美樹十八歳、ひねくれぶりは親譲り

 東成大に入学して、1ヶ月強。

 美樹は友人もできて、それなりに学生生活を謳歌していた。

「よっと。じゃあ学食に行こうか」

 荷物を纏めてリュックに入れた美樹が、それを背負いながら友人達に声をかけると、一番側にいた清良が、心配そうに声をかけてくる。


「美樹、重くない? 大丈夫?」

 マタニティワンピース姿で通学するようになってから、毎日のように心配してくる彼女を美樹が笑いながら宥めるのは、この頃にはもうお約束になっていた。


「これ位、平気だから。子供はもっと重いしね。やっぱり、お腹が目立ってくると気になる?」

「うん。身近に妊婦って居ないし。どれ位までなら大丈夫なのかって、全然感覚が分からないから」

 大真面目に清良が訴えると、横で佳世と幸乃が頷く。


「入学直後は色々からかっていた男子も、最近は遠巻きにしてるわよね」

「そりゃあ、何かあったら大変だもの」

「まだ全然大丈夫よ? ほら、縄跳びだってできるし」

 そう言って美樹がいきなり縄跳びをする要領で、身体の横で手首を回しながら軽く飛び跳ねて見せた為、忽ち周囲から悲鳴が上がった。


「ちょっと! 見てるだけで怖いから止めて!」

「本当にお願い!」

「お腹だったら、これからまだまだ大きくなるんだけどね」

 跳ぶのを止めた美樹が肩を竦めて歩き出すと、他の三人も安堵しながら並んで歩き出した。


「経験者は語る、かぁ……。十八歳で、既に経産婦って凄いよね……」

「うん。本当に、全然想像つかないわ」

「これまで勉強ばかりしてたのに、世の中にはこういう人もいるんだなって、自分の経験不足を実感しちゃったもの」

「そんな真顔で、しみじみ言う事でも無いって。ほら、エレベーターが来たから乗ろう?」

「そうね」

 神妙に話している周囲に笑いかけ、美樹が目の前で扉が開いたエレベーターを指さすと、彼女達も笑って美樹と一緒にそれに乗り込んだ。


「でも美樹のおかげで、色々楽させて貰ってるわね」

「本当に。『傷病者、身障者、妊婦、その他階段昇降に支障がある者は、同伴者と共にエレベーター使用を認める』という使用規定があって、オリエンテーションで『一見して妊婦と分からない場合には、マタニティマークを付ける事』ってわざわざ説明するなんて、さすが東成大よね」

「だって国家公務員を数多排出している、国立最難関校だもの。率先してバリアフリー化するだろうし、男女平等推進意識も高いわよ」

「…………」

 感心したように頷き合う友人達の横で、美樹は無言で顔を引き攣らせていたが、ここで佳世が困惑気味に言い出す。


「先進的な取り組みをしているのは分かるけど……、トイレはちょっとバランスが悪くない?」

「あ、それは私も不思議に思ってた。私達が授業を受けるフロアのトイレって、全部女子トイレになっていて、圧倒的に数が多い男子学生全員、トイレに行くのに上下の階に移動してるし」

「最近、デパートとかでフロア毎に男女のトイレを分けているし、それに倣ったのかしら?」

「個室は広いし綺麗だし、気分が悪くなった場合の呼び出しボタンまであるし、全然待たなくて済むし、私達は良いんだけど。変な所にお金を使ってるわよね」

「……そうね。私もすごく、助かっているけど」

 友人達が疑問を口にする中、美樹はそ知らぬ顔でエレベーターを降り、彼女達と一緒に学食に向かった。


(絶対あいつが総長に指示したか、あいつにビビってた総長が気を回し過ぎて、至れり尽くせりの措置をしたのか……。不自然極まりないでしょうが、限度を考えなさいよ!)

