第6章 羽毛の罪(2)

「入りなさい」


 源蔵の言葉で城之崎が入ってきた。

 上泉の顔を見て城之崎の眉が微かに上がる。

 が、すぐに目を逸らし、上泉の脇を通り過ぎて源蔵のほうに歩いていった。


「相談役、お呼びでしょうか?」

「掛けなさい」


 城之崎は源蔵の真正面には座らず、斜め向かいに座った。


「城之崎君、彼を知っているかね?」

「知っています。営業部の上泉さんです」

「そう。営業部の上泉君だ。先日の君の反応から、もしやとは思っていたが、やはり知り合いだったか」

「これは一体?」

「いや申し訳ない。じつは少し厄介なことになっていてね。君のほうから彼に言ってやってくれないか。どうやら彼は、わしを人殺しか何かだと思っているようなんだ」

「……なぜ私が?」

「噂になっているよ。君たち二人は美男美女だからね。嫌でも人の目につくらしい。何でも、君たちはここ数日、昼食を共にしていたそうじゃないか。じつに親しそうだったと聞いておる」


 上泉はソファーに戻り、城之崎の隣に座った。


「爺さん、いい歳こいて窃視のぞきか? 金も余っているが、時間も余っているようだな。いや、老い先短いから時間は余っていないか」


 城之崎が目をしばたたかせた。

 源蔵は笑みを浮かべた。


「死んだ女より生きている女か。上泉君、君は随分と薄情な男だな。わしだったら生涯ただ一人の女しか愛さないが、君はまさしく『英雄、色を好む』と言ったところか」


「……何が言いたい?」


「上泉義道、上泉家の長男として生をける。幼少時にカトリックの洗礼を受け、守護聖人は聖ゲオルギオス。十二歳で母親が病死。以降、教会と距離を置くようになりミサにも参加しなくなる。その不信心さが原因で周囲と軋轢あつれきが生まれ、カトリック系の高校から神道系の高校へと転校する。そこで担任の女教師・羽織鈴と出会い、お互い想い合うようになる。高校を中退して結婚。彼女の父であり、政治家である羽織一馬の個人秘書として活動し生計を立てる。が、それも彼女の病死により二年で終わる。その後、大鷲紀人に勧められ高認試験に合格後、すぐにイギリスの大学へ留学。エイジス家に身を寄せ、世界の紛争、宗教戦争を舞台に暗躍」


 暗記しているのか、源蔵がすらすらと言った。

 伊達に長年、企業のトップに立っていたわけではないようだ。


「……まるでストーカーだな」

「信仰に生きる者がその信仰を失う。それは夜の海に飛び込むようなものだ」

「……」

「人生の試練であった、あらゆる苦難が無意味になってしまう苦しみ、虚無感、これらに耐えられない人間はまた神にすがるしかない。現実から目を背けるしかない。だが君は違う。今までこの苦しみに耐え、生きてきた。なのに愛した女についてはあっさりとしている」

「あなたは誤解している」


 上泉は城之崎を見た。

 城之崎の眼差しは哀しかった。


「僕と彼女はあなたが思っているような関係ではない。それに僕は信仰を捨ててはいない。教会に行かなくなったのは、単に僕が罪深い人間で祈る資格がないからだ。僕は神を信じている」

「愚かな」

「あなたは信じていないのか?」

「信じていない。わしは禅しかやらん」

「禅ね、僕から言わせればそんなものはただの思い込みだ」

「そうかね。何もしない神に祈るよりはずっと建設的だと思うが」


 源蔵は懐から金色のガスライターを取り出し、ふたを開けた。

 澄んだ音がする。


「君もそろそろ夢から覚めたらどうかね? 存在するのかしないのか、そんなよく分からない神とは手を切って、わしの軍門にくだりたまえ。今ならそれなりのポストを用意するが、どうかね?」

「あなたには孫がいるだろう。手駒が欲しいなら彼をもっと鍛えることだ」

「光一郎か。可愛い孫ではあるが、あれは駄目だ。わしがホーエンに頼んで、便宜べんぎを図って貰っていることにさえ気づかないお人好しだ。わしはもっと清濁併せ呑むような器が好みなのだよ」

