第8章 イージスの盾
第8章 イージスの盾(1)
「兄弟、騎士はただの喧嘩から宗教戦争まで、そつなく鮮やかにこなさなければならない。昔、君が言っていた『シンゼンビ』と同じものを目指さなくてはいけない」
「真善美か、よく憶えているな」
「当然だ、君の流儀は俺の流儀でもある」
「それで、どうするんだ?」
「まずは圧力をかける。わざわざ血を流す必要はない。いつものように伝統と資本、信仰、それらの力を使い敵に接触する。あとは相手の出方次第だ。攻めてくれば撃ち、守りに入れば撃つ」
「わかりやすくて何よりだ。だが、あの爺さんに信仰は無力だ」
「わかっている。今回は企業が相手だ。信仰に頼るまでもないさ。資本だけで十分だろう」
「クライヴ」
「ん?」
「伝統については僕に任せてくれないか」
「何か考えがあるのかい?」
「ああ」
「わかった。これは君の戦いだ。従おう」
上泉とクライヴは月代市のオフィス街にいた。
この街の中心部に日本剛心のビルがあり、外れの古ぼけたビルの一角に
荒神銀行は日本の地方銀行の一つなのだが、この支店にいる行員は全て外国人、それも白人だけだった。
彼らはカウンターの向こう側でパソコンのモニターを凝視し、黙々と指を動かしている。
クライヴがスラックスのポケットに片手を突っ込み、もう一方の空いた手で低めに設置されたカウンターをノックした。
キーボードを叩く音が止まる。
行員たちが目を向けてくる。ずっとモニターを見つめていたせいで目の焦点が合わないのだろうか、皆、眉間にしわを寄せ、目を細めている。
クライヴは行員たちの顔を見渡し、言った。
「私はエイジス家に仕える者だ。この言葉の意味がわかる者はルイスに取り次いでくれ」
カウンター近くに座る赤毛の女性が立ち上がり、応対した。
彼女の指示で、部屋の奥にある、パーテーションで仕切られた個室に入る。
中には男性が一人いて、顔の左半分をノートパソコンのモニターに近づけ、キーボードを叩いていた。
「彼の名はルイス・ベントレー、エイジス家に縁のある投資家だ」
クライヴがルイスの前に立った。上泉はドア近くに立ち、腕組みをして様子を見守る。
「お久し振りですね、サー・クライヴ」
ルイスはモニターに顔を近づたまま言った。
「久し振りだな、ルイス」
「御話は伺っております。少々、お待ちを」
クライヴがスラックスのポケットに両手を突っ込んだ姿勢で天井を見上げている。片足を曲げ、つま先でぽんぽんと床を音を立てずに叩いた。
上泉はその後ろ姿を眺める。
以前よりも背中が広くなり、胸板が厚くなったか。
それに頭頂部から足の裏を貫く重力の垂線が、かつてはロープほどの太さに感じられたが今はさらに細くなって糸のように感じられる。
その糸にクライヴは体を預け、いつでも動けるようにしていた。
上泉はパーテーションに飾られた
額縁には写真が
日本人、真っ白な髪をオールバックにした老人で、宗像源蔵とはまた違った
額縁の隣にもう一枚、額縁があって、そちらのほうでは先ほどの男性とルイスが笑顔で握手をしていた。
「知ってる顔かい?」
クライヴが上泉の隣に立ち、ポケットに両手を突っ込んだまま背中を丸め、額縁に顔を近づけた。
「いや、知らない。クライヴは?」
クライヴは顔を離し、首を振った。
「俺も知らない」
「彼は荒神銀行の頭取です。私とは古い知り合いでして」
ルイスがようやくモニターから顔を離した。
白人、痩せていて、六〇代後半かそれぐらい。髪はなくてスキンヘッド、人の良さそうな顔をしているが、右耳が欠けている。上着は着ておらず、黄色いワイシャツにこげ茶のサスペンダー、胸元には黒と白の水玉ネクタイをしていた。
ルイスは椅子から腰を上げ、手を差し出した。
クライヴが近寄り、ポケットから手を抜いて握手に応じた。
「相変わらず、のんびりとした男だ。また襲われて、今度はその左耳を失っても俺は知らないからな」
