第5章 宗像源蔵
第5章 宗像源蔵(1)
ここ数日、クローゼットで寝ているせいか首が痛かった。
上泉は椅子の背もたれに体を埋めるのをやめ、背筋を伸ばして座った。
その今までにない、健康的な姿勢の良さから、隣の花咲がちらちら見てくる。
やがて首の痛みが治まり、昼休みになった。
営業部の照明が消され、ほぼ全ての者が昼食を取りに出かける。
上泉は静かになった営業部で、いつものだらしない姿勢で
目を瞑りながら今日は何を食べようか考えていると、隣の花咲が声をかけてきた。
「大丈夫? 何だか疲れてるみたいだけれど、どっか痛いの?」
「……朝、寝違えて、少し首が痛かったんだが、もう治った」
「そう? それならいいんだけど。で、今日は何食べる? ラーメン? 屋上でお弁当にする?」
「昨日も一昨日も弁当だったから、今日はラーメンにしよう」
「え、ホント? やった!」
「ただ、先日の、あのぎらぎらした醤油太麺だったらもう御免だ。あのラーメンを食べたあと、こう」
上泉は手のひらで自分の胸をぐるぐる擦った。
「胸の辺りに何かが貼り付いている感じがして、一日中とても不安になったんだが、花咲さんは何ともないのか?」
「別に、何とも」
花咲はけろっとしている。そして笑顔になる。
「安心して。今度は大丈夫だから。上泉くんの胃袋でも耐えられる、あっさりスープのお店を見つけたから」
花咲はにっこり、親指を立てた。
「胃腸が弱いみたいに言わないでくれ。僕は健康体だ」
「ただいま戻りました!」
溌剌とした声、光一郎だった。営業部に残った数人が挨拶を返し、花咲も返した。
「おかえりなさい」
「た、ただいま」
光一郎は恥ずかしそうに顔を背けると自分の席にぎこちない動きで歩いていった。
彼はいつもならこの時間、課長と一緒に昼食を取りに行くのだが、今日はタイミングが合わなかったようだ。
机に持ち帰った鞄を置くと、椅子には座らず立ったまま、鞄から書類を取り出し、中身を確認している。
「花咲さん、彼も誘おうか」
「え! 宗像君を? うーん、上泉くんがそう言うなら別にいいけど」
花咲はなぜか不満げだ。
上泉はその理由を考えつつ光一郎に声をかけた。
「宗像さん、一緒にランチでもどうですか?」
「私、ですか?」
前髪を下ろした色白の優男、この優しそうな顔に家柄も相まって女性社員の人気は相当に高い。
上泉はまじまじと光一郎の顔を眺めた。
どこからどう見ても、あの宗像源蔵の孫には見えない。
いや、目元が少し似ているかもしれない。
「あ、あの……」
光一郎が口を半開きにし、顔を赤くしている。
上泉は花咲に目を向けた。
「花咲さんお勧めのラーメンなんだが」
「花咲さんの?」
光一郎は花咲を見た。
「あっさりラーメン、塩味! 行きます! 行きません!」
花咲は怒ったように言った。
光一郎が慌てて返事をする。
「い、行きます!」
上泉たちは営業部から出て、エレベーターホールで籠の到着を待った。
上泉の後ろに花咲と光一郎が立っている。
二人は先ほどから全く話をしない。
肩越しに光一郎のほうを見ると、彼はちらちらと花咲のほうを見ている。
何とか話しかけようとしているが、きっかけがつかめないようだ。
今度は花咲のほうに目を向ける。
彼女は不満げな表情で光一郎のいるほうとは反対の方向を見ている。
上泉は正面を見据え、軽い欠伸をした。
丁度、ドアが開いた。
籠の中に一人で乗っていた城之崎と対面する。
「あら、今からそちらに行く予定だったんだけど、今日は二人じゃないのね」
「たまには他の同僚と食べたい気分なんだ」
上泉たちは籠に乗り込んだ。
光一郎が城之崎に軽く頭を下げる。
「国際戦略部の城之崎部長ですよね? はじめまして、私は宗像光一郎です。父と祖父がいつもお世話になっています」
「ああ、相談役の……」
光一郎が上泉に目を向けた。
「上泉さんは城之崎部長とどのようなお知り合いなのですか?」
「知り合いというか、先日殴られ――」
「知り合い!」
城之崎が
