第4章 日本剛心重工業株式会社(3)

 風が強く吹いて、空は黒く厚い雲に覆われた。

 初夏によく見られる急激な天気の移り変わりで、遠くから雨音が近づいて来るのがわかる。

 ぽつぽつとアスファルトが濡れ始めた。


 上泉は両開きのガラスドアを押し開け、赤場ビルの中に入った、と同時に背後から激しい雨音に襲われて振り返る。

 外は真っ白に染まっていた。

 先ほど歩いてきた通りの様子が雨の飛沫しぶきでほとんど見えない。


 風向きが変わり横殴りの風となった。

 高密度の雨がうねり、複数の人影が小走りに行き交う。

 その中の数人が赤場ビルの中に入ってきた。


 外が光り、雷鳴が轟き、ビルが揺れた。

 隣でハンカチを使い、濡れた髪を拭いていた女性が悲鳴を上げる。

 また光り、鳴った。

 女性は両手で耳をふさぎ、その場にしゃがみ込んでしまった。


 上泉は女性から離れ、大雨と稲光を背にロビーの奥へと向かった。

 エレベーターの脇に設置されている案内板を見上げる。

 下から順に西水不動産、大下登記測量事務所、東武探偵事務所、空欄、空欄、ホーエン製薬、空欄、この中で上泉が知っているのはホーエン製薬だけだった。


 創業からわずか数年で世界各国に進出した新興企業ホーエン・カンパニーの関連会社、風邪薬から抗がん剤、炭疽菌たんそきんのワクチンまで、市場のあらゆる需要に応えて薬を製造し、販売することで安定した利益を上げている。


 近年は薬だけでなく健康食品やサプリメントなども製造しており手広くやっているらしい。

 案内板の下に埃の玉が落ちていた。

 壁にはあちらこちらにヒビが入っていて天井の角には蜘蛛の巣が張ってあった。

 世界的大企業の一拠点にしては粗末なビルだった。


 上泉はロビーに戻った。

 しばらく待っていると雷雨が止み、雨宿りしていた人たちが外に出て行った。

 上泉もあとに続いた。


 アスファルトから湯気が立ち上がる。

 電線から水滴が落ちた。

 空には雲が残っているものの、オレンジと紫のグラデーション、季節の移ろい、巡る巡る自然の事象に人々は見向きもせず何事もなかったかのように歩いている。


 時刻は夕暮れだった。

 通りの奥にある街灯が点灯した。

 他のも点き始めた。


 上泉は道路を渡り、光の及ばない黄昏の暗闇に紛れ込んだ。

 静かに赤場ビルの出入り口が見える場所に移動した。

 待つこと一〇分ほど、赤場ビル前の停止禁止部分に外国製の黒い高級車が止まった。


 運転手の男性が降りてきて後部座席のドアを開ける。

 小太りの老人がひょいと降りた。

 黒いリボンの巻かれた白いパナマ帽を被り、薄い青色のスーツ、手には杖を持っていた。


 外は薄暗く、距離もあったが、あれは間違いない。

 社内報でよく見る顔、宗像源蔵むなかたげんぞうだった。

 彼はのしのしとビルの中に入り、車は走り去った。


 それから三〇分、どこかに車を預けてきたのか、先ほどの運転手がビルの中に入って行ったこと以外、とくに動きはなかった。

 日が沈み、夜になる。


 入り口から運転手が出てきた。

 ドアを開け待っていると宗像源蔵が姿を現した。

 運転手が離れ、立ち去った。

 おそらく車を取りに行ったのだろう。


 上泉は道路を渡らず、そのまま歩道を歩いて宗像源蔵に近付いた。

 街灯の下に源蔵が一人で立っている。

 動かず何かをじっと凝視している。


 上泉が視線の先に目を向けると、水溜みずたまりがあった。

 隣の街灯に照らされ、その水面に波紋が起きている。

 ふちから起こり、源蔵のほうへと向かう不自然な波紋だった。


 上泉はフォーカスする。

 水溜りの縁を踏む編み上げのブーツが観える。

 視線を上に向けると、現代のではない帝国陸軍時代の軍服を着た男性が立っているのが観えた。


 手には軍刀、顔には鬼の能面シカミをつけていた。

 シカミは空を見上げ、武者震いのように体を震わせる。

 上泉は違和感を覚えた。


 あれは神霊ではない。

 なぜなら葉室を加護していたハクシキジョウや、屋上庭園のフェアリーのように、感動や畏敬の念、絶望感などの神威しんいが感じられなかったからだ。


 では人間か? 

