美樹十八歳、嵐を呼ぶオッズ

 その日、突然社長室に呼びつけられた時点で、防犯警備部門部長の杉本は、嫌な予感しか覚えなかった。


「失礼します。社長、お呼びでしょうか?」

「杉本さん、待ってたわ! さあさあ、そこに座って!」

「……失礼します」

 ノックをして室内に入るなり、勢い良く席を立って傍らにある応接セットを指し示した美樹を見て、杉本は密かに警戒レベルを一気に引き上げた。


(社長の、この愛想笑い。ろくでもない事でしか有り得ない……。加積、寺島! ちゃんと社長を監視してろ! 何の為におまえらが付いてるんだ!)

 年下の上司とその秘書を、心の中で罵倒してからソファーに落ち着いた杉本は、神妙にお伺いを立てた。


「社長。なにやら大事なお話があるとの事でしたが、副社長は同席されなくてもよろしいのでしょうか?」

「和真は今、ちょっと遣いに出しているの」

「そうですか……。因みに副社長秘書の寺島は? 色々決済が必要な事なら、彼が同席した方が」

「寺島さんは買い出しに行かせて、まだ戻って来ないわ」

「……そうでしたか」

(二人とも、どこまで行きやがった!?)

 どう考えても、密かに自分を招き入れる為に二人を追い払ったとしか思えない状況に、杉本は頭を抱えたくなったが、ここで美樹が笑顔のまま本題を切り出した。


「それで、杉本さんにお願いがあるんだけど」

「何でしょうか?」

「武道大会の参加希望者が、まだ十五人しか集まっていないの。少ないでしょう?」

「そう言われましても……。各自の希望や予定もありますし」

「だから防犯警備部門所属者で、当日仕事が入っている以外の人は、全員強制参加にしようと思っているの」

「いえ、ですが社長」

「だから当然、部長になってから現場に出なくなって久しい杉本さんも参加決定だから、宜しくね?」

 そんな事を明るく言い切られた杉本は、唖然として反論しようとした。


「……は? あ、あの、社長? それは、幾ら何でも」

「大丈夫大丈夫! 何と言ってもアラフィフの、あいつと和真と寺島さんが出るのよ? 経験値って言う名前の脂の乗った、アラシックスの杉本さんだって余裕余裕!」

「いや、さすがに無理ですから!」

 満面の笑みで根拠の無い事を保証してくる美樹に、杉本が本気で顔色を変えたところで、彼女が笑顔のまま代替案を出してきた。


「そこまで嫌がらなくても……。それなら試合に参加しない代わりに、他の事で貢献してくれるわよね?」

「『他の』と仰いますと……、審判とかですか?」

「審判もそうだけど、社員の諸々のデータを考慮の上で、オッズを決めて欲しいの」

「オッズ? 何のです?」

「勿論、当日の試合で優勝者が誰になるのかを当てる、賭けのオッズよ」

 サラリと告げられた内容を聞いて、杉本の表情が凍り付いた。


「……それを、私に決めろと?」

「そう。私が決めても良いんだけど、そうしたら『一人一人の力量も知らないくせに、上が勝手に決めるな』とか、現場の皆から反感を買いそうだし。でも防犯警備部門責任者の杉本さんが監修して決定するなら、誰からも文句は出ないでしょう? 現場責任者なんだし」

