第1章 埃と雨の日常(3)
会社の帰り、上泉は大鷲に連れられ彼の自宅に立ち寄った。
大鷲が呼び鈴を押す。錠の外れる音が聞こえ、玄関のドアが開いた。
若い女性が顔を出す。
ピンクのスクエアネックシャツにタイトなブルージーンズ、長く真っ直ぐな黒髪が胸に掛かり、玄関を照らすオレンジの灯りが女性の頭部に天使の輪を作っている。
大鷲の妹、円だ。
「おかえりなさい。義道もいらっしゃい!」
「すまない、邪魔する」
「ただいま、っと」
大鷲は靴を脱ぎ捨てると、さっさと奥に入っていった。歩きながら靴下を脱いで手で持っていく。
「お兄ちゃん! 靴!」
円がしゃがみ、大鷲の革靴を手に取った。玄関の壁に備え付けられた靴棚に入れる。靴棚の天板に置かれた陶器の花瓶が微かに揺れた。
この花瓶には以前、チューリップが挿してあったが、今はガーベラが挿してある。
上泉はガーベラを眺めながら言った。
「円、ロースクールはどうだ?」
「え? あ、うーん、勉強は大変だけど、何とかついていけてる、かな?」
円は苦笑いを浮かべ立ち上がる。
「私、お兄ちゃんのように頭良くないから」
「そのようなことはない。君は聡明な女性だ。もっと自分に自信を持っていい」
「そ、聡明って」
上泉はガーベラから円に目を移し、じっと見つめた。
「な、何? 私の顔に何かついてる?」円は自分の頬を触り、次に髪を触る。「もしかして髪型? どこか跳ねてる?」
「……もう何度聞いたかわからないが、円は本当に弁護士になりたいのか? もっと他にやりたいことがあったのではないか?」
「義道……。いつもありがとう」
円は微笑んだ。
「でも私は大丈夫、最初は責任感から弁護士を目指していたけれども今はちょっと違うの。毎日勉強したり、お父さんの事務所を手伝ったりしているうちに何となくだけど、弁護士も悪くないかなって思えるようになってきたんだ。だから大丈夫」
円の表情は明るい。上泉は再びガーベラを見た。
「大人になったな、円」
「何それ」
円は笑った。
「そうだね、そう、私ももう大人よ、大人なんだからね」
「先輩の代わりに家業を継ぐのは大変だろうが、頑張れ」
円は力強くうなずいた。廊下の奥から大鷲の声が聞こえる。
「上泉、円、いちゃいちゃしてないで早く飯にしよう。俺はビールが飲みたい」
「もう! いちゃいちゃなんてしてないから!」
円が廊下の奥に入っていった。上泉も靴を脱ぎ、自分で揃えると、あとを追った。
廊下の奥、リビングに入る。テーブルに法律の専門書やノート、筆記具が散乱している。円が一つひとつ手に取り、片付け始めた。
リビングの隣、キッチンのほうから、うがいの音が聞こえる。何度か水を吐き出す音がして、ワイシャツ姿の大鷲が出てきた。
タオルを首にぶら下げ、リビングの天井近くに祀ってある神棚に向かって拝礼した。
二礼二拍手一礼。
いつも猫背の大鷲だが、神に参るこの時だけはしゃんとして、凛とした表情を見せる。
「さて、飯でも作るか」
振り返った大鷲が真面目な顔で言う。そして、にやりと笑った。上泉の背中を押し、キッチンに入った。
流れるように上泉が手に持っている袋からミートパイの材料と缶ビール、おつまみ各種を取り出しワークトップに並べた。その中から缶ビールとおつまみを手に取り言った。
「じゃ、後はよろしく」
大鷲はキッチンから出て行った。
こうなることはわかっていたが、やはりこうなった。
上泉は上着を脱ぎ、円から黒色のエプロンを借り身に付けた。
一人でミートパイを作り始める。
「何か手伝おうか?」
キッチンの入り口で円が言った。
「いや、大人しく待っていてくれ」
「でも」
「いいから上泉に任せておけ」
リビングから大鷲が言った。
「お前は料理に向いてないから大人しくしていろ」
「そんなことないよ。この前は上手にできたじゃない」
「確かに上手かった。ゆで卵にマヨネーズをかけただけの料理だが」
上泉は兄妹が言い合うのを耳にしながら黙々と料理を続けた。
冷凍のパイ生地を電子レンジに入れ、解凍ボタンを押す。中に光が灯り、円形の生地が回り始めた。
棚からフライパンを取り出す。コンロにかける。バターを溶かし、先ほど切った玉葱とマッシュルームを炒め始めた。
玉葱がしんなりとしてきたところで、ひき肉を加え、塩、コショウ、ナツメグを入れ、味を整える。さらに炒めて具を完成させた。
電子レンジの音が鳴った。
上泉は電子レンジからパイ生地を取り出し、作った具を半円状に乗せた。
何も乗っていないほうの生地を持ち上げ、具を覆う。
中身が出ないよう張り合わせをフォークで潰し封をした。
卵黄を溶いたものを生地の表面に塗り、包丁で切り込みを入れると、オーブンの中に入れダイヤルを回した。
オーブンの前で腕組みをし、待っていると、大鷲に言い負かされた円がしょんぼりとした顔でキッチンに入ってきた。
「もう終わったの? 本当、手際がいいよね。私も義道みたいに料理が上手だったらよかったのにな。そうしたら、私が代わりにやるんだけど」
「僕も最初から上手だったわけではない。このミートパイに関して言えば、凛子さんの教え方が上手だっただけだ」
「凛子叔母さんか、元気にしてるかな」
「エイジス家の皆は相変わらずのようだ。先日、クライヴからメールが送られてきた」
