第2章 訪問者(3)

 玄関のポストから新聞を持ってきてテーブルに置いた。

 椅子に座り、テーブルの向こう側に置いてあるもう一つの椅子を見る。

 かつてその椅子に座り『おはよう』と言った人間はもういない。

 上泉は朝起きて、この誰も座らない椅子を見るたびに彼女は死んでしまったのだと再認識する。

 それは上泉にとって哀しみを覚える瞬間であり、寂しさを覚える瞬間であり、愛を知る瞬間でもあった。

 今朝も昨日と何ら変わらず。

 二人で住んだ日も、一人で住んでいる今も、夜明けと共に愛を知り、新鮮で色褪せない一日が始まる。

 何も変わらない。

 上泉は出社の支度をするため腰を上げた。

 雨に濡れ、部屋干ししておいたスラックスなどを洗濯し、ベランダに出した。

 シャワーを浴びる。

 ドライヤーで髪を乾かし、整髪料で髪型を整える。

 ヒゲを剃り、クリームで保湿する。

 冷蔵庫から卵を取り出した。

 フライパンで焼いて目玉焼きを作り、トーストをオーブンで焼いた。

 皿に取り、テーブルに並べると、椅子に座り、ゆっくりと食べる。

 トーストにはバターを塗り、目玉焼きには塩コショウ、グラスには牛乳を注いで飲んだ。

 食べ終え、すぐに歯を磨く。食器を洗い、寝室で着替える。

 のりの利いた白いワイシャツを着て、エンジのニットタイをオリエンタルノットで締める。

 腕時計を手首に巻きつけ、濃紺無地のスーツを着て姿見の前に立った。

 シルエットを確認する。

 イギリス留学中に滞在した屋敷の主、アーサー・エイジスから貰ったスーツはブリティッシュ・トラディショナル・スタイルで、エイジス家お抱えの職人に仕立ててもらったものだ。

 日本に帰ってきてからは毎年四月と九月に同じものが送られてくる。

 どちらも生地は同じなのに夏は涼しく冬は暖かい。

 上泉は今年の四月に届いたばかりの上着に袖を通し、前のボタンを留めた。

 今、鏡に映っている男がほんの少しだけ増しに見えるのは伝統の重みと職人芸のおかげだろう。

 上泉は寝室を出て台所に入り、ヤカンでお湯を沸かした。マグにドリップコーヒーを入れ、リビングに移動、一口飲んだあと、テーブルに置いて新聞を開いた。

 一面から目を通す、深読みはしない。気になるところだけ拾い読みする。

 社会面の事件欄に小さな記事が載っている。


『男性死亡、ひき逃げか? ――昨夜、月代市東町にある横断歩道で、同市会社員大鷲紀人さん(二十七歳)が倒れているのを通りかかったタクシーの運転手が発見、一一〇番通報した。大鷲さんは全身を強く打っており搬送先の病院で死亡した。月代東署はひき逃げ事件とみて捜査している』


 上泉は寝室の充電器から携帯電話を取り外し、リビングに戻ってきた。メモリーを探りながらリビングの窓に向かって歩く。

 円の電話番号を表示させる。

 窓の外からスズメの鳴き声が聞こえ、顔を上げた。

 窓の向こう、カーテン越しにスズメが二匹、アパートを囲む塀に留まっているのが見える。

 スズメは頭をきょろきょろと動かし、一羽が塀から飛び降りる。庭にある牡丹の枝につかまる。水飛沫がぱっと飛び散る。

 それから何度か枝の上で羽ばたき、体を安定させると、くちばしでつぼみをついばみ始めた。

 牡丹が激しく揺れる。

 あれはスズメが揺らしているのではない、牡丹自らが揺れているのだ。

 あの牡丹は隣の御婆おばばが育てている花で、毎年、見事な純白の大輪を咲かせるのだが、くすのきの日陰に根付いているせいか、遅咲きで孤独を好む性格だった。

 以前も、近くの神社にまつられている氏神うじがみが訪ねてきて無理やり咲かせようとしたが、その時にもこのような反応をしていた。

 上泉は昨夜の大鷲兄妹との会話を思い出した。


『妹を頼む』


 何をすればいい? 


『守ってくれる?』


 何から? 


 これは警察の仕事だ。家族でもない人間が首を突っ込むべきことではない。自分にできることは何もない。

 スズメが塀に戻った。

 もう一羽と並び、じゃれ合う。羽をばたつかせ、飛び去った。

 残された牡丹が静かに揺れている。

 あのつぼみがほころび、花を咲かせるとき、そこにどのような意味があるのだろうか。

 あの花は誰がために咲くのだろうか。

 上泉は壁際に置いてある中古のキャビネットに目を向けた。花の挿さっていない花瓶が置いてあり、傍らに木製の写真立てが置いてあった。

 手に取り眺める。

 スカートを着た、黒髪ショートの若い女性が上泉に寄り添い、手をつないでいる。

 上泉は女性の顔に埃が付いていたので指で払ってあげた。女性の顔は綺麗になった。笑っている。

 上泉は写真立てをしばらく見つめたあと、キャビネットに戻し、円に電話した。

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