 心の中で大学の最高責任者を罵倒した美樹は、自分達から微妙に距離を取っている周囲の学生達をさり気なく観察しながら、小さく溜め息を吐いた。


(新入生はそれほど不審に思わなくても、去年までの事を知っている在校生には、怪しまれているでしょうね。せっかく入学したからには、一応普通の学生生活を送りたいんだけどな……)

 そんな事を考えているうちに、四人は学食に辿り着き、席を探し始めた。


「う~ん、何だか混んでるわね」

「そうね。先に空いてる席を探して、押さえておこうか?」

「じゃあ、美樹と佳世は席を探しておいてくれる? 私達で食券を買って並んでるから」

「二人とも、何が良い?」

「そう? じゃあ何にしようかな」

「それじゃあ……」

 四人が顔を見合わせながらそんな相談をしていると、すぐ近くのテーブルで勢い良く椅子から立ち上がる気配と、狼狽気味の声が伝わってきた。


「おっ、おはようございます、加積さん!」

 その声に、美樹が反射的に振り返る。

「あ、小林先輩、こんにちは」

「これからご友人とお食事ですか? ここはもう終わりましたので、どうぞ四人でお使い下さい!」

「え?」

「おい、伸也」

「お前、何言ってんだよ」

 強張った笑顔で小林が申し出た内容を聞いて、彼以外の者達の殆どが困惑した。


「あの……、皆さん、まだお食事が半分以上、残っているみたいですけど……」

 一応彼のテーブルに着いている面々の、食事状況を見て取りながら美樹が問いかけると、小林は大げさに笑いながらその懸念を否定した。


「いえいえ、男の飯なんて、これ位ならものの二・三分でかき込みますから、お気遣いなく!」

「おい、ちょっと待て!」

「お前、何を言って」

「た べ お わ る よ な?」

「……ああ」

「…………」

 小林の発言に同席していた友人達が慌てて反論しようとしたが、そこで美樹達に背中を向けた彼が、悪鬼の形相で低く恫喝した為、その場が静まり返った。そして友人達を黙らせてからすぐに、小林が愛想良く振り返って、美樹達を促す。


「あ、大きい荷物はこちらでお預かりしておきますので、どうぞカウンターに行って来てください」

「そうですか? すみません」

「お願いします」

「助かりました」

「よろしくお願いします」

 そして美樹達は素直に彼の申し出に従い、そこのテーブルに荷物を置いて、食券の自販機に向かった。

「これで何回目かしら? 美樹と一緒の時に、武道愛好会の人に席を譲って貰うの」

 清良がしみじみとした口調で言い出すと、他の二人も考え込む。


「ええと……、私は三回目かな?」

「私は四回目ね。美樹が武道愛好会に入会してるって聞いた時は驚いたけど、全員紳士だよね」

「うん、本当にびっくり。私のテニスサークルでは、酷い噂が流れてたもの。大学の運営費を陰で横流しさせてるとか、大会実績とか皆無なのに事務方の弱みを握っていて、体育館やグラウンドの最優先使用権を持ってるとか」

「私が聞いたのは、部室で大学のネット回線を無断使用して、株取引をして暴利を貪ってるって話だけど」

「何か変な薬を作って、人体実験をしてるって噂は?」

「そんな噂まであるの!?」

 段々エスカレートしていく話に、美樹はたまらず口を挟んだ。


「あ、あはは……、本当に、どうしてそんなとんでもない噂が、流れているのかしらね? やっぱり、あれかな? 勉強しつつ各種武道の有段者にまでなった人達ばかりだから、一筋縄ではいかない人達だって他の人達が変な先入観を持っているとか、妬んでいるとかなのかしら?」

(学内でやりたい放題かもしれないけど、取り敢えず薬とか明らかな違法行為までは関わっていない筈だし!)

 冷や汗を流しながら美樹がその場を取り繕ってみると、友人達は揃って笑顔で頷いた。


「うん、絶対そうだよね!」

「幾ら有段者だからって、妊婦の美樹があっさり入会を認められる位だもの」

「きっとフェアプレー精神で心身ともに鍛え上げられた、誤解されやすいフェミニストの集団なのよ」

「確かに、皆、親切ね」

(本当は私の身元とバックにビビった会長が、会員全員に周知徹底させているからなんだけど)

