美樹四歳、落とし穴への誘導

 美樹達のからかいから逃げるように美子達の寝室にやって来た美野は、姉の前で神妙に頭を下げた。


「美子姉さん、本当にごめんなさい。大変な時に、家を離れてしまって」

 心底申し訳無さそうに詫びてきた妹を、ベッドに寝ている美子が苦笑いしながら宥める。

「確かに勢いに任せて婚姻届を出したのは誉められないけど、あなた達は立派な成人で、お互いに納得した上で結婚したんでしょう? それなら実家の事より、当面は自分達の生活を優先しなさい。色々慣れるまでは大変でしょうしね」

「確かにそうだけど……」

 まだかなり引け目を感じているらしい美野を見て、美子はさり気なく話題を変えた。


「それよりも、結婚を期に仕事を辞めるとは言っても、今月末までは勤務を続けるんでしょう? 実家の事よりも、最後まで責任を持って仕事をしなさいね?」

「そうするわ。でも美子姉さんの体調が良くなって、本当に良かった。なかなか退院できなくて、心配していたから」

「私がいない間、時々来てくれていたんでしょう? 助かったわ、ありがとう」

「そんな……。本当に大した事はしていないし……」

 そこで漸く美野の顔付きも明るくなり、美子は安堵した。それと同時に、(普通だったら、もう少し落ち着いて結婚を祝ってあげたのに)と思いつつ、この間気になっていた事を尋ねてみる。


「そう言えば、美野。先に入籍だけしてしまったけど、結婚式や披露宴はしないの?」

「あ、実はそれに関する事だけど……」

 そう言われて、漸く今日ここに来た用件の一つを思い出した美野は、慌てて持ってきたハンドバッグから一枚の紙を取り出した。


「少し前から光輝さんと話をしていて。四ヶ月後にしようと思って、会場を押さえたの」

「それなら良かったわ。その頃なら、私も問題無く参加できそうだし」

「それでね? 藤宮家側の招待客として、このリストの人達に招待状を送りたいんだけど……。美子姉さん、見て貰える?」

「ええ、貸して頂戴」

 恐縮気味に出された紙を受け取った美子は、そのリストに素早く目を走らせた。そして無言のまま、僅かに眉根を寄せていると、美野が神妙にお伺いを立ててくる。


「どう? 駄目かしら?」

「駄目と言うか……。確かに半分位は親戚で埋まっているけど、他は旭日食品や旭日ホールディングスの重役の方ばかりだから、美野とは直接の関係は無い方々でしょう? どうしてこの人達を招待しないといけないの?」

 美子としては当然の疑問を口にすると、その姉の反応を予想していた美野が、控え目に理由を述べる。

「それは、確かにそうだけど……。光輝さんが『せっかくの祝いの席だから、この機会に皆さんと少しでもお近づきになりたいから』と言って……。駄目かしら?」

 困ったように再度尋ねてきた美野を見て、美子は小さく溜め息を吐いてから言葉を返した。


「これは、お父さんに聞いてみないとね。美野と直接の面識は無い方ばかりだから、招待するとなったらお父さんから話を通して貰わないと、相手も戸惑われるだろうし。取り敢えず、これは預かっておくわ」

「ありがとう、美子姉さん」

 最悪の場合、頭ごなしに叱られる可能性もあると考えていた美野は、受け取って貰った事にすっかり安心して頷いた。

 それから暫く新生活の話などをしてから、美野はあまり美子を疲れさせない様にと考えて立ち上がる。


「それじゃあ、美子姉さん。また顔を見に来るわね」

「ええ、待ってるわ」

 そしてベッドに横たわったまま、笑顔で妹を見送った美子だったが、美野が廊下に出るなり先程受け取った用紙を取り上げ、苦々しい表情でそれを見上げた。


「美野がお人好しなのにつけ込んで、こんなあからさまな上層部へのアピールを……。本当にろくでもないわね」

 実力主義の父親と夫に加え、タイプは違えど他人の威光など当てにしない独立独歩の気風を持つ義弟二人と上坂を比較した美子は、忌々しげに悪態を吐いた。

 姉がそんな風に夫を酷評しているなど夢にも思っていなかった美野は、上機嫌で階段を下りて応接間へと向かった。


(美子姉さん、思っていたより元気そうで良かった。それに光輝さんに頼まれたリストも、ちゃんと預かって貰えたし)

