美樹十五歳、伝染する憂鬱と心の傷
実家でとんでもない騒動に遭遇し、疲労感満載で自宅マンションに戻った美恵は、「あれ? 戻るのが早くないか?」と訝しんだ夫に、洗いざらい報告した。
「そんなわけで、今日の父の古稀祝いの場は、微妙過ぎる空気でお開きになったのよ」
愚痴っぽく告げてから、話している間にすっかりぬるくなってしまったお茶を美恵が一気飲みすると、夫の康太は目を丸くして感心したように子供達に尋ねた。
「へえぇ? あのお義兄さんを、美樹ちゃんがねぇ。おっかねぇなぁ……。美樹ちゃんは、そんなに強かったのか?」
「うん、秀明伯父さんが救急車で運ばれて行くところを見たけど、ズタボロだったわ」
「僕、美樹ちゃん達と一緒に送迎の車に乗せて貰って、桜査警公社で訓練させて貰ってるから知ってるけど、無茶苦茶強いよ?」
「ほう? そうか。それは一度、手合わせしたいもんだなぁ……」
安曇と猛の説明に、冒険家という職業柄、年を取ってもそれなりに体力と格闘術を身に付けている康太が思わず本音を口にすると、忽ち美恵の雷が落ちた。
「ちょっと! 何、呑気な事を言ってるの! 何か他に、言う事は無いの!?」
「他に? そう言われてもな………。ああ、そうだ」
少しの間真面目に考え込んだ康太は、なにやら思い付いたらしく、真顔で息子に申し出た。
「猛。俺をぶちのめす時には、もう少し手加減してくれないか?」
「大丈夫。ぶちのめさないから安心して? だってお父さんから奪う物なんか何一つ無いから、そんな事をする必要が無いし」
「それは良かった」
「そうじゃないでしょうが!? あんた達、色々間違ってるわよ!!」
体力格闘馬鹿の夫と息子が、ほっこり和んでいる光景を見て美恵は再び雷を落とし、それを見た安曇は無言で肩を竦めた。
姉と同様に何とも言えない表情で帰宅し、夕飯の準備を整えた美実は、休日にも関わらず事務所に出ていた夫を出迎え、家族揃って夕飯を食べながら実家での騒動を報告した。
「……それでお義兄さんは救急車で搬送されて、そのまま入院になったのよ」
「秀明が……、美樹ちゃんに倒された……、だと?」
あまりの衝撃に
「あ、割れた」
「ご飯、もったいないね」
「あの秀明が……、実の娘に惨敗……。もし俺が、淳実に負かされたりしたら……」
「パパ? 何?」
血の気の無い顔で娘に目を向けた淳は、不思議そうに小首を傾げて問い返してきた淳実を見てから、空いていた左手で両目を覆って涙ぐんだ。
「昔……、あいつとつるんで馬鹿やっていた頃は、あいつを憐れむ事なんて、万が一にも有り得ないと思っていたのに……」
そんな彼の耳に、子供達の無邪気なやり取りが入ってくる。
「美樹お姉ちゃんって、本当に格好良いよね~。淳実、大きくなったら、ああいう人になりたいなぁ~」
「それはなかなか大変だと思うよ?」
そこで淳は血相を変えて箸を放り出し、勢い良く両手をテーブルに付きながら立ち上がって喚いた。
「はぁ!? 何言ってるんだ! 気を確かに持つんだ、淳実! 思いとどまれ!! 俺と年が違わない男と結婚なんて、俺は絶対に許さんぞ!!」
その拍子にテーブル上のご飯茶碗が、ご飯ごと床に落ちて更に砕け、それを見た子供達は冷静にコメントし、美実は慌てて淳を宥めた。
「あ、落ちた」
「ご飯、絶望的だね」
「気を確かに持つのは淳の方でしょう!? 何錯乱してるのよ!」
同じ頃、やはり高須家の夕食の席で、美野は子供達にご飯を食べさせながら、少し困ったように夫に訴えていた。
「……それでね? 解散する時に、美子姉さんに厳命されたのよ。『美樹の挙式と披露宴参加時は、絶対に配偶者同伴で宜しく』って」
「え? どうして配偶者同伴が必須になるんだ?」
優治としては義理の姪の結婚式であれば、夫婦揃って出る事に対して抵抗は無かったが、義理の関係であれば世間的にはそこまで強制されないとは思うがと、疑問に思いながら尋ねると、美野は益々困ったように言葉を継いだ。
「だって……、お義兄さんにしてみれば、娘の結婚相手が自分と年の変わらない男性なのは、腹立たしい事この上ないでしょう? しかも娘に叩きのめされた怒りが上乗せされて、相手や親族の人達を襲撃しかねないと思わない?」
それを聞いた優治は、はっきりと顔を強張らせた。
「結婚式や披露宴で?」
「ええ。それまでは何とか抑えられていても、そこで怒りがぶり返すとか、暴発するとか」
