第5章 宗像源蔵(2)
けたたましい鳥の鳴き声が聞こえ、空を見上げたが、そこには何もいなかった。
ひょろりとした樹木と、重力に引かれ、いつ千切れるか分からない枝葉があるのみだった。
息苦しいほどの湿気の中、昼も夜も軽い銃撃戦を繰り返し、朝日が昇ること二十七回目、とうとう食料が尽きてしまった。
今はシダの水滴を啜り、木の実、
また鳥が鳴いた。
空を見上げるが、やはり何もいない。
何度聞いても慣れなかった。
ここは戦場だ、油断すれば落伍するのみ。
だから常に神経を研ぎ澄まし、敵の気配を探らなければならない。
その結果、辺りから無数の気配を感じ、どんどん神経がすり減る。
そこに飢えが追い討ちをかけた。
負傷した者たちが自分の体に沸いた蛆虫を食べている。
やめろといったが、彼らはやめなかった。
精神が死のうとしていた。
野性が人間としての尊厳を呑み込もうとしている。
このままでは全滅する、そう考えた宗像源蔵は葉室少尉に撤退を進言したのだが――。
「敵前逃亡は断じて許されない」
葉室少尉は倒木に腰掛け、将校用の軍刀を真っ直ぐに地面に立て、悠然と座っている。
軍服はあまり汚れていない。
いつも後方から命令するだけなので傷一つ負っていなかった。
「しかし隊長、これ以上は無理です。あれを見てください」
源蔵が指差した先には疲れ果て、座り込んでいる兵士たちがいた。
ほぼ二〇代で、まだ一〇代の少年もいた。彼らの大半はどこか負傷していて、顔から蛆を湧かせている者、虫に刺され高熱で苦しんでいる者など散々たる有様だった。
目も虚ろで、口を利けない者もいる。
当然、軍服はぼろぼろ、近づけば火薬と糞の臭いがする。
「宗像さん、私を置いていってください」
源蔵の足元に横たわる城島が言った。
彼は右大腿部に銃弾を受け、傷口が化膿していた。
このまま放置すれば切断、最悪は死んでしまうかもしれない。
早く治療する必要があった。
「情けないことを言うんじゃない。
「それを言うなら宗像さんだって、故郷ではお袋さんが待っているんでしょう?」
「わしゃ、いいんじゃ。この
源蔵は城島の怪我に目をやり涙ぐんだ。
「すまん、わしの力が足りないばかりに……」
「宗像さん……」
城島も涙ぐんだ。他の兵士たちもすすり泣いた。
「気をしっかり持て」
葉室少尉が淡々と言う。
「祖国で待つ家族のためにも、我々はここを死守しなくてはならん。簡単なことだ」
「……もう無理だと言うとるんです。この状況を見ればわかるでしょうが、わしらは負けたんじゃ」
「黙れ!」
葉室少尉が勢いよく立ち上がり、源蔵の鼻を殴った。
源蔵は身動きせず、防ごうともしなかった。
「我が国は神の国である。かつて元寇が襲来したときも神風が吹いて我らを勝利に導いたではないか。そう、我らは特別なのだ。選ばれた民族、選ばれた軍隊なのだ。この戦争にも勝つに決まっている、いや、必ず勝つ!」
源蔵は鼻の下を手の甲で拭いた。
血がべったりと付いて汚れる。
それを冷めた目で見つめながら、つぶやいた。
「そんなものは偶然じゃ。そんなこともわからんのか」
「貴様、上官に向かって何だその口の聞き方は! あのような理不尽な要求をしてきた
「……さすが名家のお坊っちゃんだ。口ばかりの大馬鹿じゃあ。正義だと? こんな殺し合いに正義なんてあるものか? それに神?」
源蔵は不敵な笑みを浮かべた。
「神がいるならなぜわしらは負けたんじゃ?」
葉室少尉は口を真一文字にして源蔵を睨みつけた。
「もう、我慢ならん。度々の命令無視、上官に対する非礼は万死に値する」
葉室少尉は手にしていた軍刀を抜いた。
「
源蔵は
葉室少尉がそばに立ち、軍刀を振り上げる。
「頭を下げろ」
源蔵は言われた通りに頭を下げた。
「何か言い残すことはないか?」
また鳥が鳴いた。
一斉にたくさんの鳥が狂ったように鳴き始める。
敵兵が接近しているのだろうか。
それとも、くだらない殺し合いをしている自分たち人間をせせら笑っているのだろうか。
……なぜだ?
なぜ、こうも違うのか?
草や樹木が、虫が、動物が、ただひたすらに生存競争を繰り広げるこの世界に不条理は存在しない。
ただ野性の法があるのみ。
法の下、彼らは一つにつながっている。
だから悩まない。
なのに、なぜ?
なぜ、人だけが悩み、神などという得体の知れない存在に束縛されるのか。
なぜこれほどまでに未熟なのか。
源蔵は枝垂れを手に取った。
「神などおらん。この世には、ただ法があるのみ」
「何?」
「わしはわしの法に生きる。戦争で敵兵に殺されるなら、それはそれで構わん。それが戦争の法だからだ。だが、既に戦う意志のない者に人殺しを強要する貴様らは絶対に許さん」
「貴様!」
葉室少尉は鬼の形相で軍刀を振り下ろした――。
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