 本当の事を口にしたら怯えられるのが確実な為、余計な事は言うまいと美樹が口を噤んでいると、幸乃が予想外の事を言い出した。


「確かにそうかもしれないけど、それだけではなくて、狡猾なイメージ戦略も含まれていると思うわ」

「え? どういう意味?」

「それだけ悪評が立っているのを、実は武道愛好会の人達も前から結構気にしていたんじゃない? だから敢えて妊婦の美樹に従順な態度で接していれば、周りからそれほど不当に恐れられなくて済むと考えているとか」

 それに清良と佳世が、納得したように深く頷く。


「なるほど……。普通なら腕の立つ人が、妊婦の美樹を恐れるなんて有り得ないものね」

「それならありがたく、好意は受けるべきよね」

「そうそう。私達はささやかながら、武道愛好会のイメージアップに貢献しているんだから」

 そんな事をにこやかに会話している友人達の横で、美樹は顔を微妙に引き攣らせながら、心の中で密かに詫びた。


(だけど私と一緒にいる事で、下手に声をかけたりちょっかいを出したら、武道愛好会に何をされるか分からないって、大抵の人に怖じ気づかれているかも。皆、恋愛に縁遠くなってしまったら、本当にごめん)

 こんな些細な問題は潜在的に存在していたものの、美樹の学生生活は表向きは順調だった。

 そんなある日。加積邸に帰宅した美樹が、広いリビングで義母の桜と真論と一緒に楽しげに話し込んでいると、予定より早く和真が帰宅した。


「戻ったぞ」

「あら、今日は早かったのね。夕食前に帰ってくるなんて」

「偶にはこんな日もあるさ」

「パパ!」

「おう、真論。ご機嫌だな。……ところでお前は、大学とかで変わった事は無いか?」

 娘を抱き上げてから和真が尋ねてきた為、美樹はソファーに座ったまま答えた。


「別に無いわよ。校内で、変に目立ってしまってはいるけど」

「そりゃあ、既婚者妊婦の新入生が、目立たない方がおかしいだろう」

 思わず苦笑した和真に、美樹が些か気分を害しながら言い募る。


「それは勿論、そうなんだけど! 一般生徒には禁止されているエレベーター使用とか、送迎の為の大学敷地内への車乗り入れが許可されたりとか、普通の机を一列取り払って作った、かなり前後左右スペースにゆとりのある、教壇ド真ん前の特別席に優先的使用が認められてるとか、私の入学に合わせて色々な特例事項ができているのよ?」

「さすが天下の東成大。社会的弱者に優しい配慮だな。それなら妊婦以外の傷病者や身障者でも、通いやすいだろう」

「表向きはそうだけどね!」

 ここで鋭く睨んできた美樹が言いたい事を悟った彼は、先回りして断りを入れた。


「言っておくが、そっち方面に関して、俺は全く関与していないぞ?」

「……やっぱりあいつが、総長に色々言いつけやがってるのよね。総長も総長よ。昔ちょっと弱みを掴まれたからって、唯々諾々と従うなんて情けないと思わないわけ? 破滅覚悟で抗ってみなさいよ。頭でっかちの根性無しが」

「そんな、露骨に嫌な顔をしなくても。それに総長が気の毒すぎるぞ」

「ママ?」

 美樹が渋面になってぶつぶつと悪態を吐いているのを見て、和真は苦笑を深め、彼の腕の中の真論は不思議そうに母親を見下ろした。すると美樹は何とか気を取り直し、問題の対象を切り替える。


「それはともかく、武道愛好会の面々が私の姿を見かける度に大袈裟な反応をするのは、どうにかして欲しいんだけど?」

 その訴えに、和真は軽く首を傾げた。


「基本的には、俺はそれにもノータッチだが?」

「会長を脅したのは和真でしょうが!」

「お前の送迎車と接触しないように、構内で職員や学生の通行を誘導したり、人混みの中でぶつかったりしないように、有無を言わせず道を作ったり、ちょっと強引に学食の席を空けたりする位、別に構わないだろう」

「やっぱり詳細な報告はされてるんじゃない!」

「だから俺は挨拶時に連絡先は渡したが、別に細かく指示はしていないぞ? 現会長も、自主的に報告してくるだけだし。社長とか、彼を怒らせたくない歴代会長の誰か、または複数人が、現会長に言い聞かせているんじゃないのか?」