「……そうなるとまさか、義理の叔父の俺達って、荒事回避要員なのか?」
更に顔を青ざめさせながら優治が尋ねたが、ここで美野が表情を明るくして否定してきた。
「大丈夫、安心して? 確かに谷垣さんと小早川さんと城崎さんは、騒動が起きた時にお義兄さんを取り押さえたり排除する要員だけど、あなたは招待客の避難誘導要員だって、美子姉さんが言っていたから」
「そうか……、それなら良いんだ……」
「ええ、だから安心してね?」
笑顔で声をかけた美野だったが、世間一般的なサラリーマンである彼は、乾いた笑いを漏らしながら小さく呟いていた。
「乱闘になったら、俺なんか役に立たないのは分かっているから、それはそれで助かるし、当然の配置なんだが……。最初から頭数に入っていないって、どうなんだろうな……」
「え? あの……、優治さん? 何をぶつぶつ言ってるの?」
美野が首を傾げたが、夫が何を言っていたのかを知る事は無かった。
城崎家では夕飯を食べ終え、遥がお気に入りのアニメを見始めて手がかからなくなったタイミングで、お茶を飲みながら美幸が、実家での一部始終を義行に報告した。
「……それでお義兄さんは、病院送りになったのよ。救急車に乗せられた時、何だか生気のない顔付きになっていて、もう涙無しには見られなかったわ」
美幸が順序立てて話し終えると、自分が在学中は既に大学を卒業していたOBだったのにも関わらず、武道愛好会内で猛威を振るい、学内でも陰で悪逆非道の限りをつくしていた秀明に、在学中散々遊ばれこき使われていた義行は、その彼の惨状を聞いて真っ青になった。
「……あの先輩が?」
「そう」
「美幸」
「嘘は言って無いから」
「ちょっと大袈裟に」
「微塵も話を盛って無いから」
「今日は」
「エイプリル・フールはとっくに過ぎているから、現実逃避は止めて頂戴」
「…………」
美幸が呆れ気味に否定を繰り返し、漸く本当の事だと理解した義行は蒼白のまま固まった。しかしここで録画を見終えたらしい遥が、彼の服を引っ張って催促する。
「パパ! あそぼー!」
「あ、ああ……。そうだな。何をして遊ぶ?」
「げこくじょー!」
「え?」
「こっち!」
聞き慣れない言葉を聞いて義行は戸惑ったが、大人しく娘に手を引かれてソファーから立ち上がり、それを回り込んで空いているスペースに移動した。
「それで、どうするんだ?」
「どーん!」
「え?」
いきなり遥が膝の辺りに体当たりをしてきたが、長身の彼はびくともせず、怪訝な顔で娘を見下ろした。すると遥が、不機嫌そうに見上げてくる。
「パパ、たおれる! はるか、たおした!」
その訴えに義行は納得し、その場で仰向けになってみた。
「ええと……、こうか?」
「うん。よっと……。えい、えい、おーっ!」
「…………」
すると遥は義行の腹の上に上がり、両足で立って拳を振り上げ、元気よく勝ち鬨を上げた。それを見て義行が無言を貫く中、美幸が呆気に取られながら尋ねる。
「遥、何それ?」
「げこくじょー! パパ、やっつけたー!」
「……楽しいの? それに誰がそんな事を教えたの?」
「うん、たのしー! おねーちゃん! パパ、もーいっかい!」
「……ああ」
「『お姉ちゃん』って誰? 美樹ちゃん? 安曇ちゃん? でも今日、誰もこんな遊びはしていなかった筈だけど……」
美幸がブツブツと自問自答している間に、上機嫌な遥に促された義行が、再び立ち上がった。
「いくよ? どーん!」
「うっ、やられたぁぁっ……」
「やっつけたー! えい、えい、おーっ!」
再び父親の腹の上に乗って、楽し気に声を上げる遥を見てから、美幸は義行に尋ねた。
「
「胸や腹は、遥が乗った位ではびくともしないが……。少し、心が痛い……」
どことなく遠い目をしながらの夫の呟きに、美幸はひくっと口元を引き攣らせる。
「……遥、そろそろ止めようか」
「もーいっかい! パパー!」
「分かった、やるから。ほら、来い」
「げこくじょー! とりゃあー!」
「遥は強いなぁ……、ははは……」
「えい、えい、おーっ!」
全く止める素振りを見せない娘に、美幸はハラハラしながら声をかけた。
「遥、もうおしまいに」
「パパー! もーいっかい!」
「ああ……、どこからでも来い」
「義さん、もう止めましょうよ! 何だか表情が虚ろになってきてるし! 遥もいい加減にしなさい!」
