第4話 トランクの中にいる
クラウンのトランクスペース。
黒色をした高級感のあるマットが敷き詰められているそこに、灰色をしたトランクをできるだけ優しく、そして水平に置くと、俺はその側面のロックを――静かにスライドして外した。
慎重に、冷静に、そう、まるで証拠を残さずに秘密を覗き見るように、そっと、俺はトランクの隙間からその中をうかがう。
しかし、眼よりもまず、先に――鼻の方がそのトランクの中の異常に反応した。
きついアンモニア臭。
思わず俺はえずきそうになった。
これは――知っている匂いだ。
何日も監禁・拘束された人間が自然と放つことになる、哀れを誘う匂いだ。
あるいは、工芸品の材料として、アンモニアが使われているということを、俺は少しだけ考えた。
しかし、こんな酷い匂いのするアンティークなぞ、いったい誰が欲しがるというのだろう。
少なくとも、俺はこの中に入っているものが、黄金の装飾品だったとしても、そんなものを身に着けたいとも思わなかったし、手に入れたいとも思わない。
思わず離してしまった鼻先――そして顔。
匂いを感じない様に、鼻の穴に空気を詰めると、もう一度俺はトランクへと近づく。そして、暗い闇の中に目を凝らした。
その狭いトランクの闇の中に、脈動している何かが見えた。
定期的に上下するそれは、メトロノームのような機械的な精確さを伴っていない。どういえばいいのだろう、それは、妙になまめかしい動きをしていた。
暗闇の中に少し、視界が慣れてきた――そんな時だ。
金色をした瞳が、俺を覗き込んでいるのに俺はようやく気がついた。
すぐに、トランクを全開にする。
もはや疑う余地もなければ、躊躇している場合でもなかった。
体をレザーベルトによって動けぬように拘束され、後ろ手に回された状態で、トランクの中に押し込められている――。
それはエルフの少女であった。
服は着ていない。
捕まえられた時にか、それとも、その後にか。
乱暴をされた痕が生々しく体中に残っている彼女。
しかし、なによりも。
静脈注射によりブドウ糖、そして、何がしの麻薬だろうかを投与され、意識を白濁させた状態になっている――その姿が、一番に堪えた。
何というものの片棒を、俺は担がされてしまったのだろう。
同属の、しかも、年端もいかない少女を――俺は気づかないうちに人身売買しようとしていたのだ。
FU○K。
思わず翔から教えて貰ったスラングを叫んでいた。
急いで、俺は少女の身体から点滴を外す。
次に彼女の身体をきつく戒めているレザーの高速具を外すと、優しく彼女の頬を二・三度叩いてみた。
しかし、反応は何も返ってこない。
どうやら、末広の異世界での協力者の手により、廃人寸前まで薬漬けにされているみたいだ。酷いことをしやがる。
アイツでなくてもふつふつと怒りが胸に沸き上がって来る。
どうする、フューリィ。
いや、翔。
一度受けた仕事を反故にするのは、異世界万事屋としての信頼に関わる。
けれども、今、目の前に居る少女を見捨てることは人間として――そして同じむこう側に生まれた同族を裏切ることを意味する。
どちらかを選べというのなら。
そんなもの――答えは決まっている。
俺は、トランクの中から少女を運び出すと、クラウンの後部座席へと載せた。そして、運転席へと座ると――然るべき男に助けを求めて電話をかけた。
末広のように暇をしている男ではない。
アイツは、不条理なこちらの世界と、むこうの世界の関係を修繕するために、日夜このアメリカ大陸を横断している男だ。
捕まる方が奇跡だ。
けれども、どうしても捕まえなければならない。
十回、コールが鳴っただろうか――留守番電話の音声にそれは切り替わった。
英語でも分かる。ピーッという発信音の後に、メッセージを伝えろというのだ。
オーケィ。落ち着け。
僅かなその数秒に、できる限りの情報を詰め込むのだ。
すぐに、その電子音は、俺の耳元に鳴り響いた。
「フル!! 俺だフューリィだ!! 助けてくれ、厄介なモノを拾っちまった!! あんたの助言が欲しい!! 頼む、これを聞いたらすぐに連絡してくれ!!」
電話番号は分かるはずだ。
もし、彼が今、まさにこちらの世界でむこうの世界の正義を執行中ならば――それが終わった時にでも、連絡を寄こしてくれるだろう。
だとして、俺はいったいその時まで、どうするべきなのか。
後部座席を振り返る。
ブドウ糖と薬物から解放された少女であったが、それだけで、すぐに混濁した意識が回復するはずなどない。
異世界万事屋とはいっても、こういう事案については経験がない。
正直に言おう、俺は、どうしていいかさっぱりと分からなかった。
まずは彼女の身体を隠す布でも用意してやるべきか。