「それは……」

「別に、そこまで気にする必要も無いかな? それなら私が勝手に決めるから、当日杉本さんは試合参加要員で」

「分かりました。該当する社員の個人データを考慮の上、オッズを決めさせていただきます」

 どう考えても職場内で角が立つのは分かっていたが、若い者達に混ざって試合など本気で勘弁したかった杉本は、神妙な顔で頷いた。


「良かった、引き受けて貰って。あ、因みに最低オッズは2倍で、賭け金は社員一人当たり一万円までね。お遊びなのに大金が動いたら、洒落にならないから」

「確かにそうですね」

「それで、最高オッズは100倍に設定して頂戴」

 事も無げに言われた内容に、さすがに杉本の顔色が変わる。


「社長!? たった今、『大金が動いたら洒落にならない』と仰いましたよね!?」

「100倍に設定するのはあいつだけだから、別に構わないわよ」

「……藤宮社長ですか」

「それで和真は99倍で、寺島さんは98倍ね。後は2倍から始めて、杉本さんが妥当と思われる倍率を設定して貰えれば良いわ」

 非難の声もなんのその。美樹が続けて告げた内容に、杉本は本気で眩暈がしてきた。


「それを、私に設定しろと……」

「ええ、宜しくね! お仕事中、呼びつけてごめんなさい。もう戻って良いわよ?」

「……それでは、失礼します」

 それ以上反論する気も起きず、杉本はゆっくりと立ち上がり、一礼して社長室を出て行った。

「俺の人生、終わったかもしれん……」

 そう呟きながら廊下を歩き出した彼の背中には、隠しようもない悲哀が漂っていた。


 社長室で人知れずそんな会話が交わされてから、約半月後。

 杉本は一部の部下から、猛烈な突き上げを喰らう事になった。


「杉本部長! 何なんですか、このオッズは!? どうして私が、15倍なんて高倍率になってるんですか!」

 警護対象者が女性である場合もあり、防犯警備部門には比率で言うと男性よりかなり少ないながらも、女性社員が在籍していた。その一人である菅沼が社内で公表されたオッズ表片手に、憤然としながら部長席に詰め寄り、その剣幕にその場に居合わせた男性社員達は誰一人余計な口を挟めず、杉本が困り顔で弁解する。


「その……、すまん。色々鑑みた結果、そうなった」

「冗談じゃありません! 何なんですか! 女を馬鹿にするにも、程がありますよ!?」

「いや、別に男女差別をしているわけでも、悪気も無くてだな!」

 必死に弁解した杉本だったが、彼の机をいつの間にか複数の女性社員が取り囲み、冷え切った声で口々に告げた。


「まあまあ、菅沼さん。15倍なんて低い方よ? 私なんて21倍だし?」

「因みに私のオッズは、34倍よ?」

「本当にねぇ……、45倍だなんて、嫌みかしら? 年齢と同じだなんて」

 ベテランの岸田が、そう言いながら薄笑いを漏らした為、忽ちその場の空気が凍った。


「きっ、岸田さん?」

「それは偶々ですから、偶々!」

「不幸な偶然です! 部長! そうですよね!?」

「あ、ああ。本当に他意は無いんだ、他意は!」

 杉本を筆頭に、他の女性社員達も必死の形相で宥めると、岸田はまだ若干不服そうな表情で話を続けた。


「そうですか。でも、まあ……。急に武道大会に強制参加になった上、『お前らが勝つわけないだろう』的なオッズを付けられて、推測通りあっさり負けるのは業腹ですので。本音を言えば、強制参加でも適当に戦ってさっさと負けておくか位に思っていましたが、今回は全力で勝ちにいかせて貰います」

