第2話 ハードボイルドには騒がしい朝

「おにぃーちゃん!! 朝!! 朝だよ!! 起きなさぁい!!」


 べしり、べちりと、俺の頭を柔らかな手が叩く。


 やめてくれマイスイートシスター。

 その起こし方は、ちっともハードボイルドじゃない。


 せっかく、北方先生の小説を読んで高まった、「一仕事終えた男のハードボイルドな朝」という気分をぶち壊してくれないで欲しい。


「……もう朝か。一日が経つのも、睡眠も、瞬きする間に終わっちまうな」


「変なこと言ってないではやくベッドから出てご飯食べてよ!! 食器の片づけしてから学校に行きたいんだから!!」


「文香」


「なに?」


 フライパンを両手で持ち、朝日の中にショートポニーを揺らす少女――我が愛しすぎるスイートプリティシスター。彼女は、俺の言葉に、きょとんとした顔をした。


 身内相手でも容赦はしない。それがハードボイルド。


「お兄ちゃん、今日は、北方謙三の世界に生きているんだ」


「……はい?」


「つまりね、ハードボイルドエッグ。不器用なくらいにハードでエッグ、そんな歪で退廃的な朝を楽しみたい。そう思っていたんですよ?」


 フライパンを握るマイシスターの手に力が入った。

 その大きく愛らしい目を半分瞑る。彼女は意思の強そうな切れ長の眉を吊り上げると、手に持っているそれを大きく振り上げた。


「いいからさっさと起きる!! もうっ!! だらしないんだから!!」


 こりゃダメだ。


 ハードボイルドな朝には、女も、葉巻も、酒も、朝日も、そして愛しい妹の理解も不足している。


 いよいよ、振り上げたフライパンを、俺が眠るスプリングベッドに叩きつけようかという文香。待った降参だとばかりに俺はすかさず手を挙げた。

 枕元に置いた文庫本――昨晩読んだ北方謙三の「渇きの街」を手にして、冷たい布団の中から這い出る。


 振り上げたフライパンを降ろすと、濃藍こいあいの制服にピンク色のエプロンという姿の後ろにそれを隠したマイスイートシスター。

 よろしい、と、満足そうに笑う。

 そして、彼女は一足先にリビングに続く、部屋の扉の前へと移動した。


 やれやれ。

 いつもそうして百点満点の笑顔なら、煩わされることはないのに。

 どうしてうちの妹は、こう感情が豊かなのかね。


 彼女の移動したルートをなぞるように、俺は自室を後にする。

 リビングに置かれた二人がけのテーブルを目指して歩きながら、ふと、俺は鼻腔をくすぐる肉の焼けた香りに心を躍らせた。


「今日の朝食は」


 分かりきっているのに聞いてみる。


「ダメダメお兄ちゃんの大好きなハムエッグとトーストよ。今日は大奮発して、ピーナッツバターもつけちゃうわ」


「栄養価を考えると、サラダもほしいところだな。文香、偏食はよくないよ」


「うわぁ。自分は作らないくせに、よくそういうこと言えるね?」


 ショートポニーという愛らしい髪型ながら、どこかボーイッシュな感じのする文香の顔。それをこれでもかと歪めて、俺の妹は非難の視線をこちらに投げつけてきた。

 確かに、造りもしないのに無責任な発言だったかもしれない。


 ハードボイルドな俺は頭を掻いて、妹の責めるような視線をごまかす。

 はぁ、と、そんなダメダメお兄ちゃんを、優しい妹は深いため息ひとつで許してくれたようだった。


「なんでもいいけど早く食べて。私、今日、友達と約束あるの」


「それは男の子とかい、女の子とかい?」


「女の子と!! どうしてお兄ちゃんにそんな心配されなくちゃいけないのよ!!」


「それは俺が文香のお兄ちゃんだからだよ」