 いや、それも違う。

 人間は人間以外のものにはなれない。

 死んだら無に還るだけ、魂は生きているからこそ存在する。


 神霊でもなく人間でもない。

 つまり、あれは鬼だ。

 鬼をこの世界に放置するとろくなことにならない。


 シカミが軍刀の柄に手を掛け、抜いた。

 源蔵のほうに向かって歩き出した。


「ムナかタあ亜あァ!」


 その叫びは音程の判別ができないほど滅茶苦茶だった。

 いや、音の反響が複雑で、方向感覚が狂いそうになる。

 これは神威ではないが、どこか森の中で迷子になったような不確かさがあった。


 源蔵が腰を落とし、半身に構えた。

 杖の握りに手を置いた。

 上泉は鬼の叫びを受け流し、左右を確認しながら道路を渡った。

 声を掛ける。


「すいません、ちょっとよろしいですか?」


 源蔵は不動、目も向けなかったがシカミは違った。

 顎を上げ、上泉のほうに面を向けると、歩き出し、一段高くなった歩道を下りて近づいて来る。


 上泉のほうも止まらず、そのままシカミのほうに向かって歩いていった。

 シカミが軍刀を振り上げる。

 同時に、上泉は入り身で踏み込み、間合いを殺した。


 振り下ろされたシカミの腕が上泉の肩に当たり止まる。

 上泉はシカミの面に顔をぐっと近づけ、目の穴を覗き込んだ。

 暗闇が広がっている。


 まだ降臨の兆候は出ていないようだ。

 上泉は自分の発する言葉に力を込め、言った。


「僕と遊びたいのか?」


 シカミはうめき声を上げ、後退した。

 刀を収め、きびすを返す。

 街灯の光をくぐり暗闇の中に消えていった。

 源蔵が構えを解いた。


「君は何者だ? アレが見えるのかね?」

「あなたも観えているようですね」


 上泉は源蔵に近寄った。

 間近で見るとたぬきだった。


 垂れ下がった頬、大きく膨らんだ涙袋、一重まぶたに三白眼さんぱくがん、パナマ帽を目深に被っているせいか眼光鋭く、孫の光一郎とは似ても似つかない老人だった。

 上泉は言った。


「あれは、あなたのお知り合いですか?」

「うむ。腐れ縁でな。神に狂わされた哀れな男じゃ。そんなことよりも君、君は一体何者かね?」

「ただの通りすがりです。ホーエン製薬を探していたのですが、どこにあるかご存知ないでしょうか?」

「はて、聞いたこともない名じゃな。申し訳ないが他の方に聞いてくだされ」

「そうですか、ありがとうございます」


 上泉は軽く頭を下げ、背中を向けるが、すぐに振り返った。


「あの、もう一ついいですか?」

「何かね?」

「剛心の相談役がわざわざ御自ら出向くとは、ここには一体何があるんです?」

「君は……」


 源蔵の顔つきが変わる。


「名を聞こうか?」

「大鷲紀人」

「亡霊か、わしは禅はやるが念仏は唱えん。成仏したければ寺に行くがよい」


 源蔵は帽子のつばを下げ、上泉と離れるように歩き出した。

 上泉は追った、並行する。


「車を待たなくていいのか爺さん?」


 源蔵が足を止める。


「マスコミならもっと需要に合ったえさを探すことだ」

「僕は釣りをしに来たわけではない」

「失せろ、若造」

「ひき逃げに遭わないよう見ててあげますよ。お年寄りには優しくしないとね」


 源蔵は杖を振り上げ、上泉の首に当てた。

 仕込んであるのだろう、重厚さがあった。


「君の本当の名前を聞いておこうか大鷲紀人君」

「上泉義道、あなたの会社で働いている」

「わしが何もできないと高をくくっているのだろう?」

「できるのか? そんな老いた体で?」

「楽しみにしているがよい」


 源蔵はにやりと笑った。

 不敵な笑みだった。

 上泉は冷めた口調で返す。


「初夜の花嫁のように心待ちにしていますよ」

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