「そうなんだ。クライヴ、何で私には送らないんだろ。メールアドレスは知っているはずなのに」
「それは、君と先輩がエイジス家の身内だからだ。彼は騎士として主君の身内にも礼を尽くさねばならないと考えているようだ」
「そんな大袈裟な、ただのメールよ?」
「そういう男なのだ、彼は」
「終わったか?」
大鷲がキッチンに顔を出した。
「終わったならビールを飲め、
「先輩」
「何だ?」
「一人で寂しいんですね」
「え、そうなの、お兄ちゃん?」
円がくすくすと笑い出した。大鷲がむっとした顔をする。
「いいから、さっさと飲め!」
上泉たち三人はテーブルを囲み、ビールを飲んだ。つまみはサラミ、チーズ、塩だった。
上泉はビールを飲み、グラスの水滴で濡れた指先に塩をつけ、舐めた。口の中に塩味が広がり、そこにまたビールを流し込む。
円がグラスを置いた。苦そうな顔をしている。
「先輩、やはり梅酒を買ってくるべきでしたね」
「いいんだよ。誰だって飲み始めは苦いんだから。その苦さに慣れてこそ大人ってもんだ」
「円、無理に飲まなくていい。もしよければ僕が何か飲みやすいものを買ってこよう」
円は首を振った。
「いい。私、無理なんてしてないから。このビール美味しいね」
そう言って笑った。
大鷲がにやりと笑う。
「どうだ、上泉。今時、こんな健気な娘はいないぞ。嫁にしたくなっただろ?」
「……」
「な、何いってんの! 私は別に……」
円は言葉に詰まり、うつむいてしまった。
その反応に大鷲が真面目な顔をする。手に持っていたグラスを置いた。
「円、そんなに恥ずかしがってばかりいると、また盗られるぞ。こいつ美形だから女のほうから寄って来やがる。今日の昼だって女と飯食ってやがった」
「え、誰と……」
「彼女は同僚です」
「そうか、で、前は女教師だったよな」
上泉はとくに反応せず、ビールを一口飲んだ。こうやって酒の席で絡まれるのは一度や二度ではない。
「お、お兄ちゃん、その話はやめよう。鈴さんのことは……」
「上泉、お前の気持ちはわかる。だが、お前はまだ若い。このまま一人で生きていくにはまだ若すぎる」
「先輩、僕は――」
テーブルに置かれた大鷲のスマホが鳴った。大鷲は自分のほうに引き寄せ、画面を確認する。操作して電話に出た。
「はい、わかりました。じゃあ今から出ます。ええ、そこらへんで拾ってください」
通話を切った。
「悪い、ちょっと出てくる」
大鷲はスマホを尻ポケットに入れると、椅子の背もたれに掛けてあった自分の上着を手に取り、立ち上がった。
「今から? どこに?」
「デート、年上のものすごい美人がこれから逢わないって誘ってきたんだ。行かなければ男が
始め、円は『邪魔』の意味がわからず、きょとんとしていたが、すぐに察したようで顔を赤くする。
上泉は椅子から腰を上げた。
「じゃあ僕もそろそろ」
大鷲が上泉の肩に手を置き、止めた。
「お前はここにいろ。いいな?」
大鷲は笑みを浮かべていたが目が笑っていなかった。
上泉が椅子に座ると、大鷲は上着を羽織った。リビングから出る間際、背中を向けたまま、肩越しに言った。
「お前ら安心しろ。お兄ちゃんはあえて遅く帰ってやるから伸び伸びと楽しむんだぞ」
大鷲の言葉に円の顔がますます赤くなる。とうとう、うつむいてしまった。
「と言う訳で上泉、妹を頼む。優しくしてやってくれ」
大鷲は手を振りながら出て行った。
円が太ももに置いた自分の両手を前後に滑らせ、そわそわしている。落ち着きがない。
上泉は話題を探し、色々と話しかけたが、続かない。上泉はさらに話題を探す。
「そう言えば、さっき君が弁護士も悪くないと言っていたときに、ふと思い出したんだが、君は子供の頃よく泣いていた」
「え、そ、そう?」
「ああ、そして先輩はいつも
「そうだったね。あの頃のお兄ちゃん、いつも苛々していて怖かった」
「多分寂しかったんだと思う。おじさんもおばさんも仕事でほとんど家にいなかったから」
「そっか、そうだね」
幼い頃を思い出したのか、円の表情がやわらぐ。ビールの入ったグラスを自分のほうに引き寄せ、両手でグラスを柔らかく包み込んだ。
「私、あのね、あの時、ちょっとだけ嬉しかったんだ」
「嬉しい?」
「お兄ちゃんに
「あの頃は子供で、正義漢だったし、母さんも生きていた、だから考えなしだった」
「ね、ねえ、これからも私のこと守ってくれる?」
円は恥ずかしさで顔を真っ赤にしているが、それでもうつむくことなく真っ直ぐに上泉の顔を見つめた。
「守る。罪深い僕にできるのはそれだけだ」
「違う、違うよ! そういう意味じゃない!」
円が勢いよく立ち上がった。椅子が後ろへと倒れそうになる。
「私は義道と――」
「それ以上は言わないでくれ」
椅子がゆっくりと戻ってくる。床に着地し、音を立てた。
「僕にはどうすることもできない」
上泉は円の目を真っ直ぐに見つめながら言った。
円が悲しげな表情を浮かべ、うつむく、力なく腰を落とし、両手で顔を覆う。
しばらくの沈黙があり、オーブンが鳴った。上泉は腰を上げ、キッチンに入っていった。
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