美樹六歳、下剋上への第一歩

「それでこの半月程、あいつからここを分捕る手段を、真剣に考えていたの」

「お願いですから、そんな物騒な事は、考えないで下さい」

 真顔で美樹が口にした台詞に、和真は即座に懇願口調で反応した。しかし彼女はそれを無視して、冷静に述べる。


「それで、やっぱり実力行使が一番だという結論に達したから、早期の下剋上を目指して、腕と身体を鍛える事にしたわ」

「本当にお前、他人ひとの話を聞かねえな!」

「そういうわけで、今日、武闘訓練担当者に頼んでいくつもりよ」

 思わず声を荒げた和真だったが、美樹の口から出た台詞の内容に首を傾げた。


「はい? 誰に何を頼むと?」

「だから、ここの訓練担当者に、稽古をつけて貰うのよ。だって一般の教室や道場に通ったら、私がかすり傷や痣を付けて帰っただけで、あいつが激怒してそこをぶっ潰しそうなんだもの。やっぱりカタギの人に、迷惑をかけたら駄目よね?」

 そんな事を言って美樹が一人で頷くと同時に、室内が静まり返った。そんな中、和真が頭痛を堪えながら確認を入れる。


「お尋ねしますが……。ここに迷惑をかけるのは、構わないんですか?」

 その問いかけに、彼女は当然の如く言い返した。


「だって一応、ここの会長はお母さんだし。あいつに常識が無くても、お母さんには人並み以上に常識があるから、間違っても個人的な事で、社員を路頭に迷わせたりはしないわよ。と言うか、あいつの事を考えたら、私にまともに稽古をつけてくれる所は、世間広しと言えどもここしか有り得ないわ」

(全く、反論できない)

 美樹の主張を聞いた和真が、無言で溜め息を吐くと、彼女が掛け時計を見ながら、徐に言い出した。


「そういえば……、そろそろ来る頃なんだけどな……」

「『来る』って、何がですか?」

「あいつ。午後に旭日食品を抜けて、こっちに来る予定になってるのよ」

 平然とそんな事を言われた和真は、微妙に顔を強張らせながら、彼女に尋ねた。


「……それは存じませんでした。しかし社長が、今の話にどう関係してくるんですか?」

「だってこっそりここに頼んでも絶対バレるし、過保護なあいつが反対するに決まっているし、担当者だって部外者に稽古をつけるとなったら、二の足を踏みそうじゃない」

「確かにそうですが。それで?」

「あいつに納得して貰った上で、担当者に業務命令として、私に稽古をつける様に言わせるのよ」

 きっぱり断言した美樹に対して、ここで和真は疑わしげな表情になった。


「……そんな事ができるんですか?」

「来たわよ」

 しかしその問いかけに美樹は答えず、部屋の出入り口の方を見ながら淡々と告げた。彼女の宣言通り、ドアから秀明が入って来たところで、和真は即座に口を噤む。

 今までのやり取りを全て聞いていた周囲も、余計な事は言わずに黙り込む中、秀明はまっすぐ美樹がいる机までやって来て、少々驚いた様に娘に声をかけた。


「美樹、どうしてここに? 下の受付担当者から、お前がここに来ていて、来社したら寄って欲しいと言われて、何事かと思ったぞ」

 そう言われると同時に椅子から下りた美樹は、父親に対して、先程までの不機嫌さなど微塵も感じさせない笑顔を向けた。


「ごめんなさい、お父さん。忙しい合間を縫って、公社の仕事をしにここに来てるのに」

(おいおい、これは誰だ?)

 彼女の見事な豹変っぷりに、和真を初めとして周りの社員は全員唖然となったが、秀明は困惑気味に話を続けた。


「それは構わないが……、どうかしたのか?」

「あのね? 私、武道を習いたいの。だから公社内の訓練所に通って、稽古を付けて貰いたいなって思って。だからお父さんから、担当の人にお願いして貰えないかな?」

 小首を傾げながら、可愛らしく頼んだ美樹だったが、秀明は少々難しい顔になった。


「武道? お前は女の子だし、そんな物は必要無いだろう?」

「ぶっぶーっ! お父さんったら、今の発言は女性差別の発言だよっ? 管理職なんだから、しっかりしなきゃ、駄目なんだからね?」

「なかなか厳しいな。だがさっきの発言は、女性蔑視の発言では無いんだぞ?」

「うん、分かってるよ? お父さんはフェミニストだもんね!」

「ああ」

 クスクス笑う美樹に、秀明も苦笑いで応じ、そんな父娘のやり取りを黙って聞いていた和真は、心の中で盛大に突っ込みを入れた。


(おい、社長。「フェミニスト」って言葉が泣いてるぞ?)

