終章 そして、また雨が降る(2)

 エレベーターの扉が開いた。

 上泉は後ろ向きに、大鷲の座る車椅子を引きながら乗り込んだ。

 身を前に乗り出して七階のボタンを押した。


 扉が閉じ、籠が上昇を始める。

 大鷲はホテルに迎えに行った時から一言も話さなかった。

 ずっと黙っている。

 その表情はとても暗く、今にも気を失いそうだった。


「……俺は何て言えばいいんだ? 死んだと見せかけて、じつは生きていましたなんて、とても言えないぞ」


 大鷲はようやく口を開いた。

 声ははっきりとしている。

 意外と大丈夫なようだ。

 上泉は手押しハンドルから離れ、籠に背をつけた。

 ドアの上にある電光掲示板を見上げる。


「言えばいいじゃないですか。気に入らない奴がいたんで、そいつらを騙すために妹も騙しましたって言えばいいじゃないですか」

「言えるか!」

「そうですか、じゃあ、あとは自分で考えてください」

「冷たい、冷たいぞ、上泉。俺とお前の仲だろ? 何とかしてくれ、頼む!」

「どうにもなりません。ちゃんと自分の言葉で話して、しっかりと円の気持ちを受け止めてください。これから先、まだまだ兄と妹として生きていかなければならないのですから」


 大鷲は肩を落とし、うつむいた。


「円は、謝ったら許してくれるだろうか?」


 そう、ぽつりとつぶやくと、自分の膝に載った細長い箱をじっと見下ろした。

 青い包装紙でラッピングされていて、黄色いリボンが巻かれている。


 箱の中身は上泉が以前、凶器として使い砕いてしまった花瓶の代わりだった。

 大鷲に弁償しろ弁償しろと言われて上泉自身が選んだものだ。


「先輩、その花瓶は本当にそれでいいんですよね? もっと円が好きそうな色や柄があったような気がしますが」

「別に何だっていいさ。あいつは、お前が買ってあげた物なら何だって喜ぶんだ。畜生、どうしたらいいんだ……」


 大鷲は弱々しく言うと、深いため息をついた。

 エレベーターが静かに止まり、音が鳴って扉が開いた。

 上泉は車椅子を押し出し、三番目のドアに向かった。

 呼び鈴に人差し指を伸ばすと、大鷲が手を上げて制止した。


「待て」


 上泉は無視して呼び鈴を押した。

 すぐにドアが開いて、円が顔を出す。

 大鷲が慌ててそっぽを向いた。


 しばらくの間、大鷲と円の沈黙があり、このままではらちが明きそうになかったので、上泉がうながした。


「先輩」


 大鷲は顔を背けたまま「あー、えーっと」と言った。

 上泉が代弁する。


「どうやら先輩は『ただいま』と言いたいらしい」


 円は目に涙を浮かべていた。


「おかえりなさい、お兄ちゃん」

「た、ただいま」


 大鷲は円の顔をちらり見て、またすぐにそっぽを向いた。

 耳が赤くなっている。

 上泉は車椅子から離れた。


「じゃあ、僕はここで。あとは円の世話になってください」


 背を向け、エレベーターのほうに向かって歩き出した。


「お、おい」

「そんな、上がっていけばいいのに」

「今日ぐらいは家族水入らずでどうぞ、失礼」


 マンションから出ると車のクラクション音が聞こえた。

 左右を確認したが車は見当たらなかった。

 歩いている人もいない。

 上泉はしばらくその場で佇んだあと、一人歩き出した。


 花屋に立ち寄り、青いバラを買い、自宅アパートに戻った。

 ドアの前でスラックスのポケットから鍵を取り出す。

 外廊下の先、庭のほうで物音がした。


 近寄り、建物の影から覗いてみると、ワタリガラスが楠の枝に留まっていた。

 翼を閉じ、首を埋め、くちばしを牡丹の花に向けている。

 牡丹は今年も遅咲きで、蒸し暑くなってきた今頃になって大輪の真っ白な花を咲かせていた。

 上泉は静かにその場を離れ、中に入った。


 室内は薄暗く、時刻はすでに夕暮れ、上泉は靴を脱ぎ、窓のほうに歩いて行った。

 遮光カーテンを開けた。

 オレンジ色の柔らかな光が室内に射し込み、微かに埃を照らし出す。


 しばらく留守にしていたためか埃がとても多かった。

 昨夜、簡単な掃除をしたのだが、拭き取りが甘かったようだ。

 一度、本格的にやったほうがいいかもしれない。


 上泉はミドルキャビネットに置いてある空っぽの花瓶を手に取り、水を入れた。

 買ってきた青いバラを挿す。

 写真立ての隣に置いた。


 鈴の顔に埃が付いている。

 クロスで拭くと彼女は綺麗になった。

 窓から空を見上げる。


 午前中に比べ、雲は薄くなっている。

 ただ雲の流れは速い。

 怪しい雲行きだ。


 新聞紙の天気予報欄にあった通り、まもなく雨が降るかもしれない。

 長かった梅雨の中休みも終わり、後半戦に突入といったところか。


 上泉はリビングを見渡した。

 まず掃除をしようか、洗濯をしようか、悩んだ挙句、買い物に行くことにした。

 明日は休日、今日は料理でもしながら酒を飲み、ゆっくりと過ごすと決めた。


 靴を履き、玄関のドアを開ける。

 小雨がぱらついていた。

 ドアを開けるまで全く気づかなかった。


 庭の楠や牡丹を揺らす音もない、屋根を叩く音もない。

 それ程に静かな雨が降っていた。

 上泉はドアを閉め、リビングに戻った。


 写真立てを手に取り、テーブルの上に置くと、彼女の顔を窓のほうに向けた。

 自身も椅子に座り、窓から外を眺める。


 ……雨が降っている。

 彼女と初めて出会った、あの時のような、静かな雨が今降っている――。


(神が観ている・了)

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