美樹四歳、実らない初恋

「かづみさん、おやすみなさい!」

「おやすみー!」

「ねんねー!」

 寝る前の挨拶をする為、桜に加積の居場所を聞いて、住み込みの使用人の一人に連れて来て貰った美樹達は、勢い良く襖を開けながら、座敷の中に向かって声を張り上げた。それを聞いた男達が、全員驚いた顔を向けたが、加積はすぐに笑って挨拶を返してくる。


「ああ、挨拶に来てくれたのか。おやすみ」

「おきゃくさま、おじゃまさまです」

「いや、大丈夫だ」

 申し訳無さそうに客人達に向かって、美樹がぺこりと頭を下げた為、加積は鷹揚に笑って頷いた。そして自分を訪ねてきた男達に、美樹達を紹介する。


「皆、今この屋敷で預かっている、美子さんの娘と、姪と甥だ」

 それを聞いた全員の表情が、微妙に変化した。

「あ、ああ……、そうでしたか」

「こんばんは」

「良い挨拶だ。お利口さんだな」

 口々に挨拶し、愛想笑いを浮かべた三人だったが、ここで何故か淳志が、一番手前に座っていた男に歩み寄り、彼の頭上辺りを見上げながら、嬉しそうに声を上げた。


「きよー!」

「え?」

 そして男達が戸惑う中、淳志は両手をバタバタと動かし、あらぬ方を見上げながら、満面の笑みで意味不明な事を喋り続けた。


「うとね! たーんつ、わと、てえた! えてね、おはー、おーいーな!」

「あの……、何でしょうか?」

「美樹ちゃん。由井がどうかしたのか?」

 加積も不思議に思って美樹に尋ねると、美樹達は平然と返してきた。


「きよしくん、あいさつしてる」

「うん、まりちゃん」

「え!?」

 それを聞いた加積は無言で片眉を上げ、当事者の由井は驚いて目の前の淳志を見やった。しかし淳志は、未だに彼と視線を合わせずに、上の方を見ながら楽しげに話し続ける。


「あま、あーいーね、きよ、ゆたい、てんなーう!」

 それを眺めていた安曇が、真顔で呟いた。

「きよくん、めんくい。はつこい?」

「いっさいだし、やっぱりはつこいかな……。でも、はつこいって、みのらないし。さっさと、すませたほう、いいよね」

 しみじみと美樹が言った内容を耳にした安曇が、不思議そうな顔になった。


「ほんと?」

「うん。だって、よしきのはつこい、かづみさん」

「…………」

 サラッと言われた内容を聞いて、男達が無言で顔を見合わせる。そんな中、安曇が遠慮のない感想を述べる。


「よしきちゃん……、しぶい」

「ひとあじ、ちがうでしょ? でも、さくらさん、いるしねぇ」

「そっかぁ……」

 そして頷いている安曇から、男達に視線を向けた美樹は、真顔で念を押した。


「みんな。さくらさんには、ないしょね?」

 それに加積が、苦笑いで付け加える。

「あいつが聞いても、腹を抱えて馬鹿笑いするだけだと思うが、そう言う事にしておいてくれ」

「はぁ……」

「分かりました」

「聞かなかった事にします」

 そして、何やら少し考えていた安曇が、軽く美樹のパジャマの袖を引っ張りながら言い出した。


「……よしきちゃん」

「なあに?」

「あずみ、はつこい、ひでおじさん」

 それを聞いた美樹は、軽く目を見開いた。


「え? あずみちゃん、よしきのパパが、はつこいなの?」

「うん。かっこいい」

 すると美樹は、安曇の肩を両手で掴み、真正面から真顔で言い聞かせる。


「あずみちゃん……。みために、だまされちゃ、だめ。じんせい、すてるよ?」

「だめ?」

「うん。ママはきかくがいで、けっこんオッケーなの。パパ、おしりにしいてる」

「そうか……。よしこおばさん、すごー……」

 心底感心した顔付きになった安曇に、美樹は明るく笑いかけた。


「だいじょうぶ! あずみちゃんおとなになるまで、いろいろおしえる!」

「うん、おねがい」

(父親に惚れたら人生捨てるって……、娘の台詞としてはどうなんだ? 美子さんが規格外だと言う事も併せて、否定はできないが)