 勿論、そんな事など知る由も無い秀明は、ここで真顔になって娘に理由を尋ねた。


「しかし、美樹。どうして武道を習いたいんだ?」

 すると、美樹は真剣な顔で父親を見上げながら訴え始めた。


「あのね? 私、将来、お父さんみたいに、格好良くて頭が切れて強い男の人と結婚したいの」

「それはそれは……。なかなか大変だぞ?」

「うん、理想が高過ぎて一生結婚できなかったら、お父さんのせいだからね?」

「それは困ったな」

 ちょっと拗ねた様に告げた美樹に、秀明は再び苦笑いする。しかし先程の美樹の発言を、一通り聞かされた面々に取っては、その台詞は余りにも白々し過ぎた。


(巨大な猫皮を背負っている、盛大な嘘吐き女が居るな)

 思わず遠い目をしてしまった和真の耳に、美樹の更なる詭弁が届く。


「でもね? そう言う人を見極める為には、自分もある程度の力量を持たないと、駄目だと思うの。そうでないと、見せかけだけの知識を披露されて博識だと思い込んだり、ちょっと型を習った程度の人間を腕が立つと思い込んだりするんじゃない?」

「確かに……、一理あるな。だが、それならわざわざここに来なくても、近場の教室や道場に通えば良いんじゃないか?」

 ここで真っ当な事を口にした秀明だったが、美樹は困った様に首を振った。


「それも、考えたんだけど……。それだと私の主旨に反するかな~、って思って」

「どういう事だ?」

「だって、私自身が誰よりも強くなりたいわけじゃなくて、強い人を見極める鑑定眼を身に付けたいのが、一番の目的だもの。教室とかだと、周りは似たような実力の人達が殆どじゃない? 習熟度でクラスや、時間帯を分けると思うし」

「それはそうだな」

 そこで思わず頷いた秀明に対して、美樹はもう一押しした。


「だからと言って、普通の所だと、いきなり素人を上級者の教室には入れて貰えないだろうし。でもここなら、所属している人は全員、それなりの実力の持ち主でしょう? それに色々な武道、流派の人が揃っているし。武道に関する観察眼を養うには、最高の環境じゃない?」

「確かにそうだが……」

「さっきも言ったけど、無闇に強くなるんじゃなくて、効率良く護身術を教えて貰うつもりなのよ? だって危ないって分かった人に、下手に抵抗するより、まず逃げるのが先だものね。違うかな?」

 そこで自分を見上げながら、神妙にお伺いを立ててきた美樹に対し、秀明は僅かに考え込む素振りを見せたものの、すぐに頷きながら了承の返事をした。


「分かった。美樹がそこまできちんと考えているなら、俺からここの担当者に、話をつけてやろう」

「本当!?」

 途端に嬉しそうな顔を見せた美樹を見下ろしながら、秀明が笑って応じる。


「ああ。幾ら女でも、やはりある程度自分の身を守る術は、身に付けておいた方が良いからな。それにここなら、間違ってもお前に変な事をする人間などいないだろう」

「わ~い! お父さん、ありがとう! 大好き~!」

 そう言って満面の笑みで自分の腰に抱きついてきた娘の頭を軽く撫でながら、秀明は真顔で言い聞かせた。


「その代わり、やるからには指導担当者の言う事をきちんと聞いて、万が一にも怪我の無い様に注意するんだぞ?」

「は~い! 分かりました~!」

 身体を離し、元気良く片手を上げながら父親に誓ってみせた美樹を見て、和真は勿論、その場に居合わせた社員全員が、心の中で突っ込みを入れた。


(おい、社長! あんた性悪娘に、コロッと騙されてんじゃねぇぞ!?)

