな」

 秀明が手にしているガラス瓶を、和真達が呆気に取られて見ていると、そこで一気に事態が悪化した。


「って!? この人、言いながら火を点けたぞ!!」

「駄目だ、完全にイカレてる!! 全員逃げろ!!」

「逃げろって、どこに!?」

 出入り口付近に秀明が陣取っている為、逃げるに逃げられない社員達はまさにパニック状態になったが、秀明は更に周囲を驚愕させる行動に出た。


「くたばれ、小野塚あぁぁーーーーっ!!」

「ひいぃぃっ!!」

「本当に投げたぞ!」

「部長! 危ない!!」

「ぐわぁっ!!」

 最初から標的は和真だったらしく、秀明は火を点けた火炎瓶を、和真めがけて放り投げた。と同時に勢い良く立ち上がった和真は、力一杯吉川を突き飛ばしながら、自身も床に転がって火炎瓶の直撃を回避する。

 しかし打ち所が悪かったのか、床と壁際に設置してあるロッカーの角で頭を強打した吉川は、気絶してピクリとも動かなくなった。


「うわぁあぁぁっ!!」

「炎上したぞ!」

「狼狽えるな!! スプリンクラーだけじゃ駄目だ! ビル内の消火器を、ありったけかき集めろ!! それから部長を、安全な所に避難させろ!」

「はっ、はい!」

 火炎瓶の直撃を受けた和真の机を中心に、炎が一気に天井付近まで燃え上がった為、瞬時に火災警報とスプリンクラーが作動した。そして狼狽する部下達を叱責しながら指示を出した和真に、秀明が無表情で歩み寄って来る。


「社長! あんた何をやらかして、ぐはっ!」

「部長補佐!!」

「社長! 何をするんですか!?」

 さすがに非難しようとした和真だったが、秀明は彼を問答無用で殴り倒し、周囲の者は皆、度肝を抜かれた。そして二人の付近だけが不気味に静まり返る中、秀明が恫喝する声が響く。


「貴様……、俺の娘に何をした……」

「はぁ?」

「これまで仕事中と分かっている時間に、電話など一度もかけてこなかった美樹が、大泣きしながら電話をかけてきたぞ」

 それを聞いた社員達は、青い顔を見合わせながら無言を保ち、和真は痛みで僅かに顔をしかめながら、静かに問い返した。


「……因みに美樹さんは、社長に何と言ったんですか?」

「『公社で和真に酷い事をされた。性格が悪いのは分かってたけど、あそこまで品性下劣な人間だとは思わなかった』と号泣して、後は話にならん。貴様、美樹の可愛さに目がくらんで、手を出しやがったのか!?」

