第4章 日本剛心重工業株式会社

第4章 日本剛心重工業株式会社(1)

 そこは大学の講義室のようだった。

 傾斜のある床は奥に行けば行くほど低くなり、机が段々と扇形に設置されていた。


 扇のかなめには壁に備え付けられた巨大な黒板があって白や青、ピンクなど多彩なチョークで日本語と数字が書かれていた。

 中には英語もあったが、明らかに英単語ではないものもあった。


 それらはアルファベットと記号のかたまりで、配列から何かしらの規則性を感じるが、上泉にはよくわからなかった。

 その他にも、人物や地図、諸外国の国旗などイラストもたくさん描かれていた。

 上泉は部屋の入り口から、人知れず黒板の正面、その最後部の机に座り、興味深げにエリートたちの仕事振りを眺める。


 今、部屋の中には数名の男女がいて、電話をしている者、会話をしている者、何か書いている者、机に顔を埋めている者、皆忙しそうだった。

 彼ら、彼女らは剛心のエリート集団、国際戦略部の部員だった。

 剛心の経営戦略を立案、各部門に指示を出している。


 その権限はとても強く、営業、開発などの各部門の上位に位置しており、国際戦略部の部長は役員並みの権力を持っていた。

 上泉は腕時計で時間を確認した。

 もう十五分も経っている。

 自分のような部外者が入り込み、座っているのに誰も気づかない。


 普通、どの企業でもそうだが、このような組織の中核に当たる部署はセキュリティが厳重で、アイディーカードやパスコード、最近では指紋や虹彩などの生体認証などを導入し、外部の人間が無断で入れないようにするものだ。


 だが、ここ剛心の国際戦略部はそういう設備もなく、簡単に入り込めた。

 上泉は部屋を見渡し、納得した。

 この部屋には盗めるようなものが何もない。


 パソコンがなく、机の上には紙とペンが無造作に置かれているだけ、大きな黒板の前にいくつかの脚立きゃたつが置いてあるだけ、他にとくに隠しておくようなものが見当たらない。

 もしかしたら、あのアルファベットと記号の羅列はセキュリティのために、あのような形にしているのかもしれない。


 机で書き物をしていた一人の女性が席から立ち上がり、階段を駆け下りて、講壇と言えばいいのか、黒板の前にある開けた場所に立った。

 黒いパンツに淡い紫のロングカーディガン、両手をカーデのポケットに突っ込み、振り返る。癖のある長い黒髪が揺れた。

 国際戦略部の部長、城之崎望きのさきのぞみだった。


 彼女は眉間にしわを寄せ、そばにいた男性部員に向かって何か言っている。

 大鷲から噂は聞いてはいたが、切れ長の目、左右均等に整った眉毛、真っ直ぐな鼻筋、ふっくらとした厚みのある下唇、その顔は確かに美人ではあったが、愛想がない、柔らかさがない。

 怒っているように見える。


 加えて隙のない立ち居振る舞いといい、上泉はどことなく近寄り難さを感じた。

 二人の男性部員が脚立を持ってきて黒板の前に置いた。

 城之崎がパンプスを脱ぎ、素足のまま一段ずつ、両足を揃えながら登った。


 カーデ越しに腰がくねる。

 それを男性部員たちが見上げている。

 近くにいた女性部員が気づき、注意すると、男性部員たちは慌てて仕事に戻っていった。


 自分の足下で起こった、そのようなやり取りには見向きもせず城之崎は脚立の天板てんばんを跨ぎ立ち上がった。

 手に持っていた白いチョークで黒板の空いた場所に図形と数式、それから、あの規則性のある専門用語なのか隠語なのかよくわからないアルファベットと記号の羅列を書き始めた。


 しばらくして図形を含んだパラグラフが二つ完成する。

 城之崎はチョークを投げ捨てた。

 落ちて、床で割れる。

 白、ピンク、青、黄色、数々のチョークの破片が床に転がっていた。


 彼女は両腕をだらりとぶら下げ、チョークのついた指先を擦り合わせている。

 黒板を背景に白い粉が上泉のところからも見える。

 彼女は動かない。


 自分の書いたものをじっと眺め、何事か考えている。

 ふいに上半身を捻り、上泉のほうに目を向けた。

 城之崎が驚いたような顔をする。

 ぐっと目を細めて上泉を見る。


 城之崎の立つ場所と、上泉の座る場所は同じ高さにあり、互いの視線がぶつかる。

 城之崎は脚立を降り、パンプスを履くと上泉のほうに向かって歩き出した。

 そばに来ると言った。


「あなた、部外者ね。勝手に入ってきて何考えてるの? 今すぐ出て行きなさい」


 上泉は城之崎の顔を見上げ、言った。


「君は知っているか? 国戦部の部長は死んだ部下に花一つ手向けないらしい」


 城之崎の眉間にしわが寄る。

 切れ長の目が鋭い。

 上泉は構わず続けた。


「きっと彼女にとって死んだ部下など昨日のランチのようにどうでもいいことなんだ――」


 いい音が鳴った。

 城之崎が机の上に片手を突き、身を乗り出している。

 上泉は城之崎に頬を叩かれた。

 部員たちが一斉にこちらへと目を向ける。

 城之崎は背筋を伸ばし、言った。


「変な因縁いんねんを付けるのはやめてもらえるかしら?」

「因縁か」


 上泉は頬をさすった。


「もし因縁があるのなら僕は知りたい。誰がそれを紡いだのか、なぜそのようなことをしたのか、その理由を知りたい」

「理由?」

「君は知っているはずだ。彼らが何故、国戦部の名刺を持っていたのか、その理由を知っているはずだ」

「あなた、何言ってるの?」


 城之崎の表情が怒りから困惑へと変わった。

 上泉は腰を上げ、身を乗り出した。

 城之崎の顔を覗き込んだ。

 その唇、頬の色、瞳、どこかに嘘がないか探ろうとした。


 すると城之崎が驚いた表情で少し引いた。

 いや、動揺したかのようにまばたきを数回繰り返し、瞳をきょろきょろとさせる。

 ぷいと顔を背けた。

 この反応を嘘と見るか、どう見るか。


 目の端に部員たちの姿が入った。

 こちらに歩いて来る。

 上泉は背を向けた。

 机から通路へと出る。


「失礼」

「待ちな――」


 足早に立ち去った。

 背後で城之崎が何か言ったが、よく聞き取れなかった。

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