第8章 イージスの盾(3)

 青い芝生に白い墓石が整然と並んでいる。

 遠くから眺めれば、それらは海に浮かんだ白い帆船はんせんの群れのようだった。

 帆船の群れ、船団、目的のない航海、これほど空虚なものはない。


 この墓石たちは誰がためにこの海原を漂うのか。

 錨となる者たちも、いずれこの世を去り、すべて忘れ去られてしまうのに……。

 上泉は芝生を踏み、風に背を押されながら、彼女のもとに歩いていった。『上泉鈴』と彫られた墓石の前に立ち、片膝を突いた。


 手に持っていた青いバラを捧げる。

 花束を包んでいるビニールカバーが風で震えた。

 墓石を見上げながら在りし日の鈴を想う。

 想うが彼女はもういない。


 死は終わりである。

 魂は生きているからこそ存在するのであり、輪廻転生などは存在しない。

 人が仏になることもない。


 それらは生きた人間の夢、願望でしかなく、人はあくまでもヒトにしかなれない。

 死んでも人間、生きても人間、だからこそ、その存在は尊く、この現実が受け入れられなかった。


 死んでしまった彼女の笑顔が、声が、仕草が、一つひとつ頭に浮かんでは消えず、重みを増して、上泉のこうべを垂れさせた。

 胸の奥へと顔が引き込まれ、いつの間にか目を瞑ってしまった。

 闇の中、かけるべき言葉が浮かばない。


 どうして? なぜ? それから……。

 そんなことばかり、自分のことばかり……。

 人の気配を感じ、上泉は目を開けた。

 ゆっくりと立ち上がる。


「こんにちは、先生」

「こんにちは、義道君」


 上泉に歩み寄るは鈴の父親、羽織一馬だった。

 初夏らしい明るめの青いスーツに同色のソフト帽、手には瑞々しい濃い青バラの束を抱えている。

 上泉のよりも立派な花束だった。


 上泉は場所を譲った。

 一馬が娘の墓前に立ち、帽子を取った。

 脇に挟み、空いた手で乱れた髪をかき上げる。

 片膝を突いて花束を墓石に添えた。


 帽子を胸に抱え、黙祷する。

 髪の色が、上泉と最後に会った際にはもっと黒々とした色だったが、今はロマンスグレーになっていた。

 一馬は目を瞑ったまま言った。


「電話では何度か話したけれど、こうして直接に会うのは久しぶりだね。イギリスでは大活躍だったそうじゃないか」

「活躍も何も、学費を稼ぐためにアルバイトをしていただけです」


 一馬は笑った。


「アルバイト感覚で英雄か、変わりないようだね。この子もきっと、草葉の陰で喜んでいると思うよ」


 立ち上がった。


「……お義母さんはお元気ですか?」

「いや、少し具合がよくなくてね。血筋とは誇らしくもあり呪わしくもある。家内もこの子と同じで、それほど丈夫な体ではないからね。今は実家で療養させているところだ」

「今度、お見舞いに行きます」

「そうしてくれると家内も喜ぶよ。君のほうはどうだね、お父上は息災かい?」

「はい。父はこれまで病気一つしたことがありませんので、おそらく元気にやってると思います」

「おそらく?」

「帰国の挨拶に行ったとき以来、父からは全く音沙汰がありません。僕のほうにもとくに用はないので、おそらく、としか言いようがないです」


 一馬は苦笑いを浮かべた。


「君たち親子は相変わらずのようだね」


 そう言って腕時計を見る。


「もっと君と話していたいのだが、後援会から講演を頼まれていてね。義道君、そろそろ本題に入ろうか」

「先生は昔、『正義は弱者のためにあればいい、最後の受け皿として機能するだけでいい』と仰っていました。その『消極的正義』は今もお変わりありませんか?」


 一馬は鈴の墓を見た。


「私の考えは変わってないよ。一方的な正義は人を傷つけるだけだからね」


 上泉はうなずくと、これまでの経緯を話した。


「それは本当かね?」

「残念ながら。詳細については葉室という警視正に聞いてください」


 一馬は困惑している。


「……剛心と言えば日本でも有数の大企業。その大企業がそのような非人道的な犯罪に手を染めているとなると……」

「国益を損ねることになります」

「そうだね。慎重に取り扱わないといけないね」