 完全に血迷った感の秀明の叫びに、和真の忍耐が容易くぶち切れた。


「目がくらんでんのはあんただろ!? あの性悪娘を可愛いとか真顔で言いやがって、どっからどう見ても阿呆じゃねぇか!!」

「自分の言う事を聞かなかったら、今度は罵倒するのか! 貴様の性格がねじ曲がっているのは分かっていたが、まさかロリコンだったとはな!? この屑野郎が!!」

「ぐはっ!」

 そして掴みかかるかと思いきや、秀明が和真を再度殴り倒した為、周囲の者は慌てふためいた。


「ひいぃっ!!」

「部長補佐!!」

「だっ、誰か防犯警備部門から応援を呼んでこい!!」

「それより、副社長と会長に連絡しろ!!」

 そして当然、殴られっぱなしで終わる和真では無く、素早く立ち上がりながら秀明のすねを手加減無しに蹴りつける。


「ちっとは他人の話を聞けや!! このろくでなしど阿呆がっ!!」

「ぐぁっ……。てめぇ、やる気か!? それなら徹底的にぶちのめしてやる!!」

「それはこっちの台詞だ!!」

 忽ち二人は本気の乱闘に突入し、周囲には悲鳴と怒号が入り交じった。


「あんたら、この状況下で殴り合いなんかするな!!」

「取り敢えず、部長を外に運び出せ! 下手すると延焼するぞ!」

「ああっ!! 俺のPC!」

「諦めろ! バックアップは取ってるんだろ!?」

「だが今纏めているデータや、紙媒体の資料が!!」

 そして数多くの人間を巻き込み、無視できない被害と損害を出した上で、二人は騒動を聞いて飛んできた副社長の金田によって、副社長室へと強制連行された。


「お前ら!! 仮にも神聖な職場で、何やらかしてくれとるんじゃ!?」

「…………」

 普段は穏やかな紳士風の表情を崩さない金田が、机の上のスタンドを一つ叩き壊しながら激高しているのを見て、秀明と和真は神妙に床に正座しながら、無言を保った。


「社長!! 確かにここは便宜上、あんたの支配下にある組織だがな!! 何でも好きな様にして良いわけじゃねぇぞ! 四十男が無分別な馬鹿やってんじゃねぇ!!」

「…………」

「小野塚!! 貴様も貴様だ! そもそもは美樹様宛ての手紙の内容に腹が立ったとは言え、目の前で破り捨てるとは何事だ!? てめぇ、何様のつもりだ!!」

「…………」

 二人とも面白く無さそうな顔付きで黙り込み、金田が更に怒鳴りつけようとしたところで、ノックの音に続いて、彼の秘書の寺島が入室して来た。


「副社長、その位で。血圧が上がります」

「寺島、呼んでねぇぞ! すっこんでろ!」

 しかし直属の上司の恫喝などなんのその。寺島は手元のファイルを捲りながら、淡々と報告した。


「そうはいきません。取り敢えず、現状報告だけさせて頂きます。被害状況を確認した所、判明した分だけでも使用不可能になった机が四台、PCが三台、椅子が五脚。負傷者四名。うち吉川部長に関しては、火炎瓶を回避した折に床とロッカーの角で頭を強打して脳震盪を起こした上、飛んできた椅子が直撃したなどで打撲が五カ所認められ、念の為三日程入院治療となりました」

「…………」

 すかさず金田が冷え切った視線を向けてきた為、秀明と和真はそれから視線を逸らした。


「加えて消失したり、破損したデータに関しては、再調査したり復元するのに、どれだけの手間暇と費用がかかるのか、現時点では分かりません。それを踏まえまして、両者に被害総額を折半して負担して頂く他に、それなりのペナルティーを受けて頂くべきかと愚考致しまして」

 そう言いながら静かにファイルを閉じた寺島が、穏やかに微笑みながら提案してきた為、金田は若干興味をそそられた様に尋ねた。


「ほう? どういうペナルティーだ?」

「社長に関しては現場の写真付きで、先程会長に、ありのままをご報告致しました」

「おい!?」

 サラッと口にした内容を聞いて秀明が顔色を変えたが、寺島は事も無げに話を続ける。

「会長が美樹様に詳細を聞いた上で、そろそろ社長にご連絡が入る頃合いではないかと思いますが」

 そう言い終わるや否や秀明のスマホが、場違いに明るいメロディーを奏でながら着信を知らせ、彼は慌てて立ち上がり、壁際に寄ってぼそぼそと通話を始めた。

 それを横目で見てから、寺島は和真に向き直る。


「それで小野塚部長補佐に関しては、吉川部長が意識を回復してから『ここ暫く心労が重なっていた為、退院後に長期の有給休暇取得をしたい』との申し出がありました。その間、部長代行を小野塚さんにお願いしたいと。ついでにそのまま部長になって頂いても宜しいかと」

「ちょっと待て!」

「なるほど、それは妥当な措置だな」

 さすがに狼狽した和真を見ながら、金田は納得した様に頷いたが、そこで寺島の話は終わらなかった。


「それから今回の事を、桜様にご報告致しました」

「桜様に? 加積様がお亡くなりになって日も浅いのに、不愉快な事をお知らせするな」

 忽ち叱責する顔になった金田だったが、寺島は平然と話を続ける。


「そうしましたら、美樹様に関しては桜様が宥めて下さるそうです。何やら方策がおありだと仰っておられたので、そちらの方面の心配は要らないかと推察致します」

「そうか。ご苦労だったな」

「いえ、社内を円滑に回す為には、これ位当然です。社長、会長に呼ばれているのでは? 急いで自宅にお戻りにならないといけないと思いますので、車を手配してあります。すぐに出発できますので、一階に下りて下さい。今夜は家から叩き出されるか、徹夜で説教かもしれませんね」

 ちょうど通話を終わらせてスマホをしまい込んでいる秀明に、寺島が苦笑いしながら声をかけると、秀明は渋面になりながら短く言葉を返した。


「……失礼する」

 そして立ち去る秀明を見送ってから、寺島は和真に視線を向けた。

「それでは小野塚部長代行部長補佐。さっさと現状の後始末と事後処理をお願いします。こんな事で業務を滞らせるわけにはいきませんので。今夜は徹夜で残業決定ですね」

 そんな事を言いながら、嫌みったらしく笑いかけてきた相手を、和真は忌々しげに睨み付けた。


「寺島……」

「何ですか? 賞賛の言葉は惜しむ物ではありませんよ? 遠慮なくどうぞ」

「副社長……、職場に戻りますので、失礼します」

 完全に寺島を無視して和真が部屋を出て行ってから、金田は心底疲れた様に溜め息を吐いた。


「寺島。正確な被害総額を算出してくれ」

「了解しました」

 恭しく寺島が一礼して、なんとかその騒動にけりがついたと思っていた面々だったが、生憎とそうは問屋がおろさなかった。

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