 共にこの屋敷に出入りしている、美子夫婦の事を知っている男達は、楽しげに語り合っている二人を見て微妙な顔付きになったが、その間も淳志は、大人達には何もないように見える空間に向かって、一生懸命話しかけていた。


「あーちゃ、てるめ、るちゃーね!」

「きよしくん、いっぱい、アピール」

「まりちゃん、かわいいし。ウキウキの、せいしゅんだね」

 美樹が真顔で頷いていると、ここで安曇が不思議そうに言い出した。


「よしきちゃん、いいの?」

「なにが?」

「まりちゃん、いきてない。いきてないおんなのこ、すき、おたく」

 淡々とそんな事を指摘した安曇に、美樹は否定の言葉を返した。


「あずみちゃん。それはちょっと、ちがう」

「ちがう?」

「うん。おたくって、にじげん、すきなひとのこと」

「にじげん?」

 本気で首を傾げた安曇に、美樹が重々しく頷き、空中で大きく指を動かしながら、説明を続ける。


「そう。たてと、よこ。テレビとか、マンガとか、ピラピラで、たいらなおんなのこ、すきなのが、おたくさん」

「うん。たいら、ぴらぴら」

「だけど、さんじげんは、たてと、よこと、たかさ」

「たて、よこ、たかさ?」

 一度素直に頷いたものの、再び当惑した顔になった安曇に対し、美樹は淳志が見上げている辺りを指差しながら、きっぱりと断言した。


「ほら! たてと、よこと、たかさ。まりちゃん、りっぱなさんじげん! からだがすけても、ぜんぜんもんだいなし!」

「すき、いい?」

「もちろん! すきでも、おたくじゃないよ」

「そっかー」

 そしてにこにこと笑い合っている幼女二人に対して、男達は心の中で(いや、ちょっと待て! 明らかに、問題大有りだろうが!?)と、盛大に突っ込みを入れた。更に当事者の由井は、余計に狼狽しながら加積に尋ねる。


「あの! この子達に、鞠子の事は……」

「無関係な子供相手に、そんな事を一々言うと思うか?」

「そう、ですよね……。それなら本当に……」

 呆れ顔の加積に、茫然自失状態の由井。するとここで、淳志が背後を振り返って訴えた。


「おーぶん、あーちゃ! まーちゃ、うたー!」

 それを聞いた安曇と美樹が、変な顔になった。

「え? あれ?」

「ほんとう。なんだか、げんきないねぇ……。よし! あずみちゃん、きよしくん、どーんといって!」

 すかさず美樹が指示をすると、安曇と淳志は叫びながら、由井に体当たりする勢いで抱き付いた。


「うん! えねるぎー、ちゃ――じ!」

「ちゃー!」

「う、うおぅ!?」

 いきなり抱き付かれて、さすがに由井が動揺した声を出したが、一歳児と二歳児に両側から抱きつかれても、どうと言う事は無かった。そして少ししてから、美樹が満足そうに宣言する。


「よし、ちゃーじかんりょう! ふたりとも、はなれていいよ。これでしばらく、まりちゃん、おじさん、ばっちりまもるから」

「かーぺき!」

「まーちゃ!」

「…………」

 子供達が笑顔を向ける中、由井はまだ無言で固まっていたが、再び油井の頭上に話しかけ始めた淳志を放置して、安曇が隣の男の頭上を指差しながら言い出した。


「よしきちゃん、あれ……」

 その指さされた場所を見て、美樹が不思議そうな顔になる。

「うん? なんかおかね、ボロボロだねぇ。もったいない」

「うん、かみくず。ごみ」

「…………」

 安曇は真顔でうんうん頷いたが、美樹は橘の頭上を真剣に見ながら呟いた。


「でも……、したでなにか、ひかってる」

「だいや? きんかい?」

「ピカピカ、ちがうよ。でも、もっとかちがあって、ちょーちょー、れあなやつ。だからおかね、すぐ、ざっくざく」

「ふぅん?」

「…………」

 無言の橘の前で、安曇は不思議そうに首を傾げたが、そこで何気なく更に奥を見やった彼女は、驚いた声を出した。


「あ、いたい、いたいだー」

「……ほんとだ。ちがドクドクだね」

「はぁ?」

 顔をしかめながら言われた内容に、これまで傍観を決め込んでいた春日は、僅かに顔を引き攣らせたが、安曇はそんな反応に構わず歩み寄り、春日の左肩と右太ももを触りながら、元気におまじないをかけ始める。


「いたいいたい、とんでけー! いたいいたい、とんでけー!」

「うん、ほんとにいたそう。ぼうだんチョッキのとこ、あたっても、へいきだけど」

「え、ええと……、あの……」

 しみじみと美樹が見下ろしながら口にした言葉に、春日が咄嗟に返す言葉が浮かばずに狼狽していると、ここでいきなり襖が引き開けられた。


「皆、迎えに来たわよ? どうしたの? おやすみの挨拶だけかと思ったのに、なかなか戻って来ないから、迎えに来ちゃったわ」

 現れた桜に、不思議そうに言われた美樹は、慌てて振り返った。


「さくらさん、ごめんなさい。いまいくね?」

 そして再び加積達に向き直って、ぺこりと頭を下げる。

「おじゃましました。あずみちゃん、きよしくん。いくよ?」

「おやすみー!」

「ねんねー!」

 そして美樹達は上機嫌で去って行き、その場に取り残された男達は、呆然とした顔を見合わせた。 


「何だったんでしょうか?」

「それは俺も聞きたいが……」

「鞠子……」

 ボソッと呟いた由井に他の者が目を向けると、彼は取り出したハンカチで、目頭を押さえているところだった。


「そうか。鞠子が、俺の側に居るか……」

「おい、由井」

 涙声の由井を嗜めようと橘が声をかけたところで、彼の懐から鋭い着信音が鳴り響いた。それを耳にした彼は舌打ちしたそうな表情になったが、加積が鷹揚に声をかける。

「橘、構わんぞ」

「失礼します」

 そして一応断りを入れてから、橘は電話に出た。


「どうした、こんな時間に。…………はぁあ!? それは本当か!?」

 最初、不機嫌極まりない声だった橘だったが、すぐに声を裏返らせ、電話越しに何やら確認を始めた。そして一分ほどで通話を終わらせる。

「……ああ、分かった」

「どうかしたのか?」

 そして元通り橘がスマホを上着のポケットにしまってから、加積が声をかけると、橘はまだ少々茫然としながら、電話の内容を語り出した。


「それが……、一昨年買収したものの、不良債権化していた南米の鉱山から、重レアアースが採掘されまして。一緒に買収した採掘業者の株価が、鰻登りに上がっているとの連絡が入りました」

 それを聞いた、利に敏いその場の男達の表情が、一瞬にして変わった。


「ほう? レアアースの中でも希少価値の高い、重レアアースが本当にか? これまでの採掘実績があるのは、殆ど中国国内だろう?」

「はい。それが南米で発見されたのも驚きですが、その埋蔵量がかなりの量らしいです」

「その話が本当なら、会社の株価もそうだが、希少価値があるレアアースの採掘が軌道に乗ったら、その利益はもの凄いだろうな。下手したら流通量と連動して、価格も変わるかもしれんが」

「それは幾らでも調節が利きます。これで今回、私どもが出した損失など、物の数ではありませんよ!」

「十億が、物の数では無いか……」

 徐々に興奮気味になった橘を見て、加積は苦笑した。そして笑いを抑えてから、春日に視線を向ける。


「さて、そうなると、春日」

「はい」

「あの娘達に、あれだけ痛そうと言われたからには、暫くはよくよく注意しないといけないだろうな。公社の防犯警備部門から、お前の所に優先的に派遣させよう」

「宜しくお願いします」

「防弾チョッキは必須だ。それから、安曇ちゃんに撫でられた所は、プロテクターか何かででも、ガードしておいた方が良いな。警護の人間と相談しろ」

「そうします」

 ひたすら神妙に頭を下げた春日に頷いてから、加積は三人を見回しながら、笑いを堪える表情になって言い聞かせた。


「さて、雁首揃えて俺に頼み込みに来たが、美樹ちゃん達の話を聞く限り、粗方の心配事は片付いたし、対処は出来そうだな。何か他に、俺に言いたい事はあるか?」

「いえ、当面は自力でやってみます」

「お手を煩わせる事は、無いかと思います」

「重々、身辺に注意を払いますので」

 揃って真顔で頭を下げた面々を見て、加積は満足そうに笑った。


「そうか。それでは何か困った事があれば、また顔を出しに来い。その時には、あの子達が遊ぶような玩具の一つでも、賄賂代わりに持参するんだな」

「そうします」

 そして男達も苦笑しながら再度一礼し、大人しく加積邸を辞去した。


 ※※※


 それからひと月程して、ほぼ同時期に藤宮家と谷垣家、小早川家の状況が好転し、美樹達は加積邸から、各自の家に戻る事になった。

 加積と桜は残念そうに子供達を送り出し、小さい安曇と淳志はすっかり慣れた屋敷から離れるのを嫌がったが、自宅に帰れば上機嫌で両親にまとわりついていた。


「おう、安曇。久しぶりだな! 大変な時に日本にいなくて、悪かったな!」

「だいじょーぶ!」

 力強く頷いた娘を見て、康太が豪快に笑う。


「そうかそうか。確か美子さんの知り合いのお金持ちの所で、美樹ちゃん達と一緒に預かって貰ったんだよな? 立派なお屋敷だったか?」

「うん! にわ、おっきーの!」

「それはよかったな。マンション暮らしだから、何よりだろう。何をして遊んだ?」

「えっと、かくれんぼとー、おにごっこ! ぼーるなげ、どろだんごー!」

「庭が広いと、遊び甲斐があるよな」

 元気良く報告してくる安曇に、自然と康太の笑みも深くなった。


「あな、なまごみ、どーん!」

 それを聞いた康太は、ちょっと変な顔をした。

「生ゴミ? コンポスターとかで生ゴミを肥料にして、使っている家だったのかな?」

「えころじー」

「そうか。子供の情操教育にも、良い所だったみたいだな。後で美子さんを介して、こちらからも改めてお礼をしないと」

 そう言って康太が満足げに頷くと、美恵もしみじみと同意する。


「本当ね。姉さんの所も大変だったのに、すっかり迷惑をかけちゃったわ。資金繰りに目処が付いて経営は安定したし、休みを取って家族旅行にでも行きましょうか?」

「お、それは良いな」

「おやすみ! りょこうー!」

 美恵の提案に、康太と安曇は一も二もなく賛成し、早速どこに行くかで話が盛り上がった。



 一方、小早川家では、淳が淳志を抱き上げながら、笑顔で話しかけていた。

「淳志、随分長い間預けてしまって、悪かったな。これからは、パパとママと一緒だからな」

「ぱぱー! ままー!」

 すこぶる上機嫌の淳志に、淳の顔が自然に緩む。


「お前、元気だし、ぷくぷくのつやつやだな? 美樹ちゃんや安曇ちゃんと一緒で、楽しかったか?」

「ふきゃー! おーぶん、こぶーん!」

「え?」

 楽しげに淳志がそう声を上げた瞬間、淳の顔が強張った。しかし淳志はそのまま、上機嫌に喋り始める。

「まーちゃー、しゅきー! へーたい、どーん! うはうは、てーちゅー!」

 それを聞いた淳は、淳志を抱えたまま、険しい表情で美実を振り返った。


「おい……。淳志が何だか、変な言葉を覚えて来たぞ」

「え? 気のせいじゃないの? 何を言っているのか、まだ良く分からないし」

「なーごみ、はーこい、のーはつ、せーのう、あめあめー」

「違う! 絶対、何かろくでもない事を喋っているぞ! だから俺は加積の所に、淳志を預けるのは嫌だったんだ!」

「だから、それは気のせいよ。それに今更言っても、仕方がないじゃない」

 呆れ果てたと言った表情で応じた美実だったが、淳は未だに何やら一生懸命喋っている淳志を両脇で掴み、勢い良くソファーから立ち上がりながら彼に目線を合わせ、険しい顔で語気強く言い聞かせた。


「淳志! 加積の所にいた時の記憶を、即刻消去しろ! このままだとお前は、ろくでもない人生を送る事になるぞ!!」

「ちょっと淳、淳志を揺さぶらないで!!」

「うきゃあーっ! ぶるー、ぶるーん!」

 それから暫く小早川家は、鬼気迫る表情の淳に美実が血相を変えて組み付き、変わらず淳志だけが上機嫌に笑っているという、混沌とした状態になっていた。

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