 そんな足取りも軽い美野に、唐突に声がかけられた。

「あ、らぶらぶ、しんこんさん」

「え!? あ、安曇ちゃん? 何?」

 一階に下りた途端に声をかけてきた安曇に、美野が動揺しながら尋ねると、横から美樹が窘めてきた。


「あずみちゃん、からかっちゃだめ。よしのちゃん、すぐまっかになるし」

「まっか~、ゆでだこ~」

「だから、それがだめよ?」

 そんな風に優しく従妹に言い聞かせている美樹に、落ち着きを取り戻した美野が尋ねた。


「美樹ちゃん。廊下で二人だけで、何をしているの?」

「こうきおじさんが、よしのちゃんとのらぶらぶせいかつをばくろして、あついからぬけてきたの」

「あっつあつぅ~」

「え、えぇ!?」

 淡々とした幼児二人の説明に、美野は夫が何をしているのかと動揺したが、すぐに美樹が否定してきた。


「っていうのは、じょうだん。あずみちゃんのといれに、つきあっただけ」

「そ、そうなの……」

(一瞬、驚いたわ。光輝さんがそんなタイプじゃないとは分かってるけど。でも冗談だなんて……、美幸が普段こんな調子で、美樹ちゃんと話をしているわけじゃないでしょうね?)

 気が休まらない美野は心の中で妹に八つ当たりしたが、美野の動揺を誘う美樹達の会話は、それからも続いた。


「よしのちゃん、こうきおじさん、なかよしさん」

「え? な、何が?」

 また安曇が唐突に言い出し、美野が当惑する中、美樹が補足説明をする。

「こうきおじさんと、いろいろおはなししたけど、のろけてるなぁってこと」

「『惚気』って何!?」

「こうきおじさん、しゅみがしゃしんだよね?」

 そこで急に話題を変えられて、美野は動揺しながらも律儀に答えた。


「え? 別に写真を撮るのが趣味って、聞いた事は無いような……」

「よしのちゃんのしゃしん、いっぱいとったよね?」

「一杯って程では無いけど……、確かに撮ってくれたわよ?」

 どうしてこんな事を聞くのかと、美野が不思議に思いながらも答えると、美樹はしたり顔で話を続けた。


「けっこんして、はじめてのよしのちゃんのたんじょうび、もうすぐだよね。こっそりふぉとぶっくとか、つくってるんじゃないかなぁ。『おれたちのあいのきせきだよ?』とかいって」