「きっ、岸田? 一体何を」

 鋭い視線で睨まれた杉本は狼狽したが、岸田はそれを無視しながら後輩達に声をかけた。


「皆、今夜空いてるなら、作戦会議よ。幸い、試合形式はバトルロイヤル。私達で組んで、潰しやすいところから各個撃破。最後は優勝賞金を山分けよ」

 淡々とそんな提案をされた彼女達は、一瞬呆気に取られてから、すぐに嬉々としてその話に乗った。


「その手がありましたね!」

「でも似たような事を、他の面々も考えませんか?」

「勿論そうでしょうね。だけど若造なら若造の、年がいってるならそれなりの、ネタや弱点を掴んでおけば、どうとでもなるわ。私達の経験と観察力を、遺憾なく発揮する時よ」

「そうですね。賞金なんて二の次ですね。これには女性社員の尊厳とプライドがかかっているんですから」

「殺りましょう、岸田さん!」

「ええ、ここまで馬鹿にされて、無策のまま黙っているなんて、あり得ませんよね!」

「おい! お前達、ちょっと待て!」

 そのまま盛り上がり、固まって移動し始めた部下達を、杉本は慌てて引き止めようとしたが、ここで勢い良く廊下に繋がるドアが蹴り開けられた。


「杉本、居るか!! 当然、居るよな!?」

「中途半端に隠れたりしたら、容赦しませんよ?」

 物騒すぎる台詞と共に現れた、副社長と秘書のデンジャラスコンビの憤怒の形相に、室内にいた者達は恐怖のあまり浮き足立った。


「ひいっ!」

「ふっ、副社長!?」

「寺島さんまで、何であんな物騒なオーラを背負って登場するんだよ!?」

「だってお前、これ最後まで見てないだろ?」

「これって、例のオッズ一覧表……。ああ、なるほど……」

「なあ、部長を見捨てて、逃げても良いと思うか?」

「そんな判断、俺に押し付けるな!」

 部下達が隅に固まって囁き合う中、真っすぐ部長席に歩み寄った二人は、座ったままの杉本を見下ろしながら、揃って冷笑した。


「元気そうだな、杉本。結構な事じゃないか。なぁ、寺島?」

「そうですね、副社長。さすがに弱っている年寄りを叩きのめせと言われたら、欠片しか残っていない良心が疼きますので。……疼いても、必要ならいつでも殺りますが」

「お前も相変わらず物騒だな」

「副社長には敵いませんが」

「似合わないから謙遜するな」

「これが謙遜と言うものですか。初めて知りました」

「…………」

 表情を消した杉本の前で、二人は「あはははは」とわざとらしく高笑いしてから、ドスの利いた声で杉本を恫喝した。


「無駄話はここまでにして、まさか俺達がここに来た理由が分からないとか、ふざけた事は言わないよな?」

「武道大会のオッズ倍率の事ですね」

「ほう? ちゃんと分かっているようで、何よりだな」

「貴様が設定したんだよな? どうして俺達の数字が、他の人間とはかけ離れているのか、その理由を是非とも聞かせて貰いたいんだが?」

 周囲が固唾を飲んで事の成り行きを見守る中、完全に腹を括った杉本の声が、室内に響き渡った。


「二人には申し訳無いが、藤宮社長を含めたお三方のオッズに関しては、美樹社長自身がお決めになられたので、その理由については美樹様に直に尋ねて貰いたいのですが」

 杉本がそう口にすると、和真の眉間にくっきりとしたシワが刻まれた。


「美樹の奴……、ふざけるのにもほどがあるぞ」

 それに寺島も、渋面になりながら呟く。


「第一、藤宮社長のオッズが100倍だなんて。これを藤宮社長が目にした日には……」

「確実に公社を巻き込んだ、親子喧嘩が勃発するな。お前が決定しなかったにしろ、分かっていてどうして美樹を止めなかった?」

「私に、美樹様が止められるとでも?」

「…………」

 面と向かって杉本に言い返された二人は、それ以上何も言えずに黙り込んだ。すると彼が、疲れたように話を続ける。


「予め、会長に事情をお話しして、ご自宅で会長の口から藤宮社長にこの事を伝えてもらうようにお願いしました。ですから公社内で目にした瞬間、激高して暴れる事は無いかと」

「そうか……」

「適切な判断でしたね」

「そういう事ですので、仕事の邪魔ですから、お二人ともお引き取りください」

「……邪魔したな」

 面白くなさそうな顔ながらも、和真と寺島はおとなしく杉本の前から歩き去って行った。


「全く、どこまで俺が勝てないと思ってやがる」

「完全に面白がってますね」

 二人は美樹への悪態を吐くだけで済んだが、違う場所では文句を言うだけでは済まない事態に陥る事になった。


「……何だ、これは?」

 偶々家族全員が顔を揃えた夕食後の団欒の場で、美子から差し出された用紙に目を落とした秀明は、冷え切った声で問いかけた。それに美子が溜め息を吐いてから、再度説明する。


「だから、さっき説明したでしょう? 武道大会勝敗予想の賭けの、オッズ一覧表よ」

「…………」

「お父さん、見せて!」

 不気味に静まり返るリビングの中を、美那と美昌が移動して秀明の両側に陣取り、興味津々で彼の手元を覗き込んだ。そして美昌が驚いたように声を上げる。


「あれ? お兄ちゃんも出るの?」

「あ、ああ……。参加者を増やす為に、防犯警備部門所属者は正当な理由が無ければ強制参加になったけど、社員の家族も希望者は参加できる事になったから、姉さんから『場を盛り上げる為に出なさい』と厳命されたんだ」

 引き攣った顔で美久が説明すると、空気が読めない美昌が、横から秀明を見上げながら明るく声を上げた。


「お父さん、凄いね! お兄ちゃんが35なのに、お父さんは100だよ? それに一人だけ三桁! さすがお父さん、一番だね!」

「美昌……」

「ある意味、一番だがな」

 オッズの意味が分かっていない彼に、美子と昌典が頭を抱える中、秀明が低い声で呻いた。


「美樹の差し金か……。俺は……、美久にも劣ると……。そういう意味か?」

「あのね、あなた。それは」

「ほら、色々場を盛り上げる演出と言うか」

「姉さんにも、悪気があったわけでは」

「そうだね。だってかずにぃと寺島さんも、99と98だし」

 慌てて秀明を宥めようとした面々だが、ここで空気を読まない美那の台詞が、とどめを差した。


「あの二人よりも下だと言うのは、どういう事だ! ふざけるな!!」

「…………」

 怒りが振り切れたらしい秀明の叫びに、再び室内が静まり返る。

「あいつら……、絶対に許さん!」

 秀明はそう叫ぶなり、手にしていた用紙を真っ二つに引き裂き、それを見た美久は頭を抱えた。


「うわ……、予測はしてたけど、どうするんだよ……」

「当日、荒れそうだね。お兄ちゃん、頑張ってね」

「荒れる? 血の海? あびきょーかん?」

 兄の姿を見た美那は真顔で激励し、美昌は不思議そうに首を傾げ、藤宮家の穏やかな団欒の場は台無しとなった。

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