「答えになってない!!」


 いつまでたっても席に座らない俺に業を煮やしたのだろう、ほら、早く座って、と、文香はフライパンを握っていない方の手で俺の腕を引いた。

 彼女は無理やりに二人がけのダイニングテーブルの前に俺を座らせる。


 柔らかい十七歳のヒューマンの女の子の手の感触。


 ひゅぅ。

 やるじゃん。


 普通に生きてたら、こんな機会はそうそうない。


 おっとこれは、ちょっとハードボイルドにしては、三枚目が過ぎるだろうか。


◇ ◇ ◇ ◇


「「いただきます」」


 ダイニングテーブルを挟み、四本足のゆったりとした椅子に腰掛ける。

 そうして、兄妹二人、顔を見ながら手を合わせる。


 ハムエッグ様とトースト様。

 そして急きょ文香が作ってくれた、レタスサラダ――レタス100%――様。

 目の前の食物たちに宿る神に祈りを捧げて、俺たちは朝食を開始した。


 もぐ、むしゃ、ぺちゃ、くちゃ、むぐ、もご、むぐぐ。

 なんて、擬音を並べると、ライトノベルというレッテルを張られるか。


 真面目に、そしてハードボイルドに、ハムエッグを俺は食べた。


 丁寧に箸で半分に割る。

 半熟。

 いい塩梅にこぼれだして来る黄身にケチャップをたっぷりとしみこませる。

 それから、遠慮なく箸で持ち上げて、そのオレンジ色の部分にかぶりつく。


 あぁ。ハムの脂がたまらない。

 本当、この保存食は、人類が生み出した食文化の極みだ。


 ふと、ひんやりとした視線が正面から向けられているのに気がついた。文香がなんだか汚いものでも見るような眼をこちらに向けている。


 なんて顔をするんだい、マイシスター。

 どういうつもりか知らないけれど、朝からそんな目をされたら、お兄ちゃんとてもブルーな気分になっちゃうよ。


「お兄ちゃん、食い方がきたない」


「仕方ないだろ。むこうで十年も生活すれば、こっちの食い方なんて忘れるって」


「はぁ。異世界引きこもりのダメダメお兄ちゃんだものね」


「おいおい、酷い言われようだな」


「おまけにど派手な金髪にとさか頭、サングラスのヤンキールック。授業参観にお呼びできない埒外アウトロー」


「ファッション。これはお兄ちゃんのフェイバリットヒーローへのリスペクトなんだ。ヤンキールックなんて、そんな言い方はないんじゃないの」


「本当に私って、どうしてこう兄弟運に恵まれないのかしら」


「いいじゃないか。元異世界引きこもりで、金髪とさか頭のヤンキールックだけど、今はこうして、こっちでちゃんとお仕事してるでしょ?」


異世界万事屋いせかいよろずやだっけ。まともな職業じゃないよね」


「えぇ、ちょっと、文香ちゃん。そんなこと言っちゃう?」


 職業差別反対。

 お兄ちゃんは、経験豊富な異世界の知識でもって、額に汗水流して一生懸命働いているんだ。それのどこがいったいまともじゃないって言うんだ。


 いやうん、実際、まともじゃないんだけどね。


「もっとさ、一部上場企業の会社員とか、地方でいいから銀行の職員とか、そういう周りに自慢し甲斐のある仕事してよ」


「嫌だ」


 きっぱりと、マイシスターの要求を俺は断った。

 胸の前で左手と右手の人差し指を交差させて、その拒絶の意思をより明確にする。


「なんで?」


 文香が少し苛立った声で尋ねた。

 おかしいね。何度もこの問答については、答えているはずなんだが。


 まぁいい。


「それはもちろん、ハードボイルドじゃないから。男の仕事ってのは、個人事業主、これに尽きるのよ。自分の力一つで生きていくということさ」


 オーケィ?


