第2章 訪問者(2)

 昼間、剛心ビルの屋上に吹いていた風は程よく乾いていたのに、今は湿った風が吹いている。

 降り始めた雨はどんどん強くなり、激しさを増して土砂降りになった。

 走る車のエンジン音さえ雨音にかき消され、聞こえない。


 上泉はコンビニの軒先で雨宿りをしていた。

 手には薄いピンク色の傘を持っている。

 大鷲の自宅を出る前に円が貸してくれたものだ。


 上泉は傘を上下に振った。

 大粒の水滴がいくつか地面に落ちる――。




 ――冷めたミートパイにラップフィルムをかけた。

 グラスを全部洗い、台所をきれいに掃除した。

 上泉はエプロンを外し、折り畳んでリビングのテーブルに置いた。

 円に声をかける。


「円」


 円はテーブルに顔を突っ伏したまま動かなかった。

 先ほどから全く口を利いてくれない。


「僕は帰る。今夜はもう遅いから僕が出たあとに必ず施錠せじょうするんだ」


 円は返事をしなかった。

 上泉はリビングの神棚を見上げた。

 さかきが立てられている。


 きっと大鷲が買ってきたものだろう。

 深緑で勢いがあり、清らか、そして猛々しい。

 榊の葉が微かに揺れた。


 部屋に備え付けられたエアコンは動いていない。

 それでも葉は揺れている。

 清らかな風が吹いている。

 きっとこの風は、悲しみに打ちひしがれるこの家の主を励ますために吹いているのだろう。

 上泉は玄関に向かい、靴を履いた。


「義道」


 円がリビングから出てきた。

 目の周りが涙で濡れ、化粧が崩れている。


「傘持っていって、さっきテレビで雨が降るって言っていたから」


 靴棚の隣に置いてある傘入れから薄いピンクの傘を抜いて差し出した。


「義道。私、それでも、私ね……」


 円は目を伏せたまま言葉を止めた。

 上泉は傘を受け取る。


「ありがとう、円」


 それからマンションの表に出て、徒歩で自宅アパートに帰ろうとしたのだが、途中、円の言う通り、雨が降り出した。

 借りた傘を差し、そのまま歩き続けたものの、あまりの土砂降りにバイパス沿いのコンビニに引き返し、雨宿りをすることにした。


 上泉は客の邪魔にならないよう、コンビニの出入り口から離れた場所に立ち、雨の勢いが衰えるのを待った。

 待っている間、コンビニの駐車場は車が入れ代わり立ち代わり、客も次から次へと店に出たり入ったりを繰り返している。


 時間を確認しようと腕時計を見る。

 濡れて文字盤がぼやけている。

 上泉はハンカチを取り出し水滴を吸い取った。

 上着の水滴もハンカチで払い除ける。


 改めて雨を眺めた。

 雨粒がアスファルトで弾け、霧状になって空中に舞い上がる。

 コンビニの照明に照らされ、白く輝いている。


 その様を眺めている内に、上泉は昔、神社の境内で雨に打たれていた女性の姿を思い出した。

 あの時は今の雨と違い小雨、まだ降り始めだった。

 高校の転校に伴い、上泉は下宿先である大鷲の家に挨拶に行った帰りだった。

 駅に向かう途中、空が曇り、雨が降り出した。


 心地よい、音もなき静かな雨に打たれながら、しばらく歩いていると、天から鈍い風の音が聞こえた。

 仰げば雲の切れ目にうねる巨大な蛇の影を観た。


 カラスの鳴き声が聞こえた。

 目を向けると、道路沿いの電柱に三本足のカラスが止まっているのが観えた。

 カラスは一声鳴き、飛んで、一つ先の電柱に止まった。

 上泉が近づくとまた鳴いて飛んだ。


 そうやって誘導され、ふと気づけば、上泉は神社の鳥居の前に立っていた。

 石造りの鳥居で、苔が生え相当に古い。

 神社の名を表す扁額へんがくもない。

 鳥居の奥には上りの石階段が続いている。


 ここまで誘導したカラスに目を向ける。