「毒でも飲んでろ」


 上泉は腰を上げ、立ち上がった。

 城之崎の腕をつかみ立たせた。


「彼女は連れて行く、僕は逃げも隠れもしない」

「そうか、その強気。やはりあちらが本命だったか。いつも君の隣にいる、あの娘」


 上泉は城之崎の腕を離した。


「資料を読んで君の好みはわかっている。城之崎君でなければ大鷲円か、とも思ったが、どうやら違ったようだ。花咲弓、彼女が今の君にとって特別な存在なんだろう?」

「爺さん」


 上泉は呆れたように首を振った。


「あなたの頭の中はティーンエイジャーか? それだけ生きてきて惚れたれたの基準しかないのか?」

「だったら今ここに呼び出そうじゃないか? 城島!」


 源蔵の叫びに背後のドアが開いて男たちが入ってきた。

 先ほどのモスグリーンのスーツを着た受付の男性と、黒のスーツを着た体格のよい男性が二人、全員黒革の手袋をしている。


「花咲弓をここに」

「はい」


 受付の男性が背を向けた。

 上泉は灰皿を手に取り、城之崎から離れた。

 灰皿から葉巻のカスが零れ落ちる。


「待て」


 上泉の言葉に受付の男性が足を止め振り返った。

 上泉はそれを確認してから源蔵に目を向け、子供をさとすように言った。


「爺さん、どうしたんだ? 僕の勘ではあなたはそのような人間ではないはずだ。何の関係もない女性を巻き込むなんて、耄碌もうろくでもしたか?」


 源蔵はライターのふたを閉じ、葉巻を振った。


「灰皿を返してもらおうか、火をつけることができない。それに君があくまでもそのような態度を取り続けるならば、本当にあの娘に来て貰わねばならないが?」


 源蔵が目配せすると、城島が手を上げ合図する。

 城島の周りにいた男たちが上泉のほうへと歩き出した。

 上泉は灰皿を振った。


「整形したい人はどうぞこちらへ」


 呆然としていた城之崎が我に返ったのか、灰皿を持った上泉の手を握る。

 城之崎の手は汗で濡れていた。


「落ち着いて上泉くん、灰皿を置いて」


 唇が紫色になっている。

 顔色が悪い。

 上泉は灰皿を置いた。

 城之崎が源蔵に聞いた。


「私たちをどうするつもりですか?」

「どうもせんよ。その目を瞑り、何もかも忘れて今までと変わりなく剛心のために尽くすのなら、わしは何もせん」

「彼は?」

「それは彼次第だ」

「僕は罪に対して開き直ったりはしない。あなたとは違う」

「違う?」


 源蔵が顔を紅潮させ怒鳴る。


「どこが違うと言うのかね! 君のほうこそ罪深いと言っておきながら生き長らえているではないか!」


 上泉は静かに源蔵を見つめている。

 源蔵は続けて言った。


「もし生きて償おうと思っているのならそれは甘い考えだ。かつての武士は罪を償うために自らの腹をさばいたと言う。それに比べて君は随分と自分に甘いではないか。それとも何かね、カトリックだから自殺はできんと言うわけかね。ならばわしが手伝ってやろうか?」

「……罪は死んで消えるものではない、生きてても同じだ。だから僕はいつも考えている。どうしたらこの罪が償えるか神に問い続けている」


 源蔵が苦虫を噛み潰したような渋い顔をした。


「……もういい。連れて行け」


 男たちの一人が上泉の腕をつかんだ。

 上泉は腕を払った。

 男が糸の切れた操り人形のように膝から崩れ、うつ伏せに倒れた。


 もう一人もつかみかかる。

 上泉に抱きついた。

 上泉は身体を揺らす。

 その男もすぐに膝から崩れ、滑り落ちた。


 倒れた男たちは怪我もなく意識もしっかりとしていて、慌てて起き上がると再び上泉につかみかかった。

 が、結果は同じだった。

 それを何度も繰り返す。


 その光景はまるで喜劇で、その場にいた上泉以外の全員が、何が起きているのか分からないと言った様な顔をしていた。

 上泉は表情一つ変えず息も切らさずに男たちを静かにいなし、その場に崩すと、男たちのネクタイとネクタイを結び合わせた。


 男たちは立ち上がろうとするも、結ばれたネクタイが邪魔して引き合い、喉が締まる。

 咄嗟とっさにネクタイを緩めようとして頭と頭をぶつけた。


 上泉は自分の上着についた埃を手で払い、前ボタンを外してソファーに座った。

 背もたれに体を埋め、自分のニットタイを緩める。


「安心しろ爺さん。僕は逃げない。ただ、おとなしく死に場所に案内すればいい」


 源蔵が手に持った葉巻をへし折った。

 立ち上がり叫んだ。


「何をしている! さっさと連れて行け!」


 受付の男性がおろおろしている。

 城之崎が源蔵の前に立った。


「待って!」

「よせ」

「でも!」


 城之崎が上泉に目を向ける。

 城之崎の瞳が涙で揺れている。

 上泉は言った。


「行くんだ。世の中、どうにもならないことがある。これもその一つでしかない」


 城之崎は背を向け、しばしの躊躇ためらいを残し、部屋を出ていった。


「さあ、これからどうするんだ? ここで殺すのか?」

「なぜだ? なぜあらがわない?」


 源蔵がすがるように言った。


「僕はあなたに殺されるわけではない。罪を犯し、その償いのために神に殺されるのだ。だから、これ以上、あなたが罪を犯す必要はない。大鷲の家族には手を出すな、そして彼女たちにも」


 源蔵は背を向けた。


「……連れて行け」


 弱々しい声だった。

 くの字形に曲がった葉巻が源蔵の手の中で微かに震えていた。


 ――上泉はおとなしく男たちに従った。

 連れてこられたのは上泉の自宅アパートだった。

 男たちに命じられるままドアの錠を外し、中に入る。


 背後からひも状の何かで首を締められ、引っ張り倒された。

 天井に電球が見える。

 灯りを点けるべきだった。


 部屋の中は暗すぎた。

 上泉は光を探したが見つからなかった。

 ほら、やはり、神はいたのだ――。

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