「あい~の~、きせ~き~、らぶ~らぶ~」

 微妙にニヤニヤとした笑みを浮かべながら、安曇が歌うように言い出した為、美野の顔が瞬時に真っ赤になった。


「あああ愛の軌跡って! 美樹ちゃん、一体どこからそういう言葉を覚えたの!?」

「よしゆきちゃん」

「もう! 本当に美幸ったら、小さな子供に向かって何を言ってるのよ!!」

 完全に濡れ衣を着せられた美幸だったが、本人はこの場にいないため、知りようも無かった。すると美樹が、真顔で言い出す。


「でも、よしのちゃん」

「な、何かしら?」

「ぐうぜん、つくっているのみても、しらんぷりが、おとなのじょせいのたしなみ」

「うん、しゅくじょ」

「嗜み……、淑女って……」

 二人から真顔で言われた幼女らしくない言葉に、美野は思わず固まった。すると美樹が、更に話題を変えてくる。


「それでね? おじさんの、おかあさんのこときいた」

「え? お義母さんの事?」

「なんと! たんじょうびが、よしきのたんじょうびと、じゅうさんにちちがい!」

 如何にも重大発表のように、ハイテンションで報告した美樹を見て、美野は困惑しながら言葉を返した。


「それは……、知らなかったわ。お義母さんの誕生日まで、聞いていなかったから」

「じゅうさんにちの、きんようび~! ぱやっぱやぱや~!」

「…………」

 安曇まで美樹と同じテンションで高らかに告げてきた為、何と言ったら分からなかった美野は、思わず押し黙った。すると美樹が、微妙に話題を変えてくる。


「こうきおじさん、おかあさんだいすき。わすれないからって、ぱすわーど、なまえとたんじょうび、つかいそう」

「え?」

 全然脈絡の無い事を言われた為、どうしてそんな事を言い出したのかと美野が尋ねようとした時、安曇が何気なく言い出した。


「おじさん、まざこん?」

「ええと、それは」

「あずみちゃん、それちがう。かぞくをだいじにできないひと、もとはあかのたにんのおくさん、だいじにできないよ? まざこんなんて、いっちゃだめ」

「……うん、ごめんなさい」

 美野の声を遮って美樹が優しく言い聞かせ、安曇が美野に向かってぺこりと頭を下げる。それを見た美野は、すっかり感心しながら二人に向かって微笑んだ。


「ううん、良いのよ。本人に向かって言ったわけではないし。でも確かに美樹ちゃんの言うとおり、いきなり本人に向かって言ったら失礼になる事もあるから、気をつけましょうね?」

「うん」

「じゃあ、といれにいってくるね」

「いってらっしゃい」

 そして安曇の手を取ってトイレに向かった美樹の背中を見ながら、美野はしみじみとした口調で呟いた。


「本当に美樹ちゃんって、小さいのに面倒見は良いし、物の道理を分かっている、頭の良い子だわ。さすが美子姉さんと、秀明義兄さんの娘よね」

 そんな風に美樹を褒め称えてから、美野は夫を待たせている応接間へと戻った。



「さようならー」

「ばいばーい」

「うきゃーっ!」

 和やかに一時を過ごしてから美野と上坂は腰を上げ、子供達はそんな二人を、玄関で笑顔で見送った。そして玄関に鍵をかけた美幸が、先程までぶんぶんと両手を振っていた淳志の後ろ姿を見ながら、遅れて廊下を歩き出す。