「ただの知り合いよ。そんなことよりも、ね? 私もお昼、一緒に行っていい?」
上泉が答える前に、花咲が即答した。
「もちろんですよ!」
上泉たちは剛心ビルから出て花咲に案内されるまま近くの繁華街を歩いた。
通りは多くの人でごった返している。
花咲と城之崎が話しながら先行し、あとから光一郎がついていった。
さらに、その後ろを上泉が歩く。
繁華街の表通りから外れ、定食屋が建ち並ぶ裏通りに入る。
黒い暖簾に白抜きで『ら~めん』と書いてある店の前まで来た。
暖簾の新しさ、構えから、まだ新しい店のようだ。
「あ、ラッキー! 今日は行列が短い」
行列の最後尾に並び、少しの時間待っていると上泉たちの番になった。
店の中に入る。
店内は中々の賑わいで、カウンター席は満席、四人用のテーブルが一つ空いていた。
「あの席へどうそ!」
カウンターに座る人々の壁、その向こうから発せられた店員の声に従い、上泉たちはテーブル席に座った。
花咲が皆に聞いた。
「ラーメンでいいですよね?」
皆が同意すると、彼女は声を張った。
「すいませーん、ラーメン四つ下さい!」
「あいよ!」
店主らしき男性がカウンター席の隙間から顔を出し、威勢よく答えた。
スキンヘッドに灰色のもじゃもじゃ髭、黒い
花咲がテーブルの脇に、逆さに置かれた空のグラスを手に取り、四つ並べた。
一つひとつに水差しで氷水を入れる。
その様子を見ながら城之崎が上泉に言った。
「さっき、花咲さんに聞いたのだけれど、あなた達三人は同期なの?」
「……そういえば、そうだったか」
上泉は花咲と光一郎の顔を見た。
「そうなんです。四十九期生なんです」
花咲がグラスを各人に渡した。
「ありがとう。ということは、えっと、今は二十四歳か、若いわね」
「違う」
上泉が口を挟むと、城之崎と花咲が声を揃えた。
「え?」「え?」
「僕は二十六だ。高校を中退して少し働いて、それから大学に入ったから、その分だけブランクがあるんだ」
「そうだったんだ。どうりで落ち着いてると思った。あ、ごめんなさい、くん付けで呼んで」
「いや同期は同期だ、今までどおりでかまわない」
「うん、ありがと。そうする」
花咲は笑みを浮かべた。
「そう、二十六なんだ。ちょっとだけよかったかも」
城之崎が小さな声で言うと、光一郎が聞いた。
「よかった?」
「ううん、別に」
城之崎は首を振った。
「それにしても同期か。何だか羨ましいわね。私は中途採用だから」
「でもそれはスカウトされて入社したからですよね。アメリカのビジネススクールで教鞭を
「あら、ありがとう花咲さん」
城之崎ははにかんだ。
「へい、お待ち!」
店主がカウンターに並べてあるトレイにラーメンの盛られた器を順々に置いた。
上泉と花咲が立ち上がりテーブルに運んだ。
澄んだスープに湯気が立ち上る。
「ごめんなさい。少し驚くかもしれないけれど、習慣だから」
そう言って城之崎が祈り始めた。
花咲と光一郎がじっと見ている。
どうやら宗教的行為が珍しいらしい。
上泉は割り箸を手に取り、二つに割った。
麺を
「美味い」
「でしょ?」
花咲が嬉しそうに答える。
「前に行った店は脂でしばらく胸焼けが続き、その前に行った店は辛いラーメンで一口食べただけで口の中がしびれてしまったが、このラーメンは美味い」
「あー、あれね。真っ赤なラーメン」
上泉と花咲が話していると光一郎がきょとんとした顔をしている。
上泉は聞いた。
「どうしました、宗像さん?」
「お二人は仲がよろしいんですね。同じ部署なのに私は全く知りませんでした」
上泉と花咲は目を合わせた。
「ああ、これは、せ、席が隣同士で、だ、だからたまたま一緒にご飯を食べにいってるだけで、うん」
花咲はしどろもどろに答える。
上泉も追認する。
「と、言う
そこで、ちょうど城之崎の祈りが終わった。
散り蓮華を手に取りスープを啜った。
「うん、おいしい」
皆が食べ始めた。
花咲は相変わらずの速さ、麺を噛まずにスープごと飲み干しているのではないかという圧倒的な食べっぷりでどんぶりを空にする。