 しかしそれを真っ正直に口にする程、判断力が無い社員はおらず、事実を知っている彼らの目の前で、茶番としか思えない父娘のやり取りが続いた。


「それじゃあお礼に、鞄を持ってあげる!」

「それは嬉しいが、美樹にはまだ重いんじゃないか?」

「えぇ~? そんな事無いって~。う、重っ!」

「ほら、無理はするな」

「じゃあ半分! 半分持ってあげるから!」

「分かった。片方持ってくれ」

 互いに笑顔でのそんな会話の後、一つの鞄の持ち手を二人で一つずつ手にした父娘は、振り返って和真に声をかけた。


「じゃあ和真、今まで話し相手になってくれてありがとう。担当者の人との話が終わったらすぐに帰るけど、もうちょっとそこにリュックを置かせておいてね?」

「仕事中に娘の相手をさせて、悪かったな」

 申し訳無さそうに秀明が告げた斜め下で、鬼の形相の美樹が(余計な事を、一言でも言うんじゃないわよ!?)と目線で訴えてきた為、和真は神妙に頷いた。


「……いえ、お構いなく。それにリュックはこのまま、こちらでお預かりしておきますので」

「じゃあ行こっか! お父さん、お仕事忙しそうだよね。偶には一緒に、晩御飯食べたいなぁ……」

「そうだな。今はちょっと忙しいが、来週になったら余裕ができそうだし、早く帰れると思うぞ? それに、どこかに遊びに行くか?」

「わ~い! お父さん、大好き~!」

 そしてすぐに踵を返し、仲良く両側から鞄を持った二人が、楽しげに会話を交わしながら立ち去ってから、和真は深々と溜め息を吐いた。


(小さくとも、立派な魔性の女だな……)

 美樹の「お父さん、大好き!」演技に、半ば呆れ、半ば感心していた和真の耳に、ここで至近距離からの押し殺した呻き声が聞こえた。


「違う……」

「え? 何が違うんだ?」

 思わず反射的に声がした方を振り向いてみると、机に両肘を付いて頭を抱えていた男は、勢い良く頭を上げながら、中空を見上げて絶叫した。


「俺の、俺の陽菜乃は、本当に俺の事が、心から大好きなんだぁぁ――――っ!!」

「……おい、何を錯乱している」

 うっすらと目に涙を浮かべながらの部下の訴えに、和真は呆れながら宥めようとしたが、更に周囲から複数の鋭い声が上がった。


「笠置! お前、人が懸命に考えない様にしている事を、そんな大声で喚くな!」

「そうだぞ! お前の所は知らんが、うちの玲奈は本当に俺が大好きなんだ! 『パパ、大好き!』なんて言ってる陰で、暴言なんか吐いて無いんだからなっ!!」

 おそらくまだ娘が小さいであろう、二十代三十代の者達は、何やら必死に言い募っていたが、その一方で、娘がそれなりの年齢に達したり、成人しているであろう四十代五十代の社員達は、妙にしみじみとした口調で呟いていた。


「うちは、十歳までだったな……。『お父さん、大好き』なんて言ってくれたのは……」

「そうだな……。『友達同士で集まった時に色々酷い事を言っていたけど、あなたが気の毒だったから言わなかった』と、後から妻が言っていて」

「坂本さん、塚田さん! そういう不安と絶望を煽る様な経験談、止めて貰えませんか!?」

「現実を直視するのは、とても大切な事だぞ? 不破君」

「うちは! うちは、絶対に違うんだぁぁっ!!」

 そんな風に娘を持つ父親達は、それぞれの立場で主張し合い、独身だったり、子供がいない、または息子のみの社員は淡々と仕事をこなしていく、混沌とした状態になってしまった。


(おいおい、これを誰がどうやって収拾つけるんだよ)

 独身で隠し子もいない和真は、当然冷静に事態を見守りながら溜め息を吐いていたが、そんな所にけたたましい叫び声と共に、駆け込んできた男がいた。


「おっ、小野塚部長補佐ぁぁ――っ!」

「あぁ? なんだってんだ。これ以上、面倒事を増やすな……」

 思わず殺気を放ちながら、声がした方に鋭い目を向けた和真だったが、汗だか涙だか分からない物を顔から滴り落としながら、駆け寄ってくる武闘訓練担当者の姿を認めて、口を閉ざした。


「しゃ、社長……、おじょ、さまっ! こっ、ここでっ……、訓練っ……」

 自分の前までやってきた彼が、涙声で切れ切れに訴えてくる内容を正確に理解した和真は、憐れむ視線を向けながら机の上にあったメモ帳を引き寄せた。そしていつの間にか静まり返る中、和真はメモ帳の上にボールペンを走らせてから、一番上のメモ用紙を剥ぎ取って相手に差し出す。


「……頑張れ。これは会長の携番だ。万が一、何かあったら、まずこちらに連絡しろ。間違っても、先に社長に連絡するなよ?」

 すると相手は反射的にメモ用紙を受け取りながら、なおも呻いた。


「たっ、退職っ……」

「それは俺の管轄外だ。そんなに辞めたければ、副社長に直談判しろ」

「副社長――っ!!」

 和真が素っ気なく応じた直後、男は再び泣き叫び、重量感のある足音を響かせながら駆け去って行った。


(全く、本当にろくでもない……)

 そして再び静寂に包まれた室内で、和真は本気で頭を抱える事になった。

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