「その程度ならとくに。銃で耳を撃ち抜かれ、年々、聴力も衰えてきましたが、意外と片耳だけでも不自由はしておりませんので。それよりも――」
ルイスは机の脇に立ち、胸に手を当て、深々と頭を下げた。
「あのエイジス家の英雄にお会いできるとは恐悦至極」
上泉は右手を上げ、挨拶とした。
「その割には、ぞんざいな扱いをするじゃないか」
クライヴがルイスと上泉の間に割って入る。
「申し訳ありません。とある筋から情報を得まして、仕手集団が暴利を貪ろうとしていたので、先んじて叩く必要があったのです」
「もういいのか?」
「イエス、しばらくは動けますまい。それで、私めは一体何をすればよろしいのでしょうか?」
「何も聞いていないのか?」
「イエス、エイジス家からあなた達に協力するよう要請されましたが、何をすればいいのかまでは聞いておりません」
「そうか、では日本剛心という会社を買収してもらいたい」
「ふむ」
ルイスは椅子に座り直し、先ほどと同じように顔の左半分をモニターに近づけ、キーボードを叩き始めた。
「産業ロボットの製造で世界シェア三割ですか、大手ですな。ここ数年の業績を見ても、右肩上がり、この規模の企業を今すぐに買収するとなると、まずは銀行や関連企業を一つひとつ潰し、外堀を埋めなくてはいけません。かなりの資金、そして時間が必要になります」
「どれぐらいかかる?」
「だらだらやると素人投資家がしゃしゃり出て株価が高騰してしまうので、一気に買い叩く必要があります。段取りが重要です。まずは同志の証券会社やファンドマネージャーに資金を回し、彼らの懐を
「時間は?」
「一ヶ月ほどあれば」
「そうか。時間についてはなるべく急いで頼む。資金についてはそちらで負担してもらいたい」
ルイスがモニターから顔を離した。
「それは本気で仰っているのですか?」
「どちらのことを言っている? 時間か? 金か?」
ルイスは口を開きかけたが、その前にクライヴが言った。
「いや、いい。答える必要はない。なぜなら答えは一つ、どちらも本気だからだ。エイジス家が直接動き、介入すると、日本政府の面子を潰してしまう可能性がある。だから一投資家としての貴公に責任を持ってもらいたいのだ」
「仰りたいことはわかりますが、私めがなぜ買収の費用まで負担しなければならないのですか? 明確な根拠をお聞かせください」
「根拠は三つ。一つ、貴公には貸しがある。二つ、俺は借りたら必ず返す男だ。三つ、貴公には哲学がある」
ルイスが首をひねる。左耳を前に、少しだけ突き出した。
「貴公は今までイージスの盾の守護のもと、巨万の富を得てきた。そのことについてエイジス家が黙認してきたのは何故か? それは貴公が哲学を持ち、資本主義の原理原則に呑み込まれなかったからだ。だから今回も、その哲学を持って我々に協力してくれるものと俺は信じている」
ルイスは首を元に戻すと眉間にしわを寄せ、うつむいた。
「愚問ですが、もし断ったら?」
「全てが幻に変わるだろう」
ルイスは椅子の背もたれに寄り掛かり、腹の上で両手を組み合わせた。親指を合わせ、前後へと動かす。
クライヴは両手をポケットに突っ込み、ルイスを見下ろした。
「かつて石油利権に手を出して砂漠の王族の怒りを買い、アサシンを送り込まれた男がいた」
ルイスの親指が止まる。
「その男は決して儲けたかったわけではない。彼は一部の投資家たちが道理をわきまえず、王族をたぶらかし原油を買占め、値を不当に吊り上げていたのが許せなかっただけなのだ。だから彼は危険を知りながら――」
「わかりました」
ルイスは組み合わせた手を解いた。
「私のほうで何とかしましょう。今更、生き方は変えられませんからね。それに、たまには実業に関わらないと勘が鈍りますので」
「貴公の協力に感謝する」
今度はクライヴのほうから手を差し出し、握手を求めた。
ルイスが立ち上がり、応じる。
二人の手は固く握られ、力強く振られた。
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