いや、それよりも、薬が切れたことによる、禁断症状を警戒するべきか。
末広との約束はどうする。
ここは米国だ、銃についての規制は緩い。何食わぬ顔をして待ち合わせの場所に行き、トランクケースの受け渡しの際に、ためらいもなく奴の頭に鉛玉を数発ぶち込んでやる――というのもいいだろう。
なに、なんとでも言い訳はできる。
ダメだ。
ろくでもない考えばかりが頭の中を巡って来る。
これは万事屋の仕事の範疇を越えている。
そして
落ち着けフューリィ。結局、焦ったところで、どうにもならないのだ。
まずは、そう、できることからするしかない――。
けどできることとはなんなのだ。
そう、思った時だ。
この裏さびれた街にはいささか似合わない、バイクの重低音が突如として駐車場に響き渡った。その音を、俺は三年前に嫌というほど聞かされた。
まさか、と、俺はサイドミラーから、
夕日を浴びて、悠然とバイクを走らせてくるその男は――そのバイクから降りられるのかと不安になるくらいに、ずんぐりむっくりとした小柄な身体をしていた。
サンタクロース。
あるいは小人病のおじいちゃん。
いいや、違う。
赤毛の髭を編み込んで垂らしているこいつのことを、俺は、よく知っている。
嫌というほど知っている。
数少ない、携帯電話のアドレス帳に登録するくらいに。
すぐさま、俺はクラウンの運転席から飛び出すと、そのバイクの前に飛び出した。
「フル!! 何故だ!? 来るのが早すぎないか!?」
「フューリィー? どうした? なんでお前がこんな所に居る?」
バイクの搭乗者は、俺の突然の登場に驚いていたが、すぐにバイクを停車させると、器用にそこから飛び降りた。
そうして、スタンドを起こして自慢の愛車――FLHRXSロードキングスペシャルの横に立つと、彼は、顎の先を擦って怪訝な目線こちらに向けた。
フル。
俺よりも早く、四半世紀前にこちらの世界に渡った、ドワーフの男だ。
こちらの世界で生きていくにあたって、俺は彼の下に一時期身を寄せて、こちらの世界がどういう仕組みで回っているのかを、よくよく教えて貰ったのだ。
文香の前に姿を現したのはその後の話――。
と、そんな思い出に浸っている場合じゃない。
「偶然なのか? どうしてあんたがこんな所に?」
「オースティンのマフィアのボスが心臓疾病を患ったそうでな――その治療のために、エルフの心臓を
「……なるほど、それじゃぁ」
「その仕事帰りって訳だ。ついでに、マフィアのボスには口を割らせた、ここの
「……やれやれ、相変わらず、驚くくらいに鮮やかな仕事ぶりだぜ。そして、もう一言、言わせてもらえるなら、その情報をアンタにタレこんだ奴は信用していいぜ」
なんてったって、その心臓を、俺が今ここまで運んできたのだから。
どういう意味だという感じの視線を俺に向けてくるフル。
そんな彼に、俺はゆっくりと指先をクラウンの後部座席へと向けてみせた。
彼の首が動く。
なるほど、と、呟いた次の瞬間には、彼は自慢のハーレーに積載している、魔術鋼で出来た斧を抜き取っていた。
「お前が運び屋かフューリィ?」
「……そうだ」
「俺がどういう男か、お前はよく知っているよな?」
「……知らなかったんだ。いや、ヤバい仕事なんじゃないかと、薄々感づいていなかったって言えば、それは嘘になる」
斧の背中をとんとんと叩いて、俺を冷たい瞳で見据えるフル。
別に言い訳をするつもりはない。実際、彼の言う通り、俺はむこうの世界の住人たちに対する背信を行ってしまった。
その事実は、何を言っても変えようのないことである。
この場で、彼に断罪されることは仕方のないことだろう。
だが――。
「それより、今はぶち殺さなくちゃ気が済まない相手が居る。それと――あの少女をどうにかして助けてやりたい」
「……なるほど。それまで、処刑を待ってくれと、言いたい訳だなフューリィ?」
「あんたにすべて任せたっていいさ。けれど、どうせやるなら、手駒は多い方がいいだろう?」
この気難しいドワーフに、妙な計略なぞが通じないのはよく知っている。
彼の心を動かすのはいつだってただひとつ――偽りのない真心である。
ふっ、と、髭で覆われたその口元が緩む。
どうやら俺の想いは、彼に十分に伝わってくれたみたいだった。
「久しぶりの再会だってのに、ろくでもねえ形になっちまったな」
「酒の一本でも持って会いに行こうかと思っていたんだ。本当だぜ」
「やめろよ、日本のビールは味が薄くって好きじゃないんだ」
斧を再び愛車の脇にぶら下がっているホルダーへと戻す。
そうしてフルは俺に、色々なものを背負ってきた男の背中を向けた。
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