「淳志君が、上坂さんに随分懐いちゃって驚いたわ。でも帰る時に大泣きしたら困ると思っていたら、あっさり見送ってくれて助かったけど」

「それは俺も同感だ。最初、淳志は小早川君と上坂君を取り違えているのかと思ったが、最後の方は『パパ』とも言って無かったみたいだしな」

 昌典も同様の表情で頷くと、何やら考え込んだ秀明は取り出したスマホを操作してから、前を歩く淳志に声をかけて呼び止め、ディスプレイに映し出された淳の写真を見せた。


「淳志君、これは誰か分かるか?」

「ぱぱ!」

 笑顔での即答に、秀明は「それなら」と呟きながら美野と上坂のツーショット写真を呼び出し、上坂を指差しながら再度尋ねてみた。


「淳志君、それならこれは誰かな?」

「へーたい!」

「……兵隊?」

 再び笑顔で即答されたが、今度の答えに秀明は困惑した。それは他の者も同様で、思わず顔を見合わせる。


「どうして兵隊なの? 平社員とかの意味かしら?」

「一歳児に、そんな事は分からないだろう。だが取り敢えず、小早川君と上坂君の事は、きちんと区別しているみたいだな」

「本当に良かったです。暫く会えていないせいで息子に顔を忘れられて、他人と間違えられてしまっていたら、淳が不憫過ぎます」

 秀明がそう結論付け、昌典と美幸が「全くその通り」と深く頷いて、奥へと戻って行った。

 藤宮家でそんなやり取りがされていた頃、上坂と美野は並んで最寄り駅へと向かっていた。


「光輝さん、今日は付き合わせてしまってごめんなさい。疲れたでしょう?」

「いや、俺はもっぱら淳志君の相手をしていたし、どうって事は無かったから。それに今日は社長や部長とも、淳志君に関する話題で結構盛り上がったし」

「そうなの? それなら良かったわ。それから招待客のリストを、美子姉さんに頼んできたの。父と相談してくれるそうよ」

 それを聞いた上坂は、ほっとした表情を見せた。


「そうか。なんか厚かましい事をお願いして、申し訳なかったな。まだお義姉さんは無理できないだろうし、俺に構わずいつでも実家に手伝いに行って構わないからな?」

「ええ、ありがとう」

 気前の良い事を言った上坂に礼を言ってから、美野は思い出した様に言い出した。


「ところで、今日は子供達と随分仲良くなったみたいね。美樹ちゃん達に、家族や趣味の話とかしたみたいだし」

「家族の? そんなに話をしたかな? 聞かれれば答えていたけど、淳志君の相手をするのが主だったし」

「そうなの? 美樹ちゃんが色々話してくれたけど」

「そうなんだ……。確かにこの前までは美樹ちゃんに随分警戒されている感じだったけど、何回か会って慣れてくれたのかな?」

「そうよね、どうしても見慣れない人は警戒するもの。でも誰彼構わずすぐ懐くのも、どうかと思うわ。誘拐とかされそうで怖いし」

「確かにそうだな」

 怪訝な顔になった上坂だったが、すぐに苦笑の表情になった。そして会話が途切れてから、真顔で徐に話を切り出す。


「その……、美野?」

「何?」

「いや、何というか……。俺、まだ甥や姪がいないし、今まで小さな子供の相手をまともにした事が無かったから、子供って正直うざいと思っていたんだが……。今日、ちょっと考えが変わったと言うか、子供って可愛いかも、って……」

 そんな事を普段は見せない、いかにも照れくさそうな表情で上坂が言い出した為、美野はそれを微笑ましく思いながら答えた。


「確かに手が掛かるし、世話するのが大変だけど、本当に可愛わね」

「美野には美樹ちゃんも懐いてたみたいだし、良い母親になれそうだよな」

「そう? それなら嬉しいけど」

 素直に笑顔で応じた美野だったが、上坂は更に言葉を重ねた。


「いや、だから……。その……、美野はまだ仕事をしているし、お義姉さんの事も大変だから、もう少し様子を見るけど、落ち着いたら子供を作ろうかな、とか……」

 微妙に視線を逸らしながら、若干照れくさそうに呟いた上坂の顔を見上げた美野は、顔を僅かに赤く染めて自分も彼から視線を逸らしながら言葉を返した。


「あ……、え、ええ、そうね。落ち着いたら考えましょうか」

「そうだな」

(今日は色々あったけど、来てみて良かったわ。光輝さんはこれまで、子供の事なんか話題に出した事は無かったのに)

 それからは美野達は無言のままではあったが、互いに穏やかな表情で駅まで歩き続けた。


「あずみちゃん、きよしくん。きょうはごくろうさま。どーなっつ、おいしい?」

「うん!」

「んまー!」

 約束通り安曇と淳志にドーナッツを食べさせながら、美樹は満面の笑みで二人を誉めた。


「ふたりとも、ばつぐんのえんぎりょくだったよ? さすが、よしきのこぶんだよね」

「うん!」

「ぶんー!」

「うふふ……、このぶんなら、きょうかあしたのうちに、なんとかなりそう。さっさとよしのちゃん、まがささないかなぁ」

 そう満足そうに呟いた美樹は、自身もドーナッツにかぶりついて、綺麗に平らげたのだった。

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