 確認するように胸の前の指を解く。

 それから俺はマイスイートシスターへ、右手の人差し指を向けた。


 ため息をテーブルに吐きかける文香。

 つきあってられないわ、とばかりに彼女は俺の言葉をしれっと無視した。


 なるほど、だからいつもこの問答をすることになるのか。

 文香ちゃん、人の話はちゃんと聞こうね。


 特にお兄ちゃんの話は、よく聞いてね。


 俺の半切れ分の量しかないハムエッグを、さっさと食べ終えた文香。彼女は、いけない急がなくちゃと、時計を見ながらつぶやいて立ち上がった。

 制服からピンク色のエプロンをほどき、ソファーから学校指定の革カバンを拾う。


「それじゃぁ、行ってきます!!」


 と、俺に背を向けて、とリビングを出て行こうとする彼女。


 俺は箸を止めると、ちょっと待ってとその背中に声をかけた。

 びくり、と、文香の肩が震えて足が止まる。


「ちょっと文香ちゃん」


「……なに? 急いでるって言ったじゃない」


「いつもの忘れてる」


「……もう」


 いつものように、それをやり過ごそうとしていた文香だったが、俺が声をかけると、尻尾をつかまれた猫のようにその場に制止した。

 俺は立ち上がり、そんな彼女にゆっくりと近づく。


 その小さく、そしてやわらかい肩に手を回す。

 軽く肩へと力を加えてやるとと、くるりとこちらにその愛らしい妹の顔が向いた。


 かわいらしい、くりくりとした円らな瞳が俺を見上げてくる。

 プチトマトより食べごたえがありそうだ。


 ううむ、ちょっと猟奇的な表現すぎるかね。


 だが実際そう思うのだから仕方ない。

 食べちゃいたいくらい可愛いってのは困りものだね。


「私、もう、高校二年生なんだけれど」


「だめ。君がお嫁さんになって、素敵な旦那様を見つけるまで、これは続ける」


「……じゃぁ、私が結婚しなかったら、お兄ちゃんどうするわけ」


「どうもしないさ。ずっとこれを続けるだけだよ」


 男女が向かい合ってすることと言えば一つだ。


 けれど待ってほしい。

 ハードボイルドな男は、間違っても実妹にキスなんかしない。


 俺は手を、ゆったりとした動作で持ちあげると、文香の頭の上に添える。

 そして、ぽんぽんとそのつむじを優しく三回叩いた。


「文香の一日が幸福でありますように、安寧でありますように、君が今日も笑顔でありますように」


「……うぅっ、もう、やだ、これ」


「異世界流の悪運除け。よし、これで今日も一日、文香はハッピーだ」


「全然ハッピーじゃないよ!!」


 もう、と、俺の手を振り払って踵を返す文香。

 彼女はスカートを揺らすと、いってきます、と、怒るように声を発した。そして、逃げるように、リビングから続く玄関の戸をあけて出て行ったのだった。


 カツカツカツと靴がコンクリートの廊下を蹴っていく音が微かに聞こえる。

 すぐにマンションの廊下に彼女の革靴の音は消えていった。


「さて、ここからは、俺の時間――俺のための時間だ」


 いよいよハードボイルドな朝を邪魔するものは居なくなった。

 残ったハムエッグを口に放り込み、パンを胃の中に押し込んで、レタスをもりもり齧って咀嚼すると、俺は台所に向かってコーヒーミルを引き出した。


 やはり、男の朝には挽きたてのブラックコーヒー。

 これだ。


 が、しかし――。


「……しまった、豆を切らしていたんだった」


 コーヒーなどのドリンク用品をまとめている戸棚を引いたまではよかった。だが、その中にコーヒー豆の袋がないことに気が付いて、俺は愕然とした。

 昨日でお気に入りのそれを飲みきったのをすっかりと忘れていた。


 ストックもない。

 文香はコーヒー嫌いだものな。

 わざわざ買い物のついでに買い足してくれる、なんてことはしてくれない。


 うぅむ。

 どうやら、今日はとことんと、ハードボイルドに向かない日らしい。


 しかたない。


「……ココアで妥協するか」


 今はこの茶色がかった甘い飲み物で我慢するとしよう。

 ちょっとばかりスィートだが、まぁ、そんなのもたまには悪くない。

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