第9章 能面シカミの男

第9章 能面シカミの男(1)

 ここ一週間、雨が降らなかった。

 近年の梅雨にしては珍しい事ではあったが、いつもの事でもあった。

 雨の音、粒の大きさ、匂いなど、落ちてしまった雨が二度と降らないように梅雨の様相も毎年どこか違っていて、この長い梅雨の中休みもそれらの違いの一つでしかなかった。


 風が吹き、マリアの首に巻かれた紫のストールが震えた。

 艶のある豊かな黒髪がなびき、片目にかかる。

 風の戯れにマリアは口角を上げて微笑み返す。

 上泉は指に掛けていたコーヒーカップをソーサーに置いた。


 二人は今、カフェ『ダンデライオン』のテラスにいた。

 白いラウンドテーブルに直角に座り、テラスの前にある小さな広場、その先にある観音開きの木造門を監視していた。

 門は樹齢を相当に重ねた、かなり大きな木材で造られていて、その飾り気のなさ、単調な色遣いから、近隣の建物と比べて異彩を放っており、おもむきがあった。


 門の向こうにあるのは料亭『法螺』、月代市の歓楽街に程近い場所にあり、敷地面積一二〇〇坪、創業三〇〇年を超える老舗料亭だった。

 主に政治家や会社経営者など人の目を気にする繊細な方々に贔屓ひいきにされていて、上泉も昔、羽織一馬の秘書をしていたときによく利用していた。


 マリアが膝上のハンドバッグからポーチを取り出し、テーブルの上に置いた。

 ファスナーを引いて、ベージュ色の煙草入れとブックマッチを取り出す。

 煙草を一本抜き取り、唇で噛んだ。

 ブックマッチから一本千切り、側薬そくやくに挟み込んで一気に引っ張る。


 点火したが、風が強く不安定、手を当てながら煙草の先端に寄せたが上手く点かず、火は消えてしまった。

 上泉は手を差し出した。

 指先をマリアの頬に近づける。

 マリアが顔を傾け、指先に触れた。

 二人は見つめ合う。


「僕が点けよう」


 マリアがうなずき、テーブルの上にブックマッチを置いて寄越した。

 上泉はマリアから指先を離し、先ほど彼女がしたように紙マッチを一本千切って火を付けた。

 手のひらで覆いながら差し出す。

 風で火が揺れた。マリアも手を伸ばし、上泉の手と合わせた。


 二人の手に包まれ、火は安定した。

 マリアは伏し目がちに顔を寄せ、くわえた煙草を火に当てる。

 褐色の肌がさらに赤くなった。

 火が点き、顔を離した。煙を横に吐き出した。


 七部丈のスキニージーンズ、ウッドサンダル、フリルのついた白のキャミソール、首には紫のストール、その姿で足を組み、煙草を吸う姿はとても優雅だった。

 上泉はマッチを振り、火を消した。綺麗にブックマッチを折り畳み、紙マッチの燃え殻と共にマリアに返した。

 その指先にマリアが手を重ねる。


 上泉をじっと見つめながら、もう一方の手、その指に挟んだ煙草を口元に寄せ、吸う。

 煙を吐き出しながら、指の腹で上泉の爪を撫でると、指と指の間に入り込んできて絡ませた。

 彼女は上泉と同じ二十六歳、クライヴは一つ下の二十五歳、上泉が二人と初めて出会ったのはイギリスに留学したその日で、当時二人はまだ騎士ではなく、見習いだった。


 クライヴは始めから変わらない印象だが、マリアの第一印象は物静かな少女、必要最低限のことしか話さない。

 自分から口を開くこともほとんどない。

 もし、上泉と馬が合い、すぐに意気投合したクライヴが間に入らなかったら、お互いを理解するのにもっと時間が掛かったであろう。


 マリアの指先が離れる。

 上泉の太ももへと移動して撫でる。


「マリア」


 お触りはいつものことだが、今回は久しぶりの再会だったのでかなり積極的になっているようだ。

 上泉が何と言って逃げようか、口実を考えていると、テラス前の広場にクライヴが姿を現した。両手をスラックスのポケットに突っ込み、周囲を警戒しながらこちらに歩いて来る。

 上泉たちのテーブルについた。


「お邪魔だったかな、それとも丁度よかったか」


 クライヴが上泉にウィンクする。


「クライヴ……」


 マリアが露骨に不快な顔をする。

 手を戻し、ポーチに入っていた携帯灰皿で煙草の火を消した。

 上泉はクライヴに聞いた。


「どうだった?」

「塀の周りをぐるっと見てきたが、君の言ったとおりだ。出入り口は表門と裏門だけ、もし見張るなら今のうちに手分けしたほうがいいだろう。どうする、兄弟?」


 マリアがポーチをハンドバッグに入れている。


「あの料亭は老舗だ、伝統がある。それに、あの爺さんのことだ、きっと――」


 上泉は言葉を止め沈黙した。

 クライヴが気づいた。


「君たちは何を頼んだ?」

「コーヒーだ」

「じゃあ俺もそれにするか」

「失礼します。ご注文は?」


 ウェイターが上泉の背後から回り込み、クライヴに声を掛けてきた。


「二人と同じものを頼む」

「かしこまりました」


 ウェイターは一礼し、去っていった。


「兄弟、相変わらずいい反応だ。俺は少しだけ遅れてしまったよ」

「いや、ほぼ変わらないだろう」


 マリアがふふっと笑った。


「本当に仲がよろしくて」


 マリアの機嫌が直ったようだ。

 楽しそうにしている。

 ウェイターがコーヒーを運んできて、上泉がさらにもう一杯頼んだ。


 三人でコーヒーを飲みながら雑談していると、黒い外国製の高級車が門の中に入っていった。

 以前、ホーエン製薬の前で見かけた車だ。

 上泉は腕時計を見た。

 約束の時間、十五分前だった。

 マリアがハンドバッグと伝票を手に取り、立ち上がった。


「じゃあ、何かあったら連絡してください。私は警察の殿方たちと車にてお待ちしております。ご武運を」


 マリアは長い黒髪を揺らし、立ち去った。

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