グラスを手に持ち、冷水を飲み干し、こちらも空にする。
その見た目とは違った豪快さに城之崎と光一郎が驚いている。
上泉はいつものことなので自分のペースでラーメンを味わった。
上泉が食べ終え、次は光一郎、残るは城之崎だけとなった。
「慌てる必要はない、ゆっくり食べればいい」
「そうですよ、待ってます」
「ありがとう」
城之崎は箸を進めた。
光一郎がハンカチで口元を拭いている。彼は花咲に言った。
「おいしかったです」
「そう? よかった」
花咲がほっとしたような表情を見せた。
「そういえば先日」
上泉は光一郎に言った。
「君の御祖父さんに会ったんだが」
「祖父に?」
城之崎の箸が止まる。
「じつに興味深い
光一郎は首を振った。
「あの人のことはよく分かりません。あまり話したことがないので」
「お祖父さまなのに?」
花咲が聞いた。
「はい。彼は、いつも厳としていて心の内側を見せない人です。何もかも一人で決めて家族には一切相談しない人です。だから会話するときはいつも天の声、向こうから話しかけてくるばかりです」
「それはお寂しいでしょう」
城之崎が言った。
「私は平気ですが、父は寂しかったと思います」
「人の上に立つって色々大変なんだよ、きっと」
花咲が励ます。
「そうかもしれませんね」
上泉はグラスを手元に引いた。
落ちた結露がトレイを濡らし、引っ張られて水の帯となった。
帯は途中で千切れて縮み、水溜りとなる。
上泉はグラスを持上げ、口をつけた。
シカミの能面をつけた男を思い出す。
彼は帝国陸軍の軍服を着ていた。
「変なことを聞くようで申し訳ないが、君の御祖父さんは戦争に行っていたことがあるか?」
「戦争ですか? 確か、大戦に参戦していたとか、東南アジアのほうに行っていたとか、そのような話なら父から聞いたことがあります。でもそれだけです。祖父が祖母と出会ったのも、父が生まれたのも、戦争が終わった後のことなので、父もあまり詳しくは知らないようです。当然、私も知りません」
「ありがとう。話を聞かせてくれて」
城之崎が食べ終え、上泉たちは店を出た。
繁華街の通りを花咲と光一郎が二人、話しながら先行する。
少しだけ打ち解けたようだ。
城之崎が話しかけてきた。
「なぜ相談役の話をしたのかしら?」
「先日、偶然会ってね。先ほども言ったように、ただの興味本位だ」
「本当にそれだけ?」
「それだけさ、他に何がある?」
「そう……」
城之崎は残念そうに前を向いた。
「城之崎さん、君に聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「な、何?」
「君はなぜ神に祈る?」
「それは、感謝しているから」
「神に?」
「そう、神に」
「なぜ神に感謝する?」
「なぜ?」
そこで城之崎は黙ってしまった。
前方を歩く花咲と光一郎が揃って右に進路を変える。
宅配業者が台車を押しながら通りを歩いて来る。
上泉と城之崎は左右に分かれ台車をかわした。
合流する。
城之崎が言った。
「私、子供のころ心臓が悪くて、移植手術を受けるまでは本当に不安で、未来に何の希望も持てなかった。けれど、今、こうして私は生きている。この時、この場所に、存在している。それは心臓を提供してくれた方がいたからで、ドクターがいたからで、だから私は神に祈るのかもしれない。感謝を伝えることで、彼、彼女らに幸あれと」
上泉は足を止めた。
「そうか」
「それだけ? 自分で言うのも何だけど、結構、感動的な話をしたと思うのだけれど」
上泉は首を振った。
「いや、君を見ていると、なぜだろう、僕も祈りたくなる」
「祈ればいいじゃない」
「それは
「じゃあ、私が上泉さんの代わりに祈るわ」
城之崎が歩み寄る。
上泉は離れ、歩き出した。
「必要ない。君は君のために祈れ」
「鉄壁ね。でも逆に燃えるわね」
城之崎は苦笑いを浮かべた。
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