「物には限度と言う物が……。廊下ですれ違う度に、ガタイの良い体育会系の先輩に、道を譲られて最敬礼される身にもなってよ……」

 がっくりと項垂れた美樹に少々同情はしたものの、大学内で美樹を野放しにする危険性は回避したい和真は、笑いながら宥めた。


「まあ、良いんじゃないのか? お前の友人達にも、変なちょっかいかける馬鹿野郎はいないだろう」

 その指摘に、美樹は素直に頷く。

「まあね……。何か友達に絡んだ男子は、悉く三日以内におとなしくなってるし。他大学との変なパーティーとかも、最近あちこちで結構潰れているみたいだし」

「規律順守。妊娠中の今は無理だが、この先お前が突発的に参加する可能性を考慮して、羽目を外す馬鹿を今のうちからこつこつ排除しているんだから、結構な事だろうが。社長が現役学生時代に武道愛好会を立ち上げた頃は、悪さしかしていなかっただろうに、変われば変わるものだな」

「……あれの話はしないでくれる?」

「分かった」

 再び美樹が秀明の事を「あれ」呼ばわりしながら顔を顰めた為、和真が笑いを堪えていると、住み込みの使用人がやって来て和真達に声をかけた。


「皆様、お食事の支度が整いました」

「分かったわ。じゃあ真論を連れて、先に食堂に行ってるわね。和真はせっかく早く帰って来たんだから、偶には桜さんのお世話をしなさい」

「人使いの荒い女房だな」

 さっさと真論を抱えて立ち上がり、拗ねたように言い捨てて食堂に向かった美樹を、和真は苦笑を深めながら見送った。すると如何にもおかしそうに、桜から声をかけられる。


「本当にね。せっかく早く帰って来たから、真論か美樹を構いまかったのに、こんなおばあさんの相手はがっかりよねぇ?」

 そう言って笑う桜は、加齢に伴い移動に車椅子を使う位に足腰が弱ってはいたが、まだ他の日常生活に支障は無く、彼女の背後に回って車椅子を押しながら、和真は憎まれ口を叩いた。


「何を言ってる。自分が年寄りだなんて、微塵も思ってないくせに。足腰が立たなくなっても、減らず口は一向に減らないらしいな」

「だから減らず口と言うのじゃない」

「……本当に、頭と口は錆び付かないよな」

「それにしても、あの子もやっぱり人の親って事なのかしらね。徹底的に叩きのめされたのに、娘の為に裏で手を回すなんて、本当に素直じゃ無いんだから」

 桜が秀明の事をそう評してくすくすと楽しげに笑った為、和真も釣られて口元を緩めた。

(ばあさんにかかったら、社長も「あの子」扱いか)

 そしてその話題に乗ってみる。


「社長は裏からこっそりなんて可愛い事はしないで、堂々と総長を脅していたがな。素直じゃないのは、美樹の方だろう。迷惑そうな顔をしているだけで、礼の言葉なんて一つも口にしていないし」

「あら、美樹は一応感謝しているし、彼女なりにお礼はするつもりじゃないかしら」

「どうしてそう思うんだ?」

「勘よ。何だか武道大会が、余計に楽しくなってきたわね」

 ここで桜の口から予想外の言葉が出てきた為、和真は瞬時に足を止めて警戒する表情になった。


「……ちょっと待て。どうしてそこで、武道大会が出てくるんだ?」

 その問いかけに、桜が笑顔のまま事も無げに答える。


「何となくこの時期に開催するなら、美樹がそれを利用して、あの子絡みで何かやる気がするのよね。ああ、そういえば、和真も出るのよね? 若い子に瞬殺されない程度に、頑張りなさいな」

「そりゃあどうも」

 軽く身体を捻って、笑いながら一応激励をしてきた桜に、和真は無表情で肩を竦めた。その物言いと反応が面白かったのか、桜はころころと一層楽しそうに笑い出し、和真は憮然としながら再び車椅子を押して食堂に向かった。

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