「はい。剛心の不正を暴くにしても、その影響は最小限に抑えるべきです」

「つまり、受け皿を用意しろ、ということだね?」

「そうです。荒神銀行月代支店にルイス・ベントレーというイギリス人投資家がいます。彼と連絡を取ってもらえれば方策を立てやすいかと思います」

「わかった」

「それからもう一つお願いがあります。僕は宗像源蔵に言いたいことがあるんです。彼と直接会えるよう手筈てはずを整えてもらえませんか」

「会ってどうするつもりだい? 説得するつもりかい?」

「いいえ、説教します」


 一馬は楽しそうに笑った。


「そいつは面白い! よろしい、こちらで何とかしよう」


 再び腕時計を見た。


「もう時間だから行かねばならないが、またいつでも連絡しなさい。義理とはいえ私たちは親子なんだからね」

「……はい」


 一馬は帽子を被ると、墓地の駐車場に向かって歩き出した。

 途中、何を思ったのか立ち止まり、引き返してくる。

 上泉のもとまで戻ってくると言った。


「いつか君に言わねばならないと思っていたことがあるんだが、この際だ、娘の前でもあるし、言っておこうと思う」

「はい?」

「君はまだ若い。もし良い人がいるのなら、娘のことなど気にせず、もちろん私たちにも遠慮することはない。自分の思うようにしなさい」


 上泉は鈴の墓を見た。


「先生は僕と初めて会った時のことを憶えていますか?」

「ん? ああ、憶えているよ。鈴から紹介したい男がいるからと聞かされ、どんな男が来るかと思えば、教え子で、高校生で、まだ少年ではないか、あの時は頭の中が真っ白になったのを憶えているよ」

「先生は会うなり、すぐに反対しました。それは鈴が教師で、僕が生徒だったからですか?」


「もちろんそれもあったが、それだけではないよ。私が反対した一番の理由は、あの子が病弱だったからだ。今思い返せば親のエゴだったが、娘にはどうしても長く生きてほしかった。だから政治の世界にも巻き込まなかったし、教師になりたいと言ったときも反対した。教師は大変な仕事で絶対苦労するとわかっていたからね。けれど、それでもあの子は教師になった。そして君を連れてきた。教師と生徒の恋愛はタブー、ましてや結婚となると、どれほどの困難や苦労が待っているか、それを考えただけで私の胸は張り裂けそうだったよ」


 二つの花束が風で揺れている。


「でもね」


 一馬は優しく笑った。


「同時に嬉しくもあったんだ。いつ死ぬかわからない病弱な娘など、誰も貰ってはくれまいと勝手に思い込んでいたからね。君は娘に女としての喜びを与えてくれた。それだけで私は十分感謝している。だから君には是非、幸せになってほしいんだ」


 上泉は再び花束に目を落とした。


「先生、僕が鈴に初めて贈った花もこのような青いバラでした」

「知ってるよ。あの子が嬉しそうに話していたからね」

「青いバラには二つあります。一つはバイオテクノロジーで生み出されたキメラ、もう一つは白いバラに青い染料で着色した加工品です。僕が持ってきた青いバラは加工品で、先生のも同じく加工品です」

「そうだね。鈴はこちらのほうを気に入っていたからね。バイオテクノロジーに比べて、こちらのほうが色鮮やかだから、かもしれないね」

「色もなき心を人に染めしより移ろはむとは思ほえなくに」

「それは紀貫之だね」


「先生、恋をしたら、その人の色に染まり、一度染まったら二度と戻らない。それが人間というものです。僕が神だったら鈴を蘇らせて未来永劫一緒にいるでしょう。動物だったら鈴のことなど忘れて別の女性と添い遂げるでしょう。でも、やはり僕はただの人間だったようです。なぜならここに――」


 上泉は自分の胸に手を当てた。


「鈴の色に染まった心があるから」


 一馬は驚きの表情を浮かべた。

 すぐに哀しみの表情へと変わり、それを隠すように帽子のつばを下げる。

 唇を噛み、しばらくの沈黙を置いて、口を開いた。


「ありがとう義道君、娘をこんなにも愛してくれて……」


 涙が一筋、一馬の頬を滑り落ちた。

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