 カラスは鳥居のそばの電柱に止まっていたが、一声鳴くと羽ばたき虚無に消えた。


 上泉は神社が気になり鳥居をくぐった。

 階段を上がり参道を進むと、拝殿はいでんの前に白い洋服を着た黒髪ショートの女性が傘も差さず、背を向け立っていた。


 上泉はその女性に声をかけた。

 女性が振り返る。

 濡れた黒髪が頬に張り付き、そのコントラストも相まって肌の白さが際立つ。

 鼻先から雫が落ち、焦点の合っていない瞳が上泉に向けられた。


「……あなた誰? なぜこんなところにいるの?」


 ――遠くからサイレンの音が聞こえた。

 救急車が赤い光を回転させ、コンビニの前を通り過ぎていった。

 次にパトカーが数台、中には覆面も含まれている。

 近くでサイレンの音が止まった。

 何か事故か、事件か……? 


「酒乱かよ」

「店員さん可哀想」


 そう言いながら若い男女がコンビニから出てきた。

 雨の中、自分たちが止めておいた車に向かい駆け出す。

 上泉は店内をのぞいた。


 雑誌を立ち読みしているスーツ姿の中年男性がレジのほうを見ている。

 どうやらレジで客と店員がもめているようだ。

 いや、もめているわけではないか、豪快な笑い声が聞こえてくる。

 どこかで聞いたような笑い声だ。


 もめていた客がコンビニから出てきた。

 金髪の外国人で、ぼさぼさの短髪、彫りの深い顔に不精ヒゲ、首元で緩められたネクタイ、カップ酒をちびちび飲みながら上泉のほうに歩いてくる。


「ハロー」


 男が上泉に英語で話しかけてくる。


「お久しぶりだね」


 上泉は英語で返した。


「すまないが、僕は英語を話せない」

「まあまあ、そういうのはいいから」


 男は上泉の隣に立った。

 ふうっと息を吐き出す、酒臭い。

 上泉は聞いた。


「何の用だ? なぜ君が日本にいる?」

「ビジネスだよ。ボスが日本の企業と取引をするのさ」

「彼女が?」

「そう彼女が」


 男はカップ酒をぐいっと飲んだ。

 目を瞑り、唸る。

 息を勢いよく吐き出した。


「はあ、おいしいね」


 上泉は男からコンビニの駐車場に目を向けた。


「一体、何をするつもりだ?」

「気になる?」

「いや、全然」

「まあまあ、気になるならこちら側においでよ。英雄殿ならいつでも歓迎するよ。俺たちと世界を救おうじゃないか」

「……僕はいかない」

「理想論ばかり語る貴族の道楽につきあうよりも俺たちと一緒に行動したほうが英雄殿には合ってると思うけどな。邪神討伐の時みたいに」

「彼女の思想は理解している。が、断る」

「ボスが会いたい、一緒にいて欲しいと言っても?」

「彼女はそういうことを言う女性ではない」

「さすがだね、ボスのことなら何でもわかるんだね。宿命のオリジン」

「それは関係ない。同じ大学に通い、同じ教授のもとにいたんだ。ただそれだけだ」

「全く素直じゃないね、お互いに」


 男は酒を飲み干した。

 空の瓶を振り、中身を確認する。


「それにしても最高だね日本は、こうやって二十四時間いつでも酒が買えるし、こんな風に外でおおっぴらに飲めるし、おお、来た来た」


 タクシーがコンビニの駐車場に入ってきた。


「じゃあ俺は帰るよ。ホテルに残してきた人たちもいることだし、今頃、怒られているだろうし」


 男は空き瓶にふたをして上泉の足元に置いた。


「またね、英雄殿」


 男は雨の中を駆け出した。

 タクシーのドアが開いて乗り込んだ。

 タクシーが進行方向を変えるためバックしてハンドルを切る。


 上泉は空き瓶を拾い、コンビニのゴミ箱に捨てた。

 雨の勢いが弱まる。

 上泉は傘を差し、コンビニの軒先から一歩踏み出した。

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