「やーっ! げこくじょー、やるーっ!」
「遥! パパは疲れてるから!」
「やーっ!」
「遥! わがまま言わないの!」
その夜城崎家では、美幸の怒声と遥の泣き声が響き渡っていた。
※※※
明けて翌日。
夕方の時間帯、桜査警公社の副社長室に、美那がひょっこり顔を出した。
「金田さん、こんにちは!」
「おや、美那様。いらっしゃいませ」
愛想よく頷き返した金田から、美那は少し離れた席にいた寺島に向き直った。
「お父さん、こんにちは!」
「…………」
しかし彼は美那の事など丸無視で、黙々と書類作成を続ける。
「お父さん、こんにちは!」
「…………」
「寺島。挨拶を返さないか」
「……私は、美那様の父親ではありませんので」
めげずに再度声をかけても、頑なな態度を崩さない部下に、金田が呆れ気味に声をかけた。それに寺島が低い声で応じると、それを聞いた美那が、不思議そうに小首を傾げながら問いかける。
「寺島さんは、下僕のお父さんでしょう? 下僕が美那と結婚したら、寺島さんは美那のお父さんだよ?」
「あんた本当に、何してくれたんだ!? 陸斗が初めて口にした意味のある言葉が、『パパ』でもなく『ママ』でもなく、『げぼく』って、どう考えてもおかしいだろうが!?」
何故か妻と妙に仲良くなってしまった美那が、ちょくちょく家を尋ねてくるようになった挙句、生まれた息子にも顔を合わせる度に「下僕君」と笑って呼びかけている光景に不穏なものを感じていた彼は、その不安が現実の物となった時、本気で床に崩れ落ちた。妻の心海は「すぐにパパとかママとか言うわよ」と笑い、実際にそうだったのだが、その時の衝撃を忘れ去る事など不可能だった。
しかし美那は、彼のそんな心情などお構いなしに、納得したように話を続ける。
「初めて美那に会った時に、陸斗君の魂に刻み込まれちゃったんだね……。大丈夫。ちゃんと美那が、陸斗君の面倒を見るから。ねぇねがかずにぃの三十歳下だから、陸斗君が美那の六歳下でも全然おかしくないよね?」
「おかしいのは勿論だが、お前のような得体の知れない嫁なんかいらん!!」
「あ、そんな事より金田さん」
「『そんな事より』って、陸斗の人生をあっさり流すな!!」
「昨日、ねぇねがお父さんを倒して、下剋上を果たしたの」
「ほう?」
「……え?」
喚き散らす寺島を無視して美那が淡々と本題を切り出すと、金田は興味深そうな顔になり、寺島も驚いて絶句した。
「だからここの名目上の社長は、今まで通りお父さんだけど、実質的な社長はねぇねになるからね? かずにぃとの婚約も、お祖父ちゃんと叔母さん達の前で発表しちゃったし」
「そうですか。そろそろかとは思っておりましたが」
「倒したって……、社長を?」
落ち着き払って頷いた金田とは対照的に、寺島が動揺しながら問い返すと、美那は彼に向き直って頷いた。
「うん、お父さん、入院したの。ねぇねも怪我しちゃって部活が出来ないから、偶には部長らしく睨みを利かせてくるって、今日は珍しく空手部の部活に出て、こっちに来られないの」
「今の美樹様に関しての発言、何か色々間違っている気がしますが……」
「え? どこが?」
「……いえ、何でも無いです」
不思議そうに尋ねてきた美那に、寺島が深々と溜め息を吐いた。そこで美那が金田に向き直り、話を続ける。
「それでね? まだお父さんが名目上の社長だし、書類にサインとか処理をする為にここに顔を出す事があるでしょう? その時、もの凄く不機嫌な状態で来ると思うし、かずにぃと遭遇した日には血の雨が降ると思うから、他の社員さん達が近寄らないように、しっかり教えておいた方が良いと思うの」
「なるほど。それはそうですね」
「じゃあ皆に言っておいてね? 田所さんと約束してるから、これから財務部に行くの。バイバイ」
「はい。ご忠告、ありがとうございました」
そして笑顔で手を振って出て行った美那を、金田も笑って見送ってから、しみじみとした口調で呟いた。
「やれやれ。これでやっと、引退できるか……。感慨深いな」
「私としては公社と陸斗の将来に、不安しか感じません」
そんな自分とは雲泥の差の表情を見せる部下を見て、金田は再度笑いを漏らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます