美樹十一歳、引導の渡し方
とある月曜日の朝。桜査警公社のあちこちで、同様の会話が声高に語られていた。
「どうだった? 昨日の食事会」
「いや~、マジ美味かった! 酒も料理も夜景も最高! しかも家族全員ご招待だぜ? もうカミさんが大喜びで」
「俺も行かせて貰ったけど、本当に店内完全貸し切りでビビったぞ。あそこは普段は安くても、一万円からのコースなのに」
「最後にお土産まで貰ったぜ? 商品券と家族人数分のディズニーランドのパスポートチケット」
「本当か!? いやぁ~、今度行くのが楽しみだな」
誰かが前日の日曜日に開催された、スポンサーが美樹の、会社主催社員対象の食事会を話題に出した途端、仕事そっちのけで盛り上がる各部署。本来なら窘める立場の管理職達まで、その恩恵に預かっているともなれば、話をさっさと切り上げる事など不可能だった。
「本当に凄いよな。『予想外に利益が出たので、社員の皆さんにお裾分け』って、美樹様が通達を出した時は、何の冗談かと思っていたけど」
「俺なんか、希望日と参加家族人数、希望店名のアンケートを出した後も、冗談かと思っていたんだが。いや、本当に度肝抜かれたわ」
「本当に美樹様は、スケールが違うよな。全社員対象なんだろう?」
「格の違いって奴? いやあ、本当に実感した」
そして美樹を褒め称える会話をした後に、お約束の様にどこからか美那の話題が出る。
「しかし本当に美那様も凄いよな。それだけの利益を叩き出してるって事だし」
「三歳だぞ、三歳。とんでもない天才児だよな」
「さすが、あの社長の娘で、美樹様の妹だよ」
「美那様がここの財務部に入ってくれたら、正に鬼に金棒じゃないか?」
「本当に万々歳だよな!」
廊下から響いて来るそんな会話を聞き流しながら、資料室でここ数年の財務諸表全てに目を通していた和真は、漸くここ最近の、美樹の不審行動の理由に納得がいって、溜め息を吐きながら分厚いファイルを閉じた。
(なるほど……、そういう事か。あいつが最近頻繁に財務諸表に目を通していた理由が、漸く分かったぞ。正直、これは盲点だったな)
そして無言のまま棚にファイルを片付けた彼は、何事も無かったかのように本来の職場へと向かった。
その日の夕方近く、時計を見て時刻を確認した和真は、約束を思い出して立ち上がった。
「ちょっと抜ける。何かあったら電話してくれ。社内には居る」
「分かりました」
近くの席の部下に言い付けて部屋を出た和真は、フロアを移動して指定された場所で美樹を待つ。正直、指示された内容の意味が全く分からなかったが、大人しく待つ事五分。廊下の向こうから美那の手を引いた美樹が現れた。
「和真、悪いわね。今日も美那を宜しく」
「かずにぃ!」
「おう。しかし今日はどうしてここで引き渡しなんだ?」
「今日は公社内のいろいろな部署を、美那に見せて来たのよ」
「けんがく!」
「そうか、面白かったか?」
「うん!」
満足そうに頷いた美那を見下ろした和真だったが、(絶対それだけじゃないよな?)と疑わし気に美樹を見やると、彼女は予想に違わずニヤリと少々意地悪く笑ってから、さり気なく話題を出した。
「そう言えば、顔を出したあちこちの部署でお礼を言われたんだけど、和真は食事会に行った?」
「いや、仕事の都合もあってまだだ。来週出る予定だが」
「そう。あそこ結構美味しいから、期待してて」
「ああ」
そこで背後に人影と気配を感じた和真が、さり気なくそちらに注意を向けて確認すると、このフロアに職場がある、とある人物のそれと合致した為、目の前の美樹を見て合点がいった。
(この気配は……。ああ、なるほど。それならこっちから、直接話題を出してやるか。後から役立たずとか無能とか罵られるのは、真っ平ごめんだからな)
素早く算段を立てた和真は、ここで問いを発した。
「ところで美樹。どうしてこんな事をした?」
「あら、こんな事って、何の事かしら?」
(おいおい、笑顔が凶悪過ぎるぞ。まったく、やる気満々でいやがる。手加減って物を少しは覚えろよな)
明らかに全てお見通しであると分かる笑顔に、和真は本気でうんざりしたが、そのまま話を続行させた。
「ふざけた食事会の事だ。しかも美那が小手先で稼いだ金を、社内に見せびらかしてだぞ? 少々悪趣味過ぎると思うが」
そこで美樹は、わざとらしく勿体ぶって言い出す。
「私が将来、ここの社長になるのは既定路線だから、この間、色々と調べてみたのよね。各部署とも私が納得できる働きをしているけど、一つだけ不満な部署があるの」
「どこの事だ?」
「財務部よ。決まってるでしょ?」
(本当に容赦ないよな)
美樹が断言した途端、背後から怒りのオーラが漂ってきたが、和真は歯牙にもかけなかった。それは当然美樹も同様で、更に辛辣な内容を語り出す。
「社内への予算配分決算、給与や税金の計算、内外の振り込み回収業務を行う経理部とは切り離された、桜査警公社の資産運用を担当する少数精鋭部署。全員、加積さん直々に引っ張った、訳あり有能集団って話だったけど、それってはっきり言って、過去の話になりつつあるわね」
「どういう意味だ?」
「加積さんが亡くなって三年……、ううん、その前から四年近く。財務部の活動が、精彩を欠いているのよ。それより以前は、株や証券、外貨とかの動産の運用は、必要に応じて加積さんが指示を出していたとは思うけど、それだけでは無いでしょう? 財務部が独自に運用していたのが大きいわ」
「それで?」
自ら調べて確認した内容だった為、和真はとっくに知っていたが、特に口を挟まずに話を続けさせた。
「財務部が捻り出したその巨大な利益で、公社を危なげなく運営する事ができたのよ。ここは特殊な、高額の支払い能力がある顧客を選ぶわ。でも途切れずに、定期的な依頼があるとは限らない。それでも必要な人員の確保と育成、途切れない幅広い情報収集、政財界とのコネ作りの為に、その巨額の利益が惜しげも無く途切れなく投入されてきたからこそ、今の桜査警公社があるのよ」
「そうだな。社員の福利厚生や秘密保持の為にも、かなりの金額が必要だしな」
「ええ、組織を円滑に回す血液が、潤沢な資金。それを社内隅々に巡回させるのが経理部だけど、必要な血液を作り出す役割が財務部。いくら実働部隊の手足と動かす上層部が有能でも、血液が無ければ動けないわ」
「確かに、色々と荒っぽい使い方をしてるよな……」
自分達も調査の過程で、結構金をばらまいている自覚があった為、思わず和真は遠い目をしてしまったが、ここで美樹は容赦が無さ過ぎる事を言い出した。
「それなのに、この十年来の動産の状況を精査してみたら、加積さんが弱ってきた途端、消極的な運用になって。特にこの二年程は、元々の資産を保つのがやっとという位、汲々としてるのよ? 貧乏たらしいったらありゃしない。それでも加積さんが直々に引き抜いた、資産運用のエリートなの? ちゃんちゃらおかしいわ。損を出さなきゃ良いって物じゃないのよ? このままジリ貧なのを、黙って見てろっていうわけ? 冗談じゃないわ」
「それで? お前はどうしたいんだ?」
チラッと背後に目をやりながら尋ねた和真だったが、美樹の発言は一向にブレなかった。
「どうもこうも、私は使えない手下を持つ気はないわ。加積さんほど優しくはないのよ」
「……本当にお前を見ていると、あの強欲ジジイが善人に思えてくるから不思議だよな。連中に、退職勧奨でもする気か?」
頭痛を覚えながら和真が尋ねると、美樹は鼻で笑った。
「はっ、冗談でしょ? 使えない手下なんかに、そんな手間をかけるのも面倒よ。ここまで子供に負けているんだから、恥って物を知っていれば、自分から辞めるわよ。それじゃあ訓練に行って来るから、今日も美那の事を宜しくね」
「ああ、行って来い」
話は終わったとばかりに、いつも通り美那を自分に押し付けて武道場に向かう美樹を見送りながら、和真は笑い出したいのを堪えた。
(ここまで大がかりな事をやらかして手間暇かけやがったくせに、何が『手間をかけるのも面倒』だ。本当に容赦ないな、あいつは。さて、どうしたものか……)
そんな思考を、美那の甲高い声が遮る。
「かずにぃ!」
「おう、美那。どうした?」
「あのね、ざいむぶさん、いく」
それを聞いた和真は、本気で首を傾げた。
「財務部? お前がそこに、何の用があるんだ?」
「いちばんおっきいひと、あう」
「はあ?」
真顔で言われたその内容を頭の中で数秒吟味した和真は、少々自信なさげに確認を入れた。
「『いちばんおっきいひと』って……、ひょっとして財務部で一番偉い人って事か? お前、財務部の所属社員の身長なんか知らないだろう?」
「そうなの?」
首を傾げた美那に、和真は断言できないまま話を続ける。
「だと思うが……。取り敢えず、財務部で一番偉い人なら、すぐに会えるぞ?」
「ほんとう?」
「ああ、ちょっと待ってろ」
そこで和真は背後を振り返り、一見無人に見える廊下の向こうに少し大きめの声で呼びかけた。
「おい、田所のオッサン! ご指名だ、出て来いよ。聞こえてんだろ?」
その声に応じて、白髪交じりの初老の男が、苦虫を噛み潰したような顔つきで曲がり角の陰から出て来た。
「……いつから、気が付いていた?」
唸る様に尋ねてきた財務部部長の田所に、和真は薄笑いで答える。
「殆ど最初から聞いていただろ? あんた、俺の仕事を舐めてんのか? こんな至近距離で、気配を感じ取れないわけ無いだろうが。あんたの弁護をする気なんか無いから、美樹には何も言わなかったがな」
「…………」
それを聞いた田所の眉間の皺が更に増えたが、和真は全く恐れ入ったりはしなかった。
(とは言っても、絶対美樹の奴も気が付いていた上で、遠慮なく暴言垂れ流していたのに決まっているがな。本当におっかねえ奴。それに時間指定で、俺をこんな所に呼び出していた事を考えると、どう考えても田所のオッサンの煙草タイムのスケジュールを把握した上で、仕組んだとしか思えないぞ)
そんな事を考えた和真は、美樹の切れすぎる頭